ファイナンス 2018年6月号 Vol.54 No.3
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の通常の煙草よりも相当質が悪いと述べている。食事の時間は正午から3時までかかり、グロ男爵は、「小皿と漆器腕に盛り付けられたたくさんの料理が次から次へと食卓に置かれ、日本料理のあらゆる優雅さが、味は見た目ほどには良くなかったものの、我々の目の前に広がった」と述べている。一方、ド=モジュ侯爵は「一般に日本料理は中国料理に類似するように見えるが、サービスと外観と清潔さとしては絶対的に優っている」「給仕人自身も二本差しで、新たな給仕の度に、中国の食卓では決して見られない、驚き及びちょっとした豪華さと優雅さの洗練があった」と述べ、また、ド=シャシロン男爵は「これらの料理のうちのいくつかは『食べられる』以上のもので美味しかった」と述べている。彼の記録によると、供された料理は次のとおりである*45。第一膳1.魚のスープ2.香草を添えた豚肉3.バニラを振りかけた栗のペースト4.刻んだハーブ盛りの細かく切られた茹で魚第二膳5.緑生姜と人参の盛られた魚6.細かく切られた大海老第三膳7.ギリシャワインのどろっとした風味の非常に熱い二種類の酒8.野菜スープ第四膳9.多年生で花の咲いた草を中心に添え様々な細工を施した、ボラの種類の大きな茹で魚第五膳10.米飯11.細かく切られた茹で鶏12.ラム酒のような3種類目の熱い酒13.茶グロ男爵は食事中に出てきた酒について「地元の酒が優雅な漆器の杯で振る舞われた」としか書いていないが、ド=シャシロン男爵は「自分は、胃に対して極めて暴力的でその上極めて不快な味がする酒だと思った」「これは、少量しか飲まなくとも直ちに酔いを起こさせるための合成の飲み物に違いない」と記し、ド=モジュ侯爵も「サケ、すなわち米のぬるい蒸留酒で*45) 前掲ド=シャシロン著「日本、中国及びインドについての記録」44頁。*46) パリに住んでいる人がパリジャン(男性形Parisien)又はパリジェンヌ(女性形Parisienne)と呼ばれるのは有名であるが、フランスでは、全く規則性もなく、全ての町についてそこに住む住民の名称が決まっている(リヨンであれば男性形はリヨネで女性形はリヨネズ、ニースであれば男性形はニソワで女性形はニソワズ)。面白いのは、ド=シャシロン男爵が、前掲著「日本、中国及びインドについての記録」の61頁に、下田の人々についてまで、Simodien(シモディアン、女性形の場合はシモディエンヌとなるであろう)という名称を与えていることである。*47) 前掲ド=モジュ著「1857年及び1858年における中国及び日本使節団の回想」289頁。とんでもない強さのもの」と記している。焼酎のような蒸留酒が振る舞われたのか、それとも江戸時代の酒が、ミリンなどにより近いもので、今の清酒とは異なったものだったのかは定かではないが、現代のフランス人が日本酒に対して抱いている誤ったイメージと同じことが書かれており、興味深い。また、前掲の料理の一覧には出てこないが、ド=モジュ侯爵は、「素敵な清潔さと完璧な味を伴った一切れの本当のガトー・ド・サヴォアに出会ったのが我々にとって大きな驚きだった」「この輸入はスペイン人たちの時代、すなわち2世紀前にさかのぼり、日本においてカスティランの名前で保存されてきたのだ」と記しており、カステラという洋菓子との出会いに驚いている。下田の人々*46について、ド=シャシロン男爵、ド=モジュ侯爵とも、衣服が単純だが清潔であることを書き記している。また、ド=モジュ侯爵は、日本人は笑っていて楽しそうで、自分たちが近づいて行っても満足していて女性たちはヨーロッパ人を見ても逃げないし、ぼろをまとったクーリーの一団に取り囲まれるようなこともなかったと述べている。また、下田の人々とは相当仲良くなったようで、ド=モジュ侯爵は、自分たちはあちこちで歓迎され、寺に入ったり家で茶を頂いたり、夜には月を祝って一緒になって歌ったり踊ったりしたと述べており、また、下田の人々は笑いながら「江戸に行ったらここと同じような気遣い・心遣いは見られないし、江戸の人々は荒っぽくて愛想が悪い」とも言っていたと述べている。また、「(下田を出港する)最後の瞬間まで、フランス艦隊の船の甲板の上はシャンパンやリキュールを飲みに来たり、機械や船のその他の部分を見に来て扇子の上に長いメモを取っていったりする人たちであふれかえっていた。」と述べ、日本人の教養を広めようとする態度を評価している*47。その後、9月17日には奉行がグロ男爵のところにやってきて、将軍徳川家定が亡くなったことを告げ、江戸で行われるであろう喪に続いて、見たことのない ファイナンス 2018 Jun.47

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