ファイナンス 2018年7月号 Vol.54 No.4
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関移行予定日の2月9日は旧正月の真っ最中で、東アジアの多くの国では祝日にあたります。半年以上もくるくる変わる説明で各国を待たせたのだから、あと数日遅く提出してほしかったところでした。何はともあれ、ASEANと日中韓による設立協定の承認に到達することができました*3。国際機関としてのAMROが設立される(2016年2月9日)実際に設立の日付が決まると、AMRO(国際機関)設立初日の段取りを考えました。国際機関としてのAMROが設立された際には、どういう規則を採用するのか、まただれを新国際機関の長とするか、などについては新しい組織として改めての意思決定が必要になります。ところがD国の頑張りのため、国際機関発足日が旧正月の真ん中で、シンガポールを含む東アジアの多くの国が祝日で、物理的に集まるのは困難、という問題が出てきました。2016年のASEAN議長国のラオスが調整役を申し出てくれました。段取りとしては、2月9日早朝に、ラオスから各国に対し国際機関としてのAMROが創設された旨の連絡をすると同時に、AMROの規則と小職の所長としての採用を提案し、午前中に反対の意見が出されなければ採択されたものとすることを予め合意しておく、というものです。実は自分は財務省の課長時代に、ラオスが初めてASEANの議長国を務めた年(2005年)に日本が共同議長だった関係で、ラオスの財務省、中央銀行にはそれ以来の知り合いが多数いました。ラオスの旧正月は休みではなかったものの、2月9日の早朝から手際よく、場合により臨機応変に、議事を進行させていくのを見る(すべて書類のやり取りですから、正確にはメールの連絡を読む)のは、国際機関設立に加えて、それまでの10年間のラオス当局の行政能力の向上も目撃出来て、喜びもひとしおでした。2月9日はシンガポールでは連休の最中でしたが、昼過ぎには関係するAMROスタッフが自然にオフィスに集まってきました。簡単に乾杯をして、それまでの苦労を労うことができました。2年前の経緯から言って、誰が新国際機関の初代の所長*4になるかは揉めてもおかしくなかったのですが、自分の知る限り全く問題になりませんでした。6月からの新所長の選考に関心が向かっていたということでしょう。2月9日が旧正月の最中だったため、翌週末の2月19日に国際機関移行を祝う式典をシンガポールで開催しました。予定されていない時期の開催でしたが、ホスト国のヘン財務大臣を始め、ESMのレグリング総裁などの来賓、ASEANと日中韓の財務次官・中央銀行副総裁の参加がありました*5。何故かレーム・ダックにならず (2016年春)2月9日に向けて忙しく準備している間は、国際機関に移行した後は残りの任期も100日強となるし、関係国もスタッフも次期体制がどうなるかに関心が移り、これまでのように期限に追いまくられる生活からは徐々に離れられるだろう、と密かに期待していました。既に前の年の12月の代理級(財務次官・中央銀行副総裁)会議において、「任期の延長は求めず、2016年の5月末に離任したい」と発言もしていました。アメリカの大統領の2期目の終わりに用いられるレーム・ダックになるのもある意味当然で、不愉快なことがあってもできるだけにこやかに我慢しよう、と覚悟を決めていいました。AMROの外でも中でもこの淡い期待(と覚悟)は叶えられませんでした。ASEANと日中韓の当局との関係で言えば、任期中にあれも仕上げろ、これも仕上げろ、という注文が、経済の調査・分析の面でも、人事・予算制度の面でも、通貨危機時のAMROの業務の面でも出されました。一番気が進まなかったのは、チーフ・エコノミストと次長2人の選任です。当局間の議論の末、次期所長については、日中韓から3人、ASEANから3人の面接委員による選考パネルにより採用が進められていました。チーフ・エコノミスト、次長2人についても、同じく6人の面接委員にAMRO所長が議長として加わることは合意されていました。これについては前に述べました。なお、現所長は(新)所長の面接には参加しません。56 ファイナンス 2018 Jul.連 載 ■ 国際機関を作るはなし

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