ファイナンス 2018年6月号 Vol.54 No.3
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話が若干逸れたが、ここから後は、これらの記録及びコルディエ著「フランスの日本との最初の条約」を見ながら、フランス使節団の動向や条約交渉過程について述べていきたい。9月6日に上海を発ってから約一週間、3隻の艦隊のうち、ラプラス号、プレジャン号は9月13日に、そしてレミ号は9月14日に、それぞれ下田に到着する。9月13日午前9時に下田に錨を下したラプラス号に乗っていたグロ男爵は、午後2時、アメリカ領事のハリスを訪問、午後4時*36、ラプラス号にて奉行*37の訪問を受け、奉行はグロ男爵に「将軍*38が病気で貴殿をお迎えすることはできないだろうし、貴殿も将軍に対して儀礼の挨拶しかできないのだから、下田から挨拶を送って無駄で労苦の多い旅行をするのはやめたらどうか」と言って、グロ男爵に江戸に赴くのを止めさせようとする。グロ男爵は、奉行に対して、自分は日本との条約交渉の全権を与えられており、江戸に行って宰相*39に自らの到着と自らの任務の目的を伝えなければならない等と伝えると、奉行は、グロ男爵の到着とその後の予定を江戸に知らせる時間を得るために数日出発を遅らせてほしいと求め、結局グロ男爵は9月19日まで下田に留まることになる。グロ男爵は実はハリスから13代将軍徳川家定*40が既に死去していることを知らされており*41、どうしてまだ公にしないのかの理由を訝しみながらも、奉行に対して将軍が既に死去していることを知っているとは言わなかったとしている。この奉行とその家来についてグロ男爵は満足し、「その良い作法や心地よい礼儀、彼らが見たものすべてに示す興味関心は、我々が中国で別れてきたばかりの民族よりもあらゆる点で優っている民族であること*36) ド=シャシロン著「日本、中国及びインドについての記録」34頁による。一方で、グロ男爵からヴァレヴスキ外務大臣に宛てた1858年10月6日付書簡(前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」37頁)では午後5時となっている。*37) この奉行の名前について、前掲ド=モジュ著「1857年及び1858年における中国及び日本使節団の回想」286頁には「なもらの・ねだんわの・かみ」とあり、前掲ド=シャシロン著「日本、中国及びインドについての記録」41頁には「なむら・ねだ・ぬあの・かみ」とある。当時の下田奉行に中村出羽守時万がおり、この名前を聞き間違ったのではないかと考えられる。*38) ここでは読者の便宜のため、「将軍」の語を使ったが、前掲ド=モジュ著「1857年及び1858年における中国及び日本使節団の回想」328頁に「ミカドの代理人、又は世俗的皇帝は、同時に大君であり将軍である。将軍とは軍隊の長、軍司令官の地位を指し、大君とは高位の判官の地位を指す。日本を語るあらゆる書物は彼のことを将軍という肩書によって指し示すが、その世襲制の宰相の能力のおかげで、能動的かつ軍隊的な性格は彼から徐々に失われ、我々の滞在中、大君以外の語で彼を呼ぶのを聞くことは全くなかった。したがって将軍という用語は、今日では存在しない状況に対応したものであり、今日では意味を失っている。」との記述があり、当時は、将軍ではなく、大君と呼び習わしていたようである。*39) 前掲ド=モジュ著「1857年及び1858年における中国及び日本使節団の回想」329頁では、現在の宰相は御大老井伊掃部頭(直弼)であると記されている。*40) 徳川家定の正室は、鹿児島の島津斉彬の養女である篤姫(家定の死後は天璋院)である。*41) ハリスは、イギリスのエルギン卿が江戸に到着した日、すなわち8月12日に徳川家定が死去したとグロ男爵に伝えているが、実際は8月14日。*42) グロ男爵からヴァレヴスキ外務大臣に宛てた1858年10月6日付書簡(前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」37頁)。*43) 前掲ド=シャシロン著「日本、中国及びインドについての記録」45頁では、ナイフ・スプーン・フォークは奉行がグロ男爵を招いた昼食会の最中に、ポケットに入れていたのをグロ男爵が奉行に贈ったとある。*44) グロ男爵、ド=モジュ侯爵とも、奉行は、9月13日の翌々日、すなわち9月15日の昼食に招いたと記録しているが、ド=シャシロン男爵は毎日日記をつけており、そこでは下田到着の翌日の9月14日に昼食会が行われたとされていることから、ここではそれに従う。を直ちに露わにした」と述べている*42。また、ド=シャシロン男爵は、奉行が装填された砲を動かしてみたいと言ったことや艦の機械を見に降りていったこと、そして驚いたことに、奉行とその家来たちが軍艦の技術的な詳細部分を知っているように見えたことを述べ、このことは、今後、(条約交渉過程において)似たような人々と厳しい戦いをしなければならなくなることを想起させた、と述べている。また、翌日9月14日には、魚、野菜及び果物、さらに和紙が奉行からグロ男爵に届けられ、グロ男爵はお返しに自分のイニシャルの入った金メッキのナイフ・スプーン・フォーク*43、自分が用いている宝石、喜望峰で買い求めたワイン(ヴァン・ド・コンスタンス)を贈っている。そして、その9月14日*44の昼、奉行はグロ男爵はじめ使節団と艦長を昼食に招く。食事の前に茶が振る舞われたが、随員のド=シャシロン男爵は、「砂糖も蜂蜜もなく、中国で出されるように、葉の全体が煎じられ液体に浮かんでいる」「自分についていえば、最も不快な苦さを飲料に与え、欧州で飲む味・匂い付きの茶を懐しませるようなこうした方法で茶を飲むのには慣れることが出来なかったし、今後も慣れることはないだろう」と日本の茶が自分の口に合わなかったと述べている。続いて、煙草が勧められ、ド=シャシロン男爵は、一つまみの煙草だけを入れられる火皿がついた煙管が出され、それには軽い金銀細工が施されており素敵な感じであること、また、日本人は才能のある労働者であり、偉大な芸術家の部類に属すに違いないことを述べている。煙草の質については、ある種の心地よい味であり、中国のような油分の多いものではないが、全体としてみればアメリカ産の煙草や欧州産46 ファイナンス 2018 Jun.

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