ファイナンス 2018年6月号 Vol.54 No.3
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勝利し、次は日本に来襲するかもしれないと言って先に友好国アメリカとの新条約の締結をした方が良いと日本側を説得し、同年7月29日に日米修好通商条約が締結される。一方、アロー戦争のイギリスの司令官エルギン卿及びフランスの司令官グロ男爵は、いずれも本国から日本との条約交渉の任務を与えられていた。グロ男爵は、アロー戦争における中国派遣艦隊司令官となっていたリゴ=ド=ジュヌイ海軍准将に宛てた書簡の中で、○英仏両本国が、エルギン卿及びグロ男爵の両全権間の協力が日本に対する交渉に力を与えその成功を確かなものとすると考えていること○アレクサンドル=コロナ・ヴァレヴスキ外務大臣*28は江戸幕府に印象付けを行うには十分な海軍力を伴う必要があると考え、フェルディナン=アルフォンス・アムラン海軍大臣*29に対し中国派遣艦隊司令官に指令を出すよう促したこと○一方で、(旗艦としてフランスのトゥーロンから中国に向けてグロ男爵を乗せてきたフリゲート艦の)オダシュズ号が航行不能な状態に陥っているため現時点でどのような準備が可能か教えてほしいこと○いつの時期に上海を発てるか(日本に出発できるか)教えてほしいことを述べ、早期に日本に発ちたい気持ちをあらわにしている*30。これに対し、リゴ=ド=ジュヌイ海軍准将は、1858年7月23日付のグロ男爵宛ての書簡において、○オダシュズ号は航行不能であり*31、カプリシュズ号、カティナ号、マルソ号の3隻の軍艦は広東防衛のために必要であること*28) ドルアン=ド=リュイス外務大臣の後任として1855年5月に外務大臣に就任。彼は、ナポレオン1世の庶子であり、その姿はナポレオン1世によく似ている。*29) デュコス海軍大臣の後任として1855年4月に海軍大臣に就任。*30) 前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」32~33頁。*31) アルフレッド・ド=モジュ著「1857年及び1858年における中国及び日本使節団の回想」《Souvenirs d’une ambassade en Chine et au Japon en 1857 et 1858》 par Alfred de Moges 241頁は、オダシュズ号について嵐に遭った後浸水が激しくなったため、1858年7月17日に揚子江・黄浦江の合流地点である上海近郊の呉淞において乗船継続を諦め、プレジャン号に乗り換えて上海に戻った、と記述している。なお、オダシュズ号は、上海近郊に十分に大きな適切なドックがなかったため、広州の黄埔にて修理され、日仏修好条約締結後に戦列に復帰。*32) 前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」33~34頁。*33) イギリスのエルギン卿は、1858年7月31日に上海を出港、途中8月3日に長崎に到着、8月10日に下田に到着、8月12日に江戸に到着し、8月26日に日英修好通商条約の締結に至っている。*34) コルベット艦ラプラス号はド=ケルジェギュ海軍中佐が艦長を務め、参謀に8人の海軍士官がおり、乗組員は130人。これにジャン=バティスト=ルイ・グロ男爵、アンリ=ガストン・ド=コンタド子爵・二等書記官(ただし、清仏間で署名された天津条約を持ち帰るためフランスに発ち日仏修好通商条約交渉に随行できなかったギュスタヴ・デュシェヌ=ド=ベルクール一等書記官の代理として一等書記官を代行)、シャルル=ギュスタヴ=マルタン・ド=シャシロン男爵・中国日本特命派遣随員、日仏通訳を務めるウジェヌ=エマニュエル・メルメ=カション神父が乗り込んでいた。通報艦プレジャン号は、オズリ伯爵が艦長を務めていた。汽船商船レミ号にはリュドヴィク=ジョゼフ=アルフレド・ド=モジュ侯爵、アルフレド=ド=ファイ・ド=ラトゥール=モブール伯爵、モルティエ・ド=トレヴィズ侯爵、エマニュエル=レモン=オギュスト・ド=フラヴィニ子爵の4人の随員が乗り込んでいた。*35) 筆者は現在パリにいるため、残念ながら原敬の翻訳を見ることはできないが、横浜開港資料館館報「開港のひろば」昭和61年第17号6頁「原敬と幕末の仏国使節回想録」(吉良芳恵)に一部掲載されている翻訳を見ると、なかなかの名訳である。○小型軍艦(コルベット艦)ラプラス号、通報艦プレジャン号、汽船レミ号は使用可能であること○それ以外の船は長年の懸案だったコーチシナ(ベトナム南部)派遣に用いる必要があること○イギリスのエルギン卿も結局は3隻の軍艦しか伴わないと聞いていること○ラプラス・プレジャン両号はすぐに出発可能、レミ号も2~3日中には出発可能な状況になることを伝えている*32。しかし、結局、イギリスに遅れること一か月以上*33たった9月6日に、グロ男爵が乗り込んだラプラス号に加え、プレジャン号及びレミ号の3隻*34が上海を出港して日本に向かうのである。(9)フランス使節団の日本上陸と下田での滞在1858年の日本へのフランス使節団の派遣については、全権代表であるグロ男爵が条約締結前後にヴァレヴスキ外務大臣に宛ててしたためた書簡、随員であったド=シャシロン男爵の著作である「日本、中国及びインドについての記録」及びド=モジュ侯爵の著作である「1857年及び1858年における中国及び日本使節団の回想」が詳しい記録を残している。なお、このド=モジュの著作のうち、日本について述べた第10章及び第11章については、後に平民宰相と呼ばれる原敬が、1889年8月から9月にかけて「東京日日新聞」(現在の毎日新聞)に翻訳を連載している。原敬は、フランス語に相当堪能であったようで、1885年から1889年にかけてパリの日本公使館に外務書記官として勤務し帰国した直後、この翻訳を手掛けたようである*35。 ファイナンス 2018 Jun.45

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