ファイナンス 2018年7月号 Vol.54 No.4
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問題は面接の時期ですが、ほとんどの国が自分の任期中の5月末までを望みました。論拠として自分が1年半前にした発言(「AMROの仕事を一番知っているのは所長で、どういう人間が必要かも一番分かっているはず」)を盾にとります。その会議では合わせて自分から「選考プロセスの後、所長、次長、チーフ・エコノミストは一つのチームを作るはずだから、良いチームを作り上げるため、例えば自分の弱いところを補うといった観点から所長が参加した方が良いチームができる」と発言しており、その意味で次期所長が採用した方が適当ではないか、と言っても聞いてもらえません*6。自分が気が進まなかったのは、手間の面だけでなく、この3つのポスト獲得への各国の意気込みが並々ならぬものであることが伝わってきていたからです。3つしかないポストに、10か国以上の国から応募者がありそうで、結果的には3つの国が笑い、少なくとも7つの国が泣きます*7。泣くだけならともかく、逆恨みが危惧されました。各国の決めたことには従わざるを得ません。やる以上は手順を定められた規則通りに、途中経過や面接結果もできる限り透明にすることで、丁寧に丁寧に採用パネル議長の仕事を務めました。やり出すとキリがない面があり、採用プロセスである2016年2月から5月までの間、レーム・ダックとは正反対の神経を使う日々が続きました。オフィスの中でも、前年の勤務評定とそれに基づく昇格やボーナスなどの決定と通知はその年の初めに終わらせていました。従って、所長としては飴も鞭も使い尽くした状態であり、徐々にスタッフが指示に従わなくなることを予期していました。ところが、経済レポートの作成も、総務系の仕事も、自分が国際機関移行準備で時間が取れなかったことを取り戻したいかのように、次々と案件が上がってきます。熱心な働きぶりは目を見張るものがありました。スタッフが東アジアの新しい国際機関を立ち上げるという事業に意気を感じてくれていました。物質的な対価を用いて組織を動かしているかのように考えていた自分の認識を恥ずかしく思いました。スタッフが本国当局へ転職することに複雑な感想を抱く(2016年)最後の年(2016年)はプロフェッショナルなスタッフの離職が数件ありました。AMROのスタッフは元の財務省や中央銀行の職場を辞めてAMROに採用さ*3) 数か国の批准手続きは残っていましたが、2月9日までに批准手続きが完了した国でAMRO(国際機関)を構成し、批准手続きが完了していない国は民間法人であるAMRO(カンパニー)の加盟国として、大きな意味でのAMRO(国際機関)とAMRO(カンパニー)の合同の意思決定に参画することを事前に決めていました。これも、欧州におけるEFSFとESMの並存体制の経験から取り入れた知恵でした。*4) 英語では同じdirectorですが、日本外務省による協定の定訳では「事務局長」となりました。本稿では読者の便宜を考え、この後も「所長」を用います。*5) 挨拶の全文はAMROのHPを参照ください。http://www.amro-asia.org/speech-by-dr-yoichi-nemoto-amro-director-at-amros-opening-ceremony/*6) 部分的には自分の主張も聞き入れられて、常チャン(次期)所長が3月に選出されて以降になりますが、次長、チーフ・エコノミストの面接に参加することとなりました。*7) ASEANと日中韓以外の国籍の者にも門戸を開放していましたし、また二つのポストに同じ国の出身者選ばれる可能性もありました。開会式の写真(2016年2月)写真提供AMRO ファイナンス 2018 Jul.57国際機関を作るはなしASEAN+3マクロ経済リサーチ・オフィス(AMRO)創設見聞録連 載 ■ 国際機関を作るはなし

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