ファイナンス 2018年7月号 Vol.54 No.4
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関東大震災芝浦に汽船が接岸して貨物の荷捌きに利用されるようになり、1922年(大正11年)には3,000トン級の船舶に対応する岸壁と泊地の造成を主体とした本格的な築港計画が隅田川口改良第3期工事として着手された。しかし、翌年の関東大震災によりこの工事は一時中止となった。震災によって東京の陸上交通は途絶したため、内外からの救援物資の輸送は船舶に頼らざるを得なかったが、東京港は水深が浅く、港湾施設も貧弱で、震災発生直後には救援物資を積載した船舶が100隻以上沖合に停泊し、満潮を利用し危険を冒して荷役を行うなど、救援船の入港と荷役は困難を極めた。関東大震災により、東京港の重要性を官民ともに痛感することとなり、東京港を近代港湾として整備する機運が高まった。1930年(昭和5年)には東京港修築計画が市会で可決され、東京港の修築事業が50年の年月を経て初めて東京市の正式な計画として確立した。1925年(大正14年)日の出に続き、1932年(昭和7年)芝浦、同9年竹芝の各ふ頭が相次いで完成し、3,000~6,000トン級の船舶が接岸できるようになり、ようやく近代的な港湾としての体裁を整えた。開港を目指して震災の復旧に伴い東京港は順調な発展を続け、国内屈指の港に成長した。しかし、開港していないため外国貿易貨物の大部分は横浜港からの艀による2次輸送に頼らざるを得ず、不経済で不便な状況が続いていた。そのため、東京開港の機運は急速に高まり、1941年(昭和16年)5月20日満州国、中華民国及び関東州の就航船に限るという制限付きではあったが、京浜港東京港区としてようやく開港が実現した。それも束の間、開港から半年後に太平洋戦争へ突入したため、東京港は軍専用のふ頭となり、終戦後はGHQに接収され、港湾機能は停滞を余儀なくされた。終戦後戦後、日本経済の復興戦略は、主要エネルギーとして石炭を傾斜生産するとの政策を受け、石炭ふ頭(豊洲ふ頭)が整備され、併せてガス及び電力の供給基地が建設された。さらに晴海埋立地の桟橋工事、品川ふ頭の造成が着手された。また、1950年(昭和25年)には港湾法が制定され、翌年、東京都が東京港の管理者となるとともに、東京港は特定重要港湾としての指定を受けた。一方、1951年(昭和26年)から接収解除が始まり、京浜間の艀による2次輸送方式を東京直入に切り替えることを目的に、港湾法に基づく初の港湾計画である「東京港港湾計画」が1956年(昭和31年)に策定された。1947年(昭和22年)※国土地理院刊行の空撮写真1956年(昭和31年)※写真提供 東京都港湾振興協会近代港湾目指して「もはや戦後ではない」との昭和31年度の経済白書のとおり、日本経済の高度成長とともに、東京への産業・人口の集中が加速され、膨大な生産・消費需要に必要な物資の流通基地として東京港の機能拡充が求められた。これに対応するため、1961年(昭和36年)「東京港改訂港湾計画」が策定され、物資供給体制の近代化、港湾機能の拡充等を基本方針とした2,243haに及ぶ埋め立て計画が進められることとなった。昭和40年代に入ると、アメリカで開発された海上コンテナ輸送方式が、コンテナ革命として急速に拡大した。東京港はこれに対応するため、品川ふ頭にコンテナバースを整備し、1967年(昭和42年)日本で最初のコンテナ船が接岸した。その後、コンテナ貨物の1932年(昭和7年)東京港平面図※写真提供 東京都港湾振興協会88 ファイナンス 2018 Jul.連 載 ■ 各地の話題

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