ファイナンス 2018年7月号 Vol.54 No.4
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まず、全権委任状の交換であるが、すでにグロ男爵はその写しを井伊大老に書簡で提出していたので、再度ここで写しを示すことはせず、一方で、日本側の6人は写しをまず提示する。その後、グロ男爵は皇帝ナポレオン三世が署名した全権委任状の原本を見せ、これに対し、日本側も正式な文書の巻物を広げて見せ*20、フランス側はそこに新将軍の赤い印が押されていることを確認する。続いて、グロ男爵は、日本側全権委員に対し、フランス側が用意したメルメ=カション神父翻訳の条約案*21の(おそらくカタカナ文*22の)日本語訳を提示する。フランス側の議事録には、「日本側の全権委員は、この条約案を審査し彼らの見解を示さなければならなくなろうが、この条約案の条文は、日英条約及び日米条約に、若干の差異はあるもののすべて含まれており、日本側の見解はそれほど大したものにはならないであろう」と書かれている。この議事録の引用部分は、臨場感を持たせるために未来形で書かれていると思われ、実際には、この文章から、フランス側が用意した日本語訳の条約案に沿って交渉が行われたことが分かる。その後、話は阿片の話となる。グロ男爵から日本側に、フランス側の用意した条文に阿片に関する条項が含まれていないが、それは、フランスは阿片取引に縁がないためであって、日本側が希望すれば同条項を含めることは可能と提案する。日本側はオランダ、アメリカ、ロシア、イギリスとの間の条約で阿片禁止条項が含まれているので、フランスとの条約でもそうしたいと表明し、グロ男爵はこれを承諾する*23。続いて、条約の正文の言語に話が移る。実はグロ男*20) 同上52頁。Les japonais ont déroulé leur document ofcielと書かれており、déroulerという「巻物(英語でいうところのロール)を解く」という動詞が使われていることから、日本側の全権委任状は巻物になっていたことが分かるのである。*21) 同上52頁。Puis, l’Ambassadeur a remis aux Plénipotentiaires son projet de traité traduit en Japonais, an de faciliter et d’activer les négociations(そして、(フランス側)全権代表は、(日本側)全権委員に、交渉を容易にし活性化するために日本語に翻訳した自らの条約案を手渡した)とある。また、この翻訳をメルメ=カション神父が行ったことは、同上43頁に記されている。*22) 日仏通訳であるメルメ=カション神父は、皇帝ナポレオン三世の将軍への親書等をカタカナ文に翻訳しており(西堀昭著「フランス外交使節ジャン・バチスト・ルイ・グロ(1793-1870)について(1)」69頁、ブレンダン=ル・ルー著「『安政五ヶ国条約』を問うて」9頁)、条約交渉の際にフランス側が日本側に提示したメルメ=カション神父翻訳の日本語版は、彼の当時の日本語の水準から見て、漢字かな混じり文ではなく、カタカナ文に翻訳されたものとみてほぼ間違いないと思われる。そして、安政の五ヶ国条約のうち、日仏条約についてのみ、漢字かな混じり文のみならず、カタカナ文が条約として存在するのは、フランス側が当初日本側に提示したこのカタカナ文の条約案文の存在があったからではないかと思われる。*23) 最終的には、日仏条約に付された貿易章程第二則に日本への阿片輸入の禁止が規定された。*24) 当時、フランスの皇帝ナポレオン3世は、Empereur des Français、すなわち、フランス人の皇帝と呼ばれ、その呼称が日仏条約上も用いられているため、訳出に当たっては、フランス皇帝ではなく、フランス人民皇帝と訳した。*25) 江戸会議第1回協議議事録(前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」52頁)では、「それぞれの全権委員は互いに好意の挨拶を交わし初回協議の成功を祝った」と書かれているが、前掲ド=シャシロン著「日本、中国及びインドについての記録」154頁ではこの記述に続けて「実際には、(両者の)関係全体を見ると、日本側は冷ややかで気安くなく、グロ男爵も同じように振る舞わなければならなかった」とあり、両者は第1回の協議では打ち解けることができなかったようである。*26) 江戸会議第1回協議議事録(前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」54頁)も、前掲ド=シャシロン著「日本、中国及びインドについての記録」155頁も、問題なく採用されたのは、前文及び最初の「3条」と記録しているが、第3条は問題になったので、記録誤りと思われる。爵は、事前に日本側に対し、条約は、仏文、和文、蘭文で作成しようと言っていたのだが、グロ男爵が見つかると思っていたオランダ語通訳が江戸では見つからず、アメリカの下田総領事館にヒュースケン通訳官を求める時間を失うのがもったいないため、仏文及び和文のみで作成したいと意見を変える。また、フランス人民皇帝*24とフランス全権委員、日本大君と交渉参加した日本側委員の条約上での名前の引用の順番は、仏文ではフランス側を先に、和文では日本側を先にすることを提案する。さらに、両政府とも、一通は仏文、もう一通は和文の二通の条約を持つことも提案され、言語に関するこれらの提案は日本側に問題なく受け入れられて(ただし、実際は第4回協議で問題となり長い議論が持たれることになった)、午後3時半に協議を終了している*25。(4)条約交渉会議第2回協議(9月28日)第2回目の協議は、9月28日の午後2時から予定されていたが、実際には30分遅れで開始される。日本側は、前日にグロ男爵から手渡された条文案を精査していたので遅刻したと説明する。日本側は、全ての条文を審査し理解して、協議の間に見解を提示している。まず、条約案の前文及び最初の2条*26は日米条約及び日英条約に含まれていたためそのまま採用され、話は条約案第3条(開港・開市規定)に移る。この条では、一定の期日より後に、(ア)箱館、神奈川(現在の横浜)、長崎、新潟(開き難い場合は他の一港)、兵庫(現在の神戸)の5港を開港しフランス人の居住を許すほか、(イ)江戸及び大坂へのフランス人の居住も許すこと28 ファイナンス 2018 Jul.

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