ファイナンス 2018年7月号 Vol.54 No.4
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に将軍への贈物がないことを始終気にしていた心理状態をよく示しているエピソードではないかと思う。(2)フランス使節団宿舎の真福寺への移動9月26日、フランス使節団はついにラプラス号を離れ、江戸に上陸する。蒸し暑い日で、3艘のボートに分乗して陸を目指し、1時間かけて岸まで近づくも波が高く、グロ男爵はさらに漁のための小舟に乗り換え、最後は竹の梯子でやっとのことで上陸するというありさまであり、ド=モジュ侯爵は、その様子を「日本の古来の文明についに激しい戦いを挑んだ西洋文明を象徴するかのようだった」と記している*6。その後、漆塗りの駕籠(当時は「のりもん」と呼ばれていた)が用意されており、グロ男爵はこれに乗ったが、他の随員は、正座をして乗らなければならず快適でないため駕籠に乗ることを断る。そして、フランス国旗を掲げたフランス水兵を先頭に、グロ男爵の駕籠、その両脇を使節団の随員が徒歩で固め、一行は真福寺に向かう。すぐに人口の多い地域に来て、大きな鉄の棒を持った「金棒持ち」が道を開けさせて一行を先導する。そのうちに武家屋敷の一画に入り、より陰鬱で厳しく質素な雰囲気となり、これらの屋敷は装飾が施された建築ではあるものの、監獄の様式と同様のものであったと記されている。面白いのは、そうした武家屋敷の格子窓の後ろから、好奇心から男女問わず人々がフランス使節団一行を眺めていたと記されている点である。また、中国とはすべてが異なり、道は広く清潔で空間が多く、石が敷かれ、道路の横には澄んだ水が流れていたこと、家は平屋ばかりであったことなどが記されている*7。30分歩いて真福寺に入り、その直後に、日本側の全権の6人の奉行が訪れ、挨拶と同時に健康状態を聞いている。奉行のうちの一人は、シャン*6) 前掲ド=モジュ著「1857年及び1858年における中国及び日本使節団の回想」293頁。なお、グロ男爵は1793年2月8日生まれなので、このとき65歳であり、それもこうした描写につながっているのかもしれない。*7) 同上295頁では、当時の江戸の人口は250万人、面積は100平方マイル(259平方キロメートル)であると述べられている。ただし、根拠は示されていない。なお、人口について一般的な推計より多めの数字となっているが、これは江戸時代における江戸の人口については、町方(町人)の人口は数えられていたが、武家や寺社の人口は数えられておらず、そもそも日本側の統計の限界があった点に留意する必要がある。*8) 前掲ド=モジュ著「1857年及び1858年における中国及び日本使節団の回想」300頁。*9) 日英条約交渉のために江戸に赴いたイギリスのエルギン卿の個人的秘書を務めたローレンス・オリファント著「中国及び日本へのエルギン卿使節録」第2巻177頁(《Narrative of the Earl of Elgin’s mission to China and Japan》 Tome II by Laurence Oliphant(1859)、仏訳版《La Chine et le Japon, Mission du comte D’Elgin》(1860) Tome IIの153頁)では、日英条約(第21条)における幕府と英外交官との間の公式書簡のやりとりの言語に関して議論していたときに、日本側の全権委員の一人が、英語をその際の公式の言語とすることで構わない、なぜならイギリス人は日本語で書簡を書けるようになるのに何年かかるか分からないが、日本側に5年もらえれば、自分たちはイギリス側と書簡のやりとりをするのにかなり十分な能力を有するようになるだろう、と述べたとしており、天津条約交渉における中国側の態度と対比しうる、と述べている。この日本側の自信は、当時の外国語に対する興味関心の高さを表す一つの証左であると思われる。パンが大好きになってしまい、グロ男爵に飲ませてほしいとお願いしたりしている。真福寺の住環境については、まったく快適とは言えなかったようで、外気とは和紙で出来た単純な仕切り(おそらく障子のことと思われる)で隔たっているだけで、夜は寒かったようである。一方で、真福寺でフランス使節団の面倒を見ていた日本人は、極めて良い人々で、必要なものの次に快適さをもたらすことが出来る人たちであって、彼らは様々な方法で知恵を使っていたと記している。それに加えて、真福寺の多くの人が、ボンジュール(こんにちは)、ボンソワール(こんばんは)をフランス語で言うようになったこと、百までのフランス語の数字を数えられる人も現れたこと、彼らの学びたいという飽くなき意欲に応じるためにフランス使節団の人々が学校の先生になって彼らにアルファベットを教えたことも記されており、もしあと一か月長く江戸にいられたならば真福寺全体でフランス語だけしか聞こえなくなっただろう、とまで述べられている*8。鎖国から開国に向けて第一歩を踏み出した当時の日本人の外国語に対する渇望が感じられる極めて興味深い記述である*9。(3)条約交渉会議第1回協議(9月27日)さて、フランス使節団の江戸上陸の翌日、9月27日午後2時、真福寺にて、フランス側が「江戸会議」と呼んでいるところの、第1回目の条約交渉会議が開始された。フランス側からはフランス全権委員のグロ男爵、体調不良のド・コンタド子爵に代わってグロ男爵に書記官としての指名を受けたド・モジュ侯爵、これに、1855年2月から琉球に1年半超滞在して日本語が話せるようになっていたメルメ=カション神父が日仏通 ファイナンス 2018 Jul.25
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