ファイナンス 2018年7月号 Vol.54 No.4
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になっているが、日本側は、日米条約及び日英条約を引きつつ、その部分に使われている和文の用語が前者(ア)については「居留」、後者(イ)については「逗留」となっていることを指摘する。この用語の違いは、江戸・大坂には商売を営むときだけ居住でき、商売をやめたら永住することなく退去すべし、というニュアンスから来ているのだが、グロ男爵は、この違いは純粋に理論的なものであり、いずれにしても外国人は商売を行うために居住できるのだからそれで良い、といって、日本側の主張を認め、「居留」「在留」と用語を使い分けることとした*27。その後の議論は、形式・様式の議論に終始し、グロ男爵の所掌を超えた日本語における用語の使い分けの話となったと記されている。例えば、日本国との「commerce」全般にはある用語が用いられ、それとは別に、ある町の「commerce」にはより通俗的な用語が用いられると日本側は解説したのだが、これは、前者は「交易」、後者は「商売」と条約上訳されている。フランス側は、日本の文字の話であって条約の実質には影響がないこうした主張を認めたと記しているが*28、実は、日本語とフランス語(より広くは西洋諸語)の単語が必ずしも1対1対応していないために、的確な訳語を見つけるのに苦労するという翻訳上の問題に行き当ったとも言える。続いて、日本側は、日仏両国が相互に外交官・領事を派遣し合う規定を見て、日本政府がパリに外交官を送ることを強制されるのかをグロ男爵に尋ねる。グロ男爵は、日本はそうする権利があり、フランス政府にとってはその方がうれしいが、それは日本側が決めることと答えている*29。現在パリにある日本国大使館の起源はまさにこの時議論された日仏条約第2条に基づいているのである。その次に日本側がグロ男爵に尋ねたのは、日英条約の発効日が1859年7月1日から、日米条約が同年7*27) 江戸会議第2回協議議事録(前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」54頁)。なお、日米条約第3条、日英条約第3条、さらには日蘭条約第2条及び日露条約第6条の和文では江戸・大坂への「逗留」と規定されているのに対し、日仏条約第3条の和文のみが江戸・大坂への「在留」と規定し、用語の統一がとれていない。*28) 同上54~55頁。*29) 同上55頁。*30) 同上55頁。*31) 7月14日の革命記念日(パリ祭)は大変有名だが、これが国民的祭日になったのは、第三共和制発足直後の1880年からに過ぎない。一方で、現代のフランス人には、19世紀半ばにおいて、8月15日が現在の7月14日に代わる国民的祭日だった事実はほとんど知られていない。*32) 江戸会議第3回協議議事録(前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」56頁)。*33) 同上56~57頁。日本は当時、日本人の海外渡航をまだ禁じていた。月4日からとなっているのに対し、日仏条約案では同年8月15日となっている理由である。グロ男爵は、○日英条約の日付には特に意味がないが、先に締結された日米条約の7月4日としなかったのは、アメリカがイギリスから独立した記念日であってイギリスにとって嫌な時代を思い起こさせるからであろう、と解説した上で、○日仏条約案はそれよりも発効日を遅らせているが、これは8月15日のナポレオン祭と日付を一致させるためであると述べている*30。実は、この日は皇帝ナポレオン一世の誕生日(1769年8月15日)であり、皇帝ナポレオン三世が1852年に導入し普仏戦争勃発前年の1869年まで続いた国民的祭日となっていて、現在の7月14日の革命記念日(パリ祭)に相当する日であった*31。日本側はこの趣旨を理解し特に反対せず、その後、いくつかの論点を議論して、第二回協議は午後5時に終了した。(5)条約交渉会議第3回協議(9月29日)第3回目の協議は、9月29日の午後2時から開始された。この日は、前日に続いて、条約案の第4条から第20条までを協議している。日本側は、条文について正確性と証拠に到達するまでの明白性を求め、この結果を求めるためにはどんなにくどくなっても構わないという態度だったため、各表現・各用語に、西洋列強の隠された罠が張られていないかを探しているかのようだったとフランス側は記している*32。続いて、日本に在住するフランス人による日本人の雇用やフランス船の水先案内人の雇用について、日本側からフランス側に対し、フランス人が日本を離れる際、日本人を連れて帰ったり、水先案内人が日本政府の手の及ばないところへ行ったりしないようにしたいとの求めがあった*33。また、フランスの提示した条約案には、キリスト教 ファイナンス 2018 Jul.29
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