ファイナンス 2018年7月号 Vol.54 No.4
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頭が供用開始となります。公共埠頭が供用開始となったものの、苫東工業基地に思うような企業立地がなく、その利用は低迷が続き、港外で入船を待つ沖待ちが慢性化している西港に対して、東港の岸壁はガラガラの状態でした。こうした状況を打破するため、平成3年に東港の利用促進を図る調査・研究を委託し、東港も西港並みの静穏度を確保する防波堤の整備、後背地に流通センター機能の必要性などを盛り込んだ報告書がだされ、産業構造の変化に対応した計画の見直し、取扱貨物の拡大等の提言がなされました。その後、平成7年に開発計画が大幅に見直され、多様な機能が集積された総合的な港湾空間へと見直しが図られ、それまでの工業等専用港から国際流通港として位置づけされることになりました。その後の港湾計画においては、コンテナやシャーシなどの流通に対する機能への方向転換、4万トン級のコンテナ船が接岸できる岸壁の新設、新しい航路の開設、耐震強化岸壁の整備など、これまで西港が担っていた「物流拠点」を東港に転換させるような内容が盛り込まれていきました。苫小牧港(東港区)東港区には、石炭火力発電所、石油備蓄基地、コールセンターなどエネルギー関連企業及び自動車工業の立地に対応した整備と西港区と一体となった広域的な流通港湾としての機能拡充、強化を進めた結果、国際港湾として着実に発展してきています。(3)コンテナ物流時代の到来物流において荷姿をまとめ、標準化された形で輸送を行うコンテナ輸送は、苫小牧港においても、昭和49年頃から取扱量の大きな部分を占めるようになってきていました。昭和56年頃には年間の取扱量は49,000個弱、446,000トン強でしたが、そのほとんどは内航のコンテナ輸送でした。当時の苫小牧港では外貿コンテナは商港区南地区、内航の大型コンテナは工業港区中央北埠頭、内航の小型コンテナは勇払埠頭の3ヵ所に分散され、不便な面がありました。そこで管理組合は苫小牧港西港最後の水際線である勇払東埠頭をコンテナヤードとして整備し、増加するコンテナ物流と分散している取扱埠頭を集積することとします。勇払コンテナヤードは平成元年岸壁が全面利用可能となり、平成3年には荷捌き地の拡張工事も完成し完全供用開始となりました。その間にも物流はコンテナ化が加速しており、苫小牧港においても昭和63年7月に新興工業国(香港・台湾・韓国)、同年8月に北米、平成元年3月に東南アジア、平成2年9月に韓国釜山の国際定期航路が就航。平成6年10月に韓国定期コンテナ航路、平成8年1月に中国定期コンテナ航路が開設され、苫小牧港コンテナヤードの更なる拡張が求められていました。そうした中で、平成元年当時苫小牧港開港当初から移出の主力となっていた、道内産石炭の減少によりその役目を終えつつあった石炭埠頭(現入船埠頭)を、国際貿易埠頭専用の外貨コンテナターミナルへとの案が浮上し、西港の中でも一等地であった石炭埠頭がコンテナターミナルへと変貌を遂げます。工事は平成5年、大型コンテナ船接岸できるよう水深の掘り下げから始まり、平成9年2月岸壁及びヤード部分が完成しました。その後も、物流の中心がコンテナ輸送に変化していく潮流は変わらず、苫小牧港におけるコンテナの扱いが増えていくことになり、西港区におけるコンテナヤードの狭隘化、内航外航の船舶の増加、東港区の利用促進等も相まって、コンテナ機能の一部を東港に移し、平成20年国際コンテターミナル機能を全面的に東港区に移転させることとなりました。3現在の苫小牧港現在の苫小牧港は、西港区に飼料、木材チップ、石炭、機械、原油など工場等の後背地を抱えた工業港として、東港区はコンテナ、発電所燃料用の石炭など、92 ファイナンス 2018 Jul.連 載 ■ 各地の話題
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