ファイナンス 2018年7月号 Vol.54 No.4
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在フランス日本国大使館参事官 有利 浩一郎6月号においては、日仏修好通商条約交渉に至るまでの背景を説明したが、今回は、同条約の交渉過程を解説することとしたい。3日仏修好通商条約の交渉経過(1) グロ男爵からの6人の奉行に対する極東情勢及び条約締結の必要性の説明すでに、1858年9月22日に、日仏条約*1の日本側の全権となった6人の奉行が、フランス艦隊のラプラス号にやってきて、フランス使節団の宿舎の場所について議論をした話を述べたが、このとき、この6人の奉行はフランス使節団と軽食をとっている。実は、この6人は、9月20日に初めてラプラス号を訪ねたときは、将軍の死去に伴う喪に服しているといって酒食をとるのを断ったのだが、9月22日はグロ男爵に敬意を表してこの軽食の提案を受け入れる。そして、このとき、奉行たちは、特にシャンパンをかなり飲んだと記録されている*2。この軽食の際、中国の話題となり、グロ男爵は、まず、天津条約で開港することになった中国の港を地図で教えたり、ロシアと清の間で締結されたばかりのアイグン条約*3によってアムール川に隣接する地域がロシア領として占領されたことに触れつつその際のムラヴィヨフ東シベリア総督のやり方を話したりしている。さらに、英仏とロシアが戦争に至った原因やその結果、将来の見通しなどを話して、日英間で締結した*1) 以下、他に断りのない限り、日仏条約は1858年10月9日締結の日仏修好通商条約を、日米条約は同年7月29日締結の日米修好通商条約を、日蘭条約は8月18日締結の日蘭修好通商条約を、日露条約は同年8月19日締結の日露修好通商条約を、日英条約は8月26日締結の日英修好通商条約をそれぞれ指す。*2) 前掲ド=シャシロン著「日本、中国及びインドについての記録」75頁。シャンパンの話の次に「奉行たちの胃は、政治的であると同時に愛想の良いものである」と付け足している。またL.ドゥブロア著「日本の布教」(《Les Missions du Japon》 par L.Debroas)78頁では、日仏通訳メルメ=カション神父が中国等におけるフランスの布教活動を管轄していたナポレオン=フランソワ・リボワ神父に宛てた書簡において、シャンパンに関し、「(当時流行していた)コレラに関する会話の途中で、奉行の一人が自分の空のグラスとシャンパンの瓶にちらっと目をやりながら、真剣な顔で『シャンパンはもしかしてコレラの治療薬にならないか』と尋ね、皆が拍手喝采し、各人がこの美しい液体に最大級のお世辞を与えながらその実験をしたがった」というエピソードが載っている。*3) 1858年5月28日にロシアと清との間で締結。*4) 前掲ド=シャシロン著「日本、中国及びインドについての記録」77頁。*5) グロ男爵からヴァレヴスキ外務大臣に宛てた1858年10月6日付書簡(前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」41頁)。条約と同じく強固で誠実な条約を日仏間で締結する必要性があることを示そうとしている。その際の日本側の反応について、ド=シャシロン男爵は、○奉行たちは、グロ男爵の説明に始終うなずき続けていた○奉行たちは、特に隣国(清)に対するロシアの新たな平和的征服、日本と朝鮮の距離の近さに驚きを隠せなかった○海を挟んだロシアと日本の近さを具体的な海里を言って示したところ、奉行たちがしばらく沈思黙考してしまったと書き記している*4。そして、グロ男爵は、こうした重要な政策的論点に関する考えを日本側と話すことができ満足したようである。ちなみに、6人の奉行がラプラス号から陸上に戻るに当たって、日本側は日英条約の交渉に当たったエルギン卿から将軍に贈られた豪華ヨットをラプラス号に横付けしている。これを見て、グロ男爵は、日本側が、(贈物を渡していない)自分たちの振る舞いに対する非難の意図を示したか、又は自分たちの従うべき模範を示したかのいずれかだということについて疑念を挟む余地がないと書き記している*5。グロ男爵がいうように日本側がフランス側に暗に贈物を要求すべくイギリス贈呈の豪華ヨットを差し向けた可能性もないとは言わないが、このグロ男爵による解釈は、むしろ、グロ男爵が、イギリス使節団とは異なりフランス使節団日仏修好通商条約、その内容と フランス側文献から見た交渉経過(2)~日仏外交・通商交渉の草創期~24 ファイナンス 2018 Jul.
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