ファイナンス 2018年7月号 Vol.54 No.4
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を求められました。一晩、必死で考えた後、留学の道を選ばせて頂いた私は、その旨報告すると、「わかった。あとは合格通知持ってきてね。それだけ」とそっけない返事(失礼な書き方で申し訳ありません)。どこかの大学を準備して下さり、行くだけかと思い気や、そんなに大蔵省は甘くない。その日から夜中の試験対策が始まったのは懐かしい思い出です。受験を終え、ようやくコーネル大学まで辿り着いた私への先制パンチは、PCルームでの出来事。教授に文章をPCで作成できるかと聞かれたので「Yes」と答えたあと、いざ文書を書こうとしたら、なんとそれはWindowsのWordを使用するものだったのです。読者の皆様には、Wordできないの? と思う人もいるかもしれませんが、ここで弁解させて頂くと、今でこそWordは当たり前ですが、当時、役所ではWindowsやOfficeは使っておらず、富士通のOasysというワープロ専用機しか使用していませんでした。国会用のポキポキ(現在この用語は使わないようですが、当時の大蔵省では大臣発言要領のことをこういっていました)もこれで作成していました。このため、教授から「君は文書作成できるといったくせに、嘘をつくな」と言われた私は「嘘は言っていない。Oasysなら使える」と反論すると、「Oasysって何だ?」といわれ、あとは無視、ひどい目にあいました。ワープロなどはそもそもなく、Wordが文書作成ソフトとして常識であった米国大学の世界では、日本の状況など関係なかったのでしょう。私がもう少し事前に郷に入っていればと今頃後悔しています。大学生活も日本の大学とは大違いです。日本の常識が通じない、或いは日本で経験したことのなかったことをいくつか挙げると次のようなものです。・キャンパスが広すぎて、自転車で行かないと次の授業に間に合わない。それを考えずに科目選択したのは自分の責任でした。・授業後に質問すると「なぜ、今頃質問して来るんだ。授業中に質問しなさい。そうしないと質問内容を全員で共有、議論できないじゃないか。後から質問に来られると、授業内容を思い出すのに私も時間がかかり、時間の無駄である」と教授に叱られました。・特に政治学の宿題は半端ではなく、最もハードだったのは、2週間以内に「指定の3冊を読み、内容をまとめた上で、自国とアメリカの比較を、シングルスペースで30枚以上書きなさい」という課題に加え、私には別途、「米国と日本の国税徴収制度を比較し、その分析と自論展開をせよ」という宿題が与えられ、1週間後、全員の前でプレゼンテーションをするというものでした。無茶振りの宿題は当たり前。・宿題がグループレポート作成の場合は、当然、グループで役割分担し、最後に持ち寄って完成版に仕上げるのですが、集合時間が異常でした。メンバーの都合に合わせて、朝4時集合。彼らには体力があります。・アメリカの大学は、入学は簡単、卒業は難しいといわれますが、まさにそのとおりです。修士論文は大変で、提出期限前の1カ月間で、私の体重は10キロ減りました。論文指導下さる先生も大変で、恩師Arch T. Dotson博士は、癌と闘病中にもかかわらず、毎週火曜日は朝8時から私の専用時間を確保下さり、またそれ以外でも昼夜を問わず、研究室、自宅で論文指導をして下さいました。こうした米国での勉強に忙しいなか、長女が生まれました。5月の卒業前の3月のことです。それから20年。先日、誕生日にプノンペンに来ていた娘と二十歳のお祝いを高級フランス料理店にてシャンパンで乾杯しました。娘にとって初のアルコールでした。コーネル大学の卒業式は、キャンパス内のアメフト場で行われるのですが、非常におおらかな卒業式で、私は娘を抱っこしながら行進し、式に参加し、修了証書を頂きました。ここで、アメリカでの出産事情を思い出すと、日本とはまた大きく異なり、「?」の連続でした。例えば、・出産直前に質問表を渡され、記入するのですが、その中の一つに「生まれる子の父親は誰か?」とあり、選択肢の一つには、「不明」という選択肢があり、びっくりでした。・父親の出産立会いは、当然の義務でして、私が躊躇していると「本当の父ですか」と疑われました。・生まれた直後、赤ちゃんの身体を洗う桶などの習慣がないため、トイレ横の普通の洗面台で適当にジャブジャブ洗い、「はいどうぞ」と渡されました。但し、綺麗には全く洗ってくれません。もっとも、70 ファイナンス 2018 Jul.連 載 ■ 海外ウォッチャー

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