ファイナンス 2018年7月号 Vol.54 No.4
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連載 各地の話題東京港 今昔物語東京税関 総務部企画調整官目黒 哲巳東京東京港のはじまり東京の旧称・江戸の地名は、江の門戸説、江所説、江の湊説等諸説あるが、地形的にそこが“入り江の奥まった戸口”に当たるところからの命名というのが定説である。もともと江戸の地は、2000年ほど前までは海であった。その海が後退して湿化した陸地となったこの地帯を、いくつもの川が錯綜するように流れて、最後には隅田川となって海に注いでいた。その河口付近が「入り江」であり、その「戸口から奥まったところ」に位置するから「江戸」というわけである。東京港の前身、江戸湊は、1457年(長禄元年)に太田道灌が江戸城を築城した頃、海運上の必要から、江戸湾の入り江であった日比谷、丸の内付近に造られたと伝えられている。本格的に海辺の埋め立てが行われたのは、1603年(慶長8年)に徳川家康が江戸に幕府を開いてからで、江戸城の建設や市街地の造成にあわせ、江戸湊の整備が行われた。徳川幕府が安定するとともに急速な人口増加が始まり、これら人口を支えるため年貢米や生活必需品などが諸国から搬入されたが、物資の搬入はもっぱら水運に頼っていた。このような水運需要に対応するため、掘割や運河が整備され、河岸物揚場が多数設置されるなど、江戸湊は商都大坂にも劣らない水運の都として栄えた。黒船来航その後、泰平のうちに幕末を迎えることとなったが、1853年(嘉永6年)のペリー来航を機に開国圧力が強まり、約200年の鎖国の後、1858年(安政5年)の日米修好通商条約によって、神奈川・長崎・新潟・兵庫・箱館は開港、江戸・大坂は開市と約定された。1868年(明治元年)に江戸は東京と改称され、遷都が行われて日本の首都となり、近代化が急速に推進されることとなったが、海運・貿易の面では天然の良港をもつ横浜港が繁栄する一方、東京港は国防上の配慮や、物流形態の水運から鉄道への転換などにより江戸湊そのままであった。東京築港は、1880年(明治13年)当時の東京府知事が初めて提唱し、その後も歴代知事により東京築港計画が立案されたが、隣接港を圧迫する等の理由から立案しては立ち消えになることを繰り返した。東京築港反対論が起こる中、1900年(明治33年)に策定された計画案は衆議院の可決を得、ようやく実現されるかと期待されたが、横浜税関長を務めたこともある熱心な築港推進論者であった当時の東京市議会議長の暗殺事件が起こり、またも立ち消えとなった。明治30年代に入り、東京港の大規模な築港は将来に譲り、当面は事業範囲を限定して東京港の整備を一歩でも前進させようという現実的な考えがまとめられ、1906年(明治39年)に「隅田川口改良工事」として東京港築港の実質的な第一歩を踏み出すことになった。この工事は、航路の浚渫が目的であったが、浚渫土砂での芝浦の埋め立て・ふ頭開発が始まり、1917年(大正6年)に東京港に初めて鋼製の汽船が入港し、直接接岸した。1906年(明治39年)遠浅が続く東京湾※写真提供 東京都港湾振興協会 ファイナンス 2018 Jul.87連 載 ■ 各地の話題
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