ファイナンス 2018年7月号 Vol.54 No.4
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訳として出席している*10。この点に関し、ド=シャシロン男爵は、(日仏通訳としてメルメ=カション神父を得られたことは)フランス使節団にとって最も大事なことであり、イギリス使節団のようにアメリカの下田総領事館にいる通訳官(ヘンリー・ヒュースケン*11)に頼らなくて済むようになったこと、微妙さを伴いうる条約交渉の状況下では自分たちのリソースで生きていく方が何千倍もよいこと、日本側の日蘭・日英通訳の森山栄之助がメルメ=カション神父の通訳能力に驚いていた様子であったことを書き記している*12。さらに、メルメ=カション神父には下田奉行からその通訳の職務を補助するための一人の日本人部下を与えられていたとも記されている*13。一方、フランス側の記録では、日本側から、水野筑後守(忠徳)、永井玄蕃頭(尚志)、井上信濃守(清直)、堀織部正(利煕)、岩瀬肥後守(忠震)、駒井左京頭(朝温)が出席したとされており、日仏条約の仏文の前文においてもこの6人が日本側の全権として記載されている。しかしながら、同条約の和文の前文を見ると、最後の一人は、駒井左京頭(朝温)ではなく、野々山鉦藏となっており、また同条約に記された*10) フランシスク・マルナス著「日本で復活したイエスの宗教」第1巻(《“Religion de Jésus” ressuscitée au Japon》 par Francisque MARNAS)322頁では、メルメ=カション神父がリボワ神父に宛てた1858年7月27日付けの書簡の中で、同月に初めてグロ男爵と面会した様子を述べているが、グロ男爵は手短かつぶっきらぼうに「それで、君は自分が条約の通訳の役目を果たすのに十分な能力があると考えていますか」「条約というのは大変な仕事ですよ」「長い間の議論が必要です」「中国語は使えますか」「日本では外国人とのすべての条約の写しはその言語(中国語)で書かれているのですよ」とメルメ=カション神父を問い質し、同神父が「中国語を楽に読むことはできませんし、いわんや書くことをや、の状態です」「日本語は十分容易に話せますし書物も流暢に読みこなし始めたところです」と答えると、グロ男爵は「考えなさい、まだ何日かあるでしょう」と(中国語の学習を)命じ、その後、条約交渉時にキリスト教の問題に関し日本人に何を求めたら良いかグロ男爵が尋ねたので、同神父は自分の考えを(同神父のいうところでは)簡潔かつ明確に答えたところ、上海の暑さのせいでグロ男爵は自分の結論を最後まで聞いてくれなかった、と書いている。このように、グロ男爵とメルメ=カション神父はあまり良い形で出会わなかったようである。*11) ヒュースケンはオランダ・アムステルダム生まれで、両親がアメリカに移民してアメリカ国籍を取得し、その後通訳官としてハリスに採用されたが、フランス語にも通じていたとされる。*12) 前掲ド=シャシロン著「日本、中国及びインドについての記録」22頁及び71頁。*13) グロ男爵からヴァレヴスキ外務大臣に宛てた1858年10月6日付書簡(前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」43頁)。なお、このメルメ=カション神父を補助したのが誰だったかであるが、石原千里著「オランダ通詞名村氏―常之助と五八郎を中心に―」41頁では、オランダ通詞名村常之助について「日仏修好通商条約締結の際にもかなり活躍したようである。フランス全権公使グロ男爵は日本語を学んでいたカション…を通訳として条約締結に臨んだ。フランス使節は特に常之助に金三拾八両弐分永八拾文という大金を贈っている。これは銀銭五拾枚として常之助に渡された。また、カションもフランネルの襦袢、手遊目鏡、香水、スカーフを常之助に贈った。」とある。名村が下田詰であったこと、また、彼がフランス使節団から報酬を受け取っていることを考えると、グロ男爵が記した、下田奉行からメルメ=カション神父に通訳の補助として与えられた者は、この名村常之助だったのではないかと思われる。*14) 前掲ド=シャシロン著「日本、中国及びインドについての記録」149頁及び江戸会議第1回協議議事録(前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」47頁)。*15) 前掲ド=モジュ著「1857年及び1858年における中国及び日本使節団の回想」302頁。なお、同著では、日本では見張り行為は習慣化しており、合法的で公的なものであり、行政習慣の一部であって国内政策の要に位置付けられていること、大げさに言わなくても日本人の半分は残り半分の日本人を見張っていること、フランス使節団に付いている役人たちも、フランス人が散歩したり部屋にいたりするときに何をしているかを、持っている扇子に記録し、それを権限のある人に報告しているに違いなく、さらに日本側はこの報告を行う役人を見張るためにさらに担当を6人追加し、二重の見張りがついたとまで記している。 なお、この「見張り」文化に関しては、前掲オリファント著「中国及び日本へのエルギン卿使節録」第2巻144~145頁(仏訳版126~127頁)にも記載があり、将軍ですら厳しく見張られていること、すべての社会構造が根差す大きな原則は、個人の自由の絶対的な否定であること、皆が皆を監視していること、社会に対して害悪をもたらそうとした者は誰も罰から逃れられないこと、一方で、見張りシステムの利点として、政府の役人が実直であって腐敗させることは不可能であり、中国や一部の欧州の国と比べて日本は素晴らしい対照をなしていることなどが書かれている。*16) 日英条約の日本側の全権は最初の5人すなわち、水野筑後守、永井玄蕃頭、井上信濃守、堀織部正、岩瀬肥後守までは同じであり、6人目が津田半三郎となっている。日英・日仏の両条約は交渉時期が近接しており、全権を全員同じとする方が自然と思われるところ、6人目の全権が別の人物となっているのは、彼に条約の中身の交渉とは異なる何らかの任務が与えられていたからではないかと思われる。*17) 前掲オリファント著「中国及び日本へのエルギン卿使節録」第2巻176~177頁(仏訳版では153~154頁)では、日英条約交渉においても日本側の日英通訳を務めた森山栄之助について、英語について目立った訛りが一切ないこと、極めて長い単語を用いること、彼が英語は江戸の学校で習っただけで日本国外に出たことがないと言っているがそれは作り話でありアメリカで学んだに違いないと彼に聞き返したところ否定されたこと、ちょっと鼻にかかった英語をしゃべりアメリカ英語を学んだ教師から得たに違いない表現を使っていること等が書かれており、彼の実力をエルギン卿やオリファントが高く評価していたことが分かる。*18) グロ男爵からヴァレヴスキ外務大臣に宛てた1858年10月6日付書簡(前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」43頁)及び江戸会議第1回協議議事録(前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」48頁)。花押は仏文・和文ともに野々山鉦藏のものとなっている。この取り違えが生じた理由は不明であり、また第1回目の交渉に実際に二人のうちのどちらがいたのかも不明だが、フランス側の記録には、この6番目の奉行だけ病気にもかかわらず条約交渉に参加したいといって30分遅れてきたこと*14、彼だけは議論が白熱しても一言も話さなかったことが書かれており、さらに、フランス側は後に彼の名刺を見て彼が将軍に対して一言一句報告を行う「将軍の見張り」の肩書(これは「目付」のことと思われる)を帯びており、彼の役職の実際の性質と重要性を知ったとも言っており*15、こうした様々な特殊事情が名前の取り違えに何か影響しているのかもしれない*16。なお、日本側からは、これら全権委員に加えて、通訳として、上述の森山栄之助*17含め2人の書記官*18が出席している。会議の書記官を担当したド=モジュ侯爵は、この条約交渉会議を通じての感想として、会議は極めて活気に満ちたもので、それぞれの者が会議において相当な論点を持ち寄り、そして、フランス側はこの極東の国の人達の洗練さと能力に一度ならず感嘆した、と書いている。26 ファイナンス 2018 Jul.
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