ファイナンス 2018年7月号 Vol.54 No.4
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と、議論は次のとおりだったとされている*42。まず、日本側から、グロ男爵が求めていること(和文の条文の交付)の実現は不可能であるとの見解が述べられる。その理由として、人民は国事について知るべきではなく重要な物事は人々の目に触れないようにすべきという不変の規範がある一方、もしフランス側に和文の条文を交付すれば、それを人民に見せることができ、それは将軍の政策に反する点が挙げられている。これに対しグロ男爵からは、フランス側が条約の仏文を日本側に与える一方で日本側が条約の和文をフランス側に渡さないのは不公平であること、日本がフランスに対して義務を負うのは和文の条文によってであること、人民にとって利益になる日仏条約の条文を人民に見せない利点がよく分からずむしろ日仏条約が果実をもたらすことを妨げてしまうこと、そして、いずれにせよフランス側に交付された和文はパリの外務省資料館に所蔵され多数の人々の目に触れることはないことなどを述べて、日本側の考えは受け入れられないと述べている。これに対して、日本側からは、妥協案として、和文の条文に、「坊主文字」という、それ自身には意味がないが庶民の目をくらますことを目的として僧が用いる文字を挿入することが提案され、フランス側はこれは中身が知られないようにした暗号至急報のようなものだろうと理解する。そして、イギリスのエルギン卿も同じ条件で日英条約の和文を受け取ったことを知り、かつ、通訳のメルメ=カション神父が「坊主文字」を完全に理解すると言っていること、さらに「通俗和文」の条文について最終的に両国の全権が署名を行うこと、さらに実質的には蘭文が両国の権利義務を設定するものであることから、グロ男爵は、外交史の中で疑いなく斬新なこの奇妙な取極めを受け入れたと記録されている*43。ここで言われている「坊主文字」とは漢字のことでそれを挿入した文章とは「漢字かな混じり文」のことであり、「通俗和文」とは「カタカナ文」のことであ*42) 同上64~65頁。なお、同書に掲載されている条約交渉の議事録は書記官を務めたド=モジュ侯爵の署名入りのものが掲載されているが、前掲ド=シャシロン著「日本、中国及びインドについての記録」149頁以降においても署名のない議事録が掲載されており、両者の内容はかなりの部分同じである。しかしながら、日本側のフランス側に対する和文の条文の交付の議論については、ド=シャシロン著の方には全く記述がない。*43) 江戸会議第5回協議議事録(前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」65頁)*44) 同上66頁。なお、フランス外務省外交史料館に所蔵されている漢字かな混じり文2通、カタカナ文2通の条約の署名の順番は日本側が先、フランス側が後になっており、仏文2通についてはフランス側が先、日本側が後になっているが、前文でのフランス人民皇帝と日本大君の順番は和文・仏文のいずれもフランス人民皇帝が先になっていて、合意は必ずしも徹底されていない。ろう。推測するに、このやりとりの発端は、日仏条約について、フランス側の提示した、おそらくカタカナ文の日本語訳条約案に基づいて交渉が行われたことにあると思われる。一方で、アメリカ、ロシア、イギリス、オランダに対しては条約の和文として漢字かな混じり文を渡しており、カタカナ文は渡していない。したがって、このやりとりは、日本側が、条約交渉に用いたカタカナ文ではなく、他の国に対するのと同様に「漢字かな混じり文のみ」を和文の正文としてフランス側に渡すことを認めさせようとする交渉だったのではないかと思われる。一方で、フランス側はカタカナ文が条約の和文そのものだと思っていたので、書き方が複数通りあり、漢字かな混じり文が正式な文書に用いられる書き方であるという日本語の理解に頭が追い付かなかったのかもしれない(ただし、通訳のメルメ=カション神父は日本語に複数の書き方があることや漢字かな混じり文が正式な文書に用いられることは当然知っていたと思われるので、同神父が何らかの事情でフランス使節団に正確に説明しなかったかミスコミュニケーションがあった可能性もある)。この議論をもって、グロ男爵が日本側に提示した条約案に対し、日本側から、さらなる意見はないとの表明がなされ、条約案全体を承認するとの発言があった。そして、最速で条約の署名を行うこと、平等の考え方に基づいて、仏文ではフランス人民皇帝が先に登場しグロ男爵が日本側全権委員より前に署名する一方、和文では日本大君が先に登場し日本側委員がグロ男爵より前に署名するとともに*44、蘭文では4通のうち2通はフランス人民皇帝が先に登場し残り2通は日本大君が先に登場するといったことが取り決められ、協議は午後5時15分に終了した。32 ファイナンス 2018 Jul.

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