ファイナンス 2018年6月号 Vol.54 No.3
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両国を平和、友好及び通商の関係によって結び付けたいという考えを認め、そのために日本側の全権委員を任命したこと○将軍の死で江戸が喪に服しているので面倒をかけることを承知してほしいこととの内容であったため、グロ男爵はやっと満足する。ここまで見てきたとおり、条約交渉に至るまでに、さまざまな形式論で日本側はフランス使節団に対し交渉場所や交渉時期の先延ばしを図ってきており、一方で、フランス側からすると、すでにアメリカ、オランダ、ロシア、イギリスと条約を結んできているのに、なぜ同じ扱いをすぐに認めないのか、という苛立ちが相当あったと思われる。しかしながら、日本側には日本側の事情があり、それがこうしたフランス使節団の扱いにつながったのではないかとも思われる。すなわち、幕府は孝明天皇の勅許を得られないまま、1858年7月29日に日米修好通商条約を結んだ後、8月18日に日蘭修好通商条約、8月19日に日露修好通商条約、8月26日に日英修好通商条約と相次いで無勅許で条約を締結しており、こうした動きに対して、孝明天皇が9月14日に正式な手続を経ずに、幕府にではなく、水戸藩に対して戊午の密勅を下して日米修好通商条約の締結を批判したのである。朝廷が幕府の外交に対する姿勢を正面から批判して国内の攘夷の機運が盛り上がり始めた一方、こうした動きに対する井伊大老を始めとする幕府側の危機感も高まっていたまさにそうした時期に、フランス使節団は日本にやってきたのである。(注) 文中意見にわたる部分は筆者の個人的な見解であり、筆者の属する組織の見解ではありません。なお、文中の日付はすべて旧暦は用いず、すべて太陽暦を用いています。フランス使節団の宿舎となった真福寺(東京都港区愛宕) ファイナンス 2018 Jun.49

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