ファイナンス 2018年6月号 Vol.54 No.3
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巻頭言金メダリスト小平奈緒の成長を支えて信州大学 教育学部 教授、日本スケート連盟 強化コーチ結城 匡啓信州大時代からの教え子の小平奈緒が、指導13年目にして金メダリストになりました。帰国してみると、レース直後の静粛を促す“しーっ”のしぐさや、地元韓国選手との抱擁シーンが注目を集めていました。どのように指導すればこういう選手を育成できるのか、と尋ねられる機会がにわかに増えました。「ご両親のしつけがすばらしいのです」と即答するのですが、小平(本人)曰く、「大学での学びが深かった」ことも彼女の成長を支えているようです。これまで、信州大学は小平を含め3名のオリンピック選手、のべ19名の学生チャンピオンを輩出し、過去にはインカレで女子総合4連覇するなど、スピードスケートの強豪校の1つになっています。今でこそ小平のような先輩に憧れて受験する高校生も現れるようになりましたが、発足当初は、『信州大学でしか学べないスケート理論』が唯一の求心力となって志の高い学生が集まってくれていました。科学的に裏付けられた理論を背景に、学生(選手)にはスケートの技術を共通の言語で語れるよう、勉強会を繰り返します。選手には、練習前に意識したポイントと、滑走中に感じた運動感覚を言葉で表現することを毎日求めていきます。運動感覚は『身体の知』とも言われ、言語化することが難しいものです。しかし、敢えて選手にこの言語化を求めることで、自分と向き合う姿勢や、言葉で表現する力を培いたいと考えてきたからです。コーチングの場面では、常に自分で考え、自分で決めることを求めてきました。いつしか小平は私の存在について「信じてはいるけど頼ってはいない」と表現するようになりました。また、決して最先端のトレーニング施設が整っているわけではなく、手づくりで練習環境を整えてきた経験の中から、「与えられるモノは有限、求めるモノは無限」という彼女独自の名言も生み出されました。単身で渡ったオランダでは、言葉の通じない異国の地で寂しさと不安でいっぱいのとき、大学の授業で学んだ『なんくるないさ(=「なんとかなるさ」に近い意味)』の精神が彼女を勇気づけたそうです。私は競技会に向けて緊張が高まる選手たちに、「順位は周りが決めるから、自分の滑りの完成度を高めることに集中するよう」求めてきました。順位というのは、他との相対的な関係で決まるのであって、他の選手の出来栄えを考えたところで自分ではコントロールすることができない。それなら、自分がコントロールできることに意識を集中せよ、という意図があります。不安の多くは、自分がコントロールできない無駄なところに意識が向いているときに起こるからです。今回の五輪に向けても小平は金メダルを一度も公言しませんでした。「究極の滑りを目指す」という表現で滑りの出来栄えを高めることに集中していたからだと思います。ライバルの存在は、小平が自分を高めようと努力するために必要な存在で、切磋琢磨できる尊敬に値する存在に位置づくのです。五輪レース直後の小平の行動は、そんな信念から自然にでた敬意の姿なのです。机の上でしか学ぶことのできない理論や概念。一方で、教室を飛び出し、フィールド実践の中で深まる経験知。この両者を往還する過程に学びの深まりがあり、そこに大学教育の本質があるのではないかと信じてきました。今回の教え子の金メダル獲得は、私にそのエビデンスをくれたような気がしています。ファイナンス 2018 Jun.1財務省広報誌「ファイナンス」はこちらからご覧いただけます。

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