ファイナンス 2018年8月号 Vol.54 No.5
30/88

在フランス日本国大使館参事官 有利 浩一郎7月号では、日仏修好通商条約交渉の交渉過程を説明したが、今回は、同条約の署名の模様と第3条までの内容を解説することとしたい。3日仏修好通商条約の交渉経過(8) 条約署名式(条約交渉会議第6回協議(10月9日))条約の和文、仏文、蘭文の条文が出来上がった*1ので、10月9日午後3時半から条約の署名が行われた。グロ男爵は封蝋とサイン、日本側の全権委員6人は筆で花押を記し、フランス側から日本側に4通のうち2通の仏文の条約が、日本側からフランス側に2通の漢字かな混じり文の条約が手渡され、蘭文は日本側からフランス側に2通が手渡され日本側には1通が残ることになった。さらに、第5回協議で日本側が手渡すのに反対したカタカナ文も、フランス側に2通が手渡され、フランス側は、日本側に配慮と礼儀をしっかり示す意図があることを意味していた、と記録している。続いて、グロ男爵が発言し、江戸会議の素晴らしい終結を祝した後に、日仏間で幸先よく開始されたこの関係が、日々より親密となり友好的となることへの期待が高らかに述べられる。また、日本の元首に対するフランス人民皇帝を駆り立てる好意の気持ちについて話した後、日本の6人の全権委員に対して、始まったばかりの新しい治世の繁栄をお祈りするとの言葉で発言が締めくくられる。*1) 前掲ド=シャシロン著「日本、中国及びインドについての記録」122頁には、「我々の通訳(メルメ=カション神父のこと)は条約の条文の翻訳のためにすごく働いた。日本人の森山も同じだけ働いた。」との記述がある。フランス外務省外交史料館に残る日仏条約の蘭文は美しいアルファベットの筆記体で書かれているが、これは蘭文を担当した森山の手によるものと考えられる。ちなみに、筆者の知るオランダ人にこの蘭文を見せたところ、大変分かりやすい文章だと言っていて、オランダ語についても森山の翻訳能力が高かったことを実感させられた。*2) フランス陸軍士官のクロード=エティエヌ・ミニエが1849年に開発したミニエ銃のことを指している。*3) グロ男爵からヴァレヴスキ外務大臣に宛てた1858年10月10日付書簡(前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」68~69頁)によると、グロ男爵は、将軍がイギリスのエルギン卿と同じ扱いを我々に認めてくれたばかりのときに、将軍からの狙撃銃が欲しいとの願いを拒否することはできず、ラプラス号のド=ケルジェギュ艦長に書簡を送って狙撃銃の贈与をお願いしたので、彼が海軍省から非難されないよう、ヴァレヴスキ外務大臣からアムラン海軍大臣にも説明をしておいてほしいと依頼している。また、同じ書簡では、日本側にミニエ銃を引き渡したのち、知的で器用な日本人の何人かは、フランス海軍を真似て本当に目覚ましい狙撃力をもって銃の練習をしたと書かれている。*4) 同上67頁。一方、日本の全権委員からは、グロ男爵の日本及び若い日本の元首(新将軍)に対する好意に対し感謝の意が述べられるとともに、将軍の名において、グロ男爵に対してある願いが表明される。それは、将軍が、見本用に狙撃銃を譲ってほしいと言っている、というもので、将軍がその銃をフランス人士官が発明したこと*2を知っているからだと説明される。グロ男爵は、国家の武器は売ってはならぬというフランス海軍の規則には反するが、自身の責任で、翌朝に無料で日本の士官に銃6丁を手渡せるよう手を尽くすと回答する*3。そして、グロ男爵は条約交渉会議の終結を宣言し、日本の全権委員たちは退出しつつ、グロ男爵に、日本の将軍からの贈物が置いてある場所へ来るよう促す。贈物は、グロ男爵、軍艦の艦長達、書記官、随員、通訳への43反の絹の反物であったと記されている*4。また、別れの挨拶の際、二番目の全権である永井玄蕃頭尚志が、○自身が既にフランス大使として指名されたこと(ただし実際に任命された形跡はない)○幕府がロンドン、サンクトペテルブルク及びワシントンに使節団を派遣すること○さらにフランスに行く場合には日本の軍艦と乗組員で向かうだろうこと○メルメ=カション神父に向かって微笑みながら、フランス語は欧州で最も普及した言語で皆がフランス日仏修好通商条約、その内容と フランス側文献から見た交渉経過(3)~日仏外交・通商交渉の草創期~26 ファイナンス 2018 Aug.

元のページ  ../index.html#30

このブックを見る