ファイナンス 2018年6月号 Vol.54 No.3
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フランス国旗を見れば、人心をかき乱すだろうと言ってきた。グロ男爵は、この知らせを「奉行は、自分の(江戸行きの)決心を諦めさせるこの知らせを、自分のためにもたらさなければならないと思っていた」と受け取り、奉行に謝意を示しつつも、弔意を示すためフランス国旗は喪の印としてマストに半旗で掲げるが、自分の(条約交渉の)使命は遅らせることはできない、と言って、やはり下田を発って江戸に向かうことを奉行に告げる。そして、下田到着から約一週間後の9月19日早朝、フランス使節団一行は、いよいよ日仏修好通商条約の交渉を行うため、江戸に向けて下田を出港した。(10)フランス使節団の江戸到着9月19日午後、半日の航海を終えて、フランス艦隊は江戸湾の台場の前に到着する。早速、数人の日本の役人がやってきて、神奈川(横浜)に向かうのであれば、歓迎するという書状を渡してきたが、グロ男爵は、神奈川ではなく江戸に上陸する必要があると言って断っている。翌9月20日には、後に日仏修好通商条約交渉において日本側の全権となる6人の奉行がラプラス号にやってきて、グロ男爵が江戸に上陸するのを諦めるよう説得にかかっている。まず、日本側は、将軍徳川家定の死去に伴う喪に服していることを理由に神奈川において交渉をすることを主張し、グロ男爵がそれを断ると、それではラプラス号の船上で交渉したい、と日本側は主張する。グロ男爵から、日本側はすでにアメリカ、ロシア、イギリスとは江戸での交渉に応じておりそれと同じことを自分は求めているのであって、将軍死去の喪があるからといって自分の意見は変わらないことを告げると、今度は、日本側から、江戸ではコレラが流行しており、1日数百人が死んでいると言ってきたので、グロ男爵からは、コレラは自分たちも知っている病気であり恐れるに足らずと返答している。*48) 前掲ド=シャシロン著「日本、中国及びインドについての記録」79~80頁。*49) グロ男爵からヴァレヴスキ外務大臣に宛てた1858年10月6日付書簡(前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」46頁)には返書の仏訳が掲載されており、署名していたのは、太田備後守(資始)、間部下総守(詮勝)、松平和泉守(乗全)、久世大和守(広周)、内藤紀伊守(信親)の5人だったと記されている。グロ男爵は、この5人について「老中又は外務省を構成するメンバー」と記しているが、これは外国御用掛老中であることを指しているものと思われる。この入口論のやりとりについてグロ男爵は「無駄な努力」、「止むことなく解決のない戦い」、ド=モジュ侯爵は「惨憺たる屁理屈」と言った言葉遣いをしており、相当辟易したようであるが、グロ男爵から、宰相(おそらく井伊直弼大老のことを指すと思われる)に対して書簡を書き、その返事の結果に沿って行動すると提案したところ、今度はその書簡をどう運ぶかが議論となった。日本側は書簡を受け取って自分たちが陸上に持っていくと主張、グロ男爵は全権委任状の写しを含む重要な書簡となるので、フランス使節団の書記官に陸上まで持っていかせると主張、これに対し、日本側が次の日に江戸市外の寺で受け取りたいというので、グロ男爵は「宰相がその日のうちに返書をしたためてくれるのであれば」という条件付きで、日本側の提案を飲み、9月21日に品川にてド=コンタド子爵とメルメ・カション神父が日本側に書簡を手渡している。9月22日には、改めて全権となった6人の奉行がラプラス号を訪問し、グロ男爵もこの6人を交渉相手方として認める。問題となったのは、宿舎の場所で、イギリスのエルギン卿が条約交渉のために滞在した宿舎(東京都港区芝2丁目の西応寺)は、仏事があって使えないので、ロシアのプチャーチンが条約交渉のために滞在した宿舎(東京都港区愛宕1丁目の真福寺)に滞在してほしいと提案する。フランス使節団は、エルギン卿から、プチャーチンの宿舎は江戸市外にあったと聞いていたので疑心暗鬼に陥るが、9月23日にド=コンタド子爵とメルメ・カション神父が先遣隊として宿舎を見に行ったところ、西応寺は海に近いところにあるものの人口稠密の地域にあり江戸城からも遠い一方、真福寺はむしろ江戸の中心にあり一種の広場を構成していて柵で囲われ控えめな環境にあることが分かり*48、グロ男爵も真福寺を宿舎とすることに決める。また、グロ男爵の書簡に対しては、日本側から5人の老中*49の連名で返書が届き、○フランス皇帝からの書簡(全権委任状)に同意し、48 ファイナンス 2018 Jun.

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