ファイナンス 2018年8月号 Vol.54 No.5
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語を話せるのを誇りにしていると知っていることを述べたと記録されている*5。(9)条約交渉を終えてのフランス使節団の感想グロ男爵は、実質的な条約交渉が終わった後の10月6日にヴァレヴスキ外務大臣に宛てた書簡*6において、交渉経過を議事録を添えて報告しているが、元々仏側が提示した条約案は、イギリスのエルギン卿が日本と締結した日英条約とほぼ同一であっていかなる困難も惹起しなかったと記している。一方で、議事録を付していることを紹介するくだりでは、○自分が我慢した辛い闘い*7と、自分が幸いにして得た良い結果とを知ってほしいこと○仮にイギリスのエルギン卿と同じく将軍及び幕府高官に条約交渉前に贈物が出来ていたなら、ワインの関税率を20%にできたであろうが、外務省資金局は自分が不可欠と述べた贈物を自分のパリ出発時に手渡すことはできないと考えていたこと、また、(関税率に関する)自分の要望が拒否され日本の全権委員に不満を述べたときに、イギリスと比べ自分たちに良い感触を持ってもらえていなかったことが分かったこと○エルギン卿の蒸気船の贈呈も日英和親条約よりは後の話であり、条約交渉前の贈り物は批判を生じさせかねない(ので今回は贈物をしない)が、条約批准時には友情と思い出の印(=贈物)が将軍にもたらされるだろうと日本側に言わざるを得なかったこと○その後は日本側と真実かつ友好的な親密さを築け、外国人に売却が禁じられている物やエルギン卿が手に入れることができなかった書類を手に入れたこと○外務省資金局は8ヶ月も遅れてから、江戸当局に渡すべき贈物として何が適当か聞いてきたが、相対的に小さな金額で、現在フランスが負っている好意的でない印象を消し去り、5年後の関税率再交渉時にはフランスの主要輸出産品の一つ(=ワイン)に課されている高額な関税の引下げを獲得できると確信していること*5) 前掲ド=モジュ著「1857年及び1858年における中国及び日本使節団の回想」303頁。*6) グロ男爵からヴァレヴスキ外務大臣に宛てた1858年10月6日付書簡(前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」35~45頁)。*7) 条約締結前の外出権の問題など日本側と揉めたことを指すと思われる。*8) グロ男爵からヴァレヴスキ外務大臣に宛てた1858年10月10日付書簡(前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」66~69頁)*9) 前掲フランシスク・マルナス著「日本で復活したイエスの宗教」第1巻346頁及び前掲L.ドゥブロア著「日本の布教」90頁(1858年12月16日付のメルメ=カション神父からリボワ神父宛て書簡)。が述べられており、将軍への贈物がなかったためにワインの関税率を35%から引き下げられなかったことを強く悔いている様子が分かる。また、グロ男爵が10月10日にヴァレヴスキ外務大臣に宛てた書簡*8では、条約交渉のときに問題になった条約の言語問題について○仏文2通、「通俗和文」(カタカナ文)2通、日本の「僧・当局のみ理解可能な和文」(漢字かな混じり文)2通、蘭文2通の条約を携えていること○今後生じうる解釈の相違を解決するための正文としての性質を両当事国の言語ではないオランダ語に与えざるを得なかったこと○一方で、フランス側で蘭文の作成を手伝ってくれる通訳がいなかったので(日本側通訳の)森山栄之助の善意に頼らざるを得なかったがすでに日米条約、日英条約、日露条約でも蘭文があり、実質的にそれと異なることはあり得ないこと○とはいえ、江戸から上海に帰る途中、長崎に寄って出島オランダ商館長のヤン=ヘンドリック・ドンケル=クルチウスに仏訳を作ってもらい、蘭文が正確な翻訳になっているか確認しようとしていることを述べている。日仏条約の直前に、グロ男爵自身が締結した天津条約の第3条では中国語文と仏文の間での解釈不一致時は仏文が優先されると規定しているので、これと比較すると、解釈不一致時に第三国言語である蘭文が優先される日仏条約は、日本側の主張と努力が実った条文と言える。ただし、イギリスも、清との天津条約の第50条で英文優先を規定させた一方で、日英条約では蘭文優先の規定を認めているので、これとの並びでフランスが日仏条約で仏文優先を強いるのは困難だっただろう。一方、通訳メルメ=カション神父も、日仏条約の内容についてコメントを残している*9。まず、彼は、「日仏条約が、形式上いくつかの差異を伴うものの、日英条約のコピーである」と指摘しており、フランスが日本に提示した条約案は、最初に締結された日米条約ではなく、日英条約を参考に作られ ファイナンス 2018 Aug.27

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