ファイナンス 2018年7月号 Vol.54 No.4
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ら夏休みのプール生活が始まったのですが、1~2週間ほど練習したら、すぐに試合。しかも、タイム計測は手動ストップウォッチではなく、タッチすると100分の1秒まで計測できる電子掲示板方式。世界水泳大会でよく見るタイプです。小学生の町の大会でここまでいるの? と正直思いましたが、アメリカ人にとっては当然のこと、小さいときから大人と同じ環境のもとで慣れさせ、プライドをくすぐるようです。それで気を良くした娘は、鬼ごっこの感覚で人より早くタッチしたく、結果としてタイムが伸びたところ、コーチから私が呼ばれ、「あなたの娘をGale大学のスイミングクラブに入れようと思いますが、同意しますか?」と尋ねられ、本人の意思を尊重して行かせたものの、そこでのトレーニングは過酷。徹底的な少数精鋭主義で、毎日7キロ泳いだり、フォームを矯正したうえで徹底的にタイムトライアルを行ったり、凄まじいものでした。結果、日本に帰国する前のニューヨーク大会で総合成績2位となり表彰されたのは、良い思い出です。その時でも、子供の頭の上に月桂樹の冠を載せてくれ、娘はまさにオリンピックのメダリスト感覚でした。彼らは、子供たちに常に夢を与えようとしており、娘が日本へ帰国前の最後の言葉は「See you in Olympics」。日本であれば、何を言っているんだろうということでも、さりげなく、当たり前のように言うアメリカンスタイルには格好良さも感じました。ところで、アメリカといえば、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件は忘れることができません。実はその時、私はマンハッタンにいて、目の前でワールドトレードセンターが崩れていくのを目の当たりにした目撃者の一人なのです。留学先に立ち寄り、9月12日の飛行機で日本に帰国予定であった私は、マンハッタンのタイムズ・スクエアに宿泊していた時のことです。休暇だったため、ゆっくりとしていた私は、予定通り起床していれば、ワールドトレードセンターに行っていたかと思うとぞっとします。CNNニュースで遊覧飛行船が衝突? との第一報が入った後、私は娘を肩車し、近くの美味しいパン屋さんにチョコクロワッサンをのんきに買いに行っており、2機目が衝突した時の衝撃は今も忘れられません。米国大統領専用機エアフォースワンも大統領を乗せ、離陸し、緊急避難しました。当時3歳であった娘も、幼い心によほどインパクトが強かったのでしょう、当時のことをしっかりと覚えており、「このビルね、壊れちゃったの。煙がモクモク出て、お空が真っ白になっちゃったのよ」と後日、崩壊前のワールドトレードセンターの映像を見て言っていたのは心に響きました。その後、9月12日の搭乗予定であった飛行機は当然のごとくキャンセルされたため、翌13日にJFK空港に再び向かい、チェックインを済ませ、やっと飛行機に乗れると思った搭乗開始5分前のこと、突然、FBIと書かれた防弾チョッキを身に着けた屈強な警官が自動小銃の引き金に指を入れながら「空港は閉鎖した。すぐに空港から出て行け」と命令したため、「なぜだ」と問うた私に「No Reason」との強い口調とともに銃口を向けられたため、仕方なくホテルに戻ったり、日に日にマンハッタンから車がいなくなったり、全面飛行禁止区域に指定されたマンハッタン上空を米国空軍の戦闘機が、近づいてくる飛行機は民間機といえども全て撃墜せよとの指令を受け警戒したりと、多くの緊迫した現実のドラマがありました。当時は、目の前の出来事が現実のものか、テレビのドラマなのかわからなく時もあり、私自身相当混乱していました。この時、飛行機の予約は受け付けておらず、JFK空港で飛行機に乗れる人だけが乗るという状況下、私は最終的に空港を3回訪れ、、ようやく9月16日に日本に帰国でき、17日から財務省に出勤しましたが、朝の地下鉄の乗客が全員テロリストに見えたのは、今でも鮮明に覚えています。5 イサカ(ニューヨーク州)あるある物語~コーネル大学行政大学院留学編私の最初の海外赴任は、1996年からのニューヨーク州イサカ市にあるコーネル大学行政大学院への留学でした。留学前、TOEFLを受けたこともなく、またGREとは何? という状態から始め、合格通知獲得には大変な道のりでしたが、それを通じて得たものは非常に大きいものがありました。今振り返れば、当時大蔵省大臣官房調査企画課海外経済係長として勤務していた私は、突然人事担当企画官に呼ばれ、「留学と海外勤務どっちがいい? 明日までに答えてくれる?」とやさしい言葉で、重いこと ファイナンス 2018 Jul.69海外ウォッチャーFOREIGN WATCHER連 載 ■ 海外ウォッチャー
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