ファイナンス 2018年6月号 Vol.54 No.3
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狙ったのであれば*23、鎖国体制から転換して間もないにもかかわらず幕府はなかなかしたたかな外交を行っていたのではないかとも思える。(7)琉仏修好条約一方で、上述のとおり、1854年7月11日にアメリカのペリーは琉米修好条約を結んでいるが、それ以前のペリーの動向を踏まえ、フランスのテオドール・デュコス海軍・植民地大臣は同年1月ドルアン=ド=リュイス外務大臣に書簡を送り、アメリカの得る権益と同じ権益を得るべきであることから、そのために必要な措置をとるようレユニオン島・インドシナ艦隊司令官アドルフ・ラゲール海軍准将に指令を出したことを知らせている。同年6月には、デュコス海軍・植民地大臣は、再びドルアン=ド=リュイス外務大臣に書簡を送っており、イギリス政府が、小笠原諸島を占領しすべての国の船のための避難補給港を設置するとの提案に関しフランス及びアメリカと協議したいと言ってきたとの5月6日付の同外務大臣からの至急報について、その提案の可否に答える前に、○太平洋の琉球諸島や小笠原諸島の地域で頻繁に活動している多数の捕鯨船に鑑みれば、琉球諸島及び小笠原諸島に施設を設けることは極めて重要であること、○将来ホノルル・アメリカ西海岸と中国・日本を結ぶことになる定期船の休憩・補給地点として琉球諸島が重要であり、また太平洋におけるフランスの施設及びフランスの貿易一般の観点からしても恒久的施設の設置には現実の利益しか存在しないこと○この考えの下、ペリーが琉球諸島から得た利益と同様の利益をフランスが得ることを規定させられるよう、インド洋中国艦隊司令官に指令を出し、それを同外務大臣にも1月に伝えたこと*23) 前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」26頁では「日本人は、その後の朝鮮人と同じように、ある国を他の国と対立させることを可能とするために当該他の国との交渉を始めることを望んでおり」との指摘がなされている。*24) アンリ・コルディエ著「琉球諸島におけるフランス人」《Les Français aux îles Lieou K’ieou》 par Henri Cordier 419~421頁。*25) これは、フランス政府が外交官からなる使節団に交渉を行わせた日仏修好通商条約とは異なる点である。なお、琉仏修好条約の仏語文の前文を見ると、例えば、日仏修好通商条約(1858年)、清仏間の黄埔条約(1844年)・天津条約(1858年)、シャム仏間の平和通商航海条約(1856年)において見られるような、双方の元首が全権委員を任命し全権委任状の交換を行ったという記述が見られない。また、ゲラン司令官について漢語文上はフランス国皇帝の「欽使全権大臣兼理各国通商事務総領水師兵船提督軍門干爾杏(=ゲラン)」となっている一方で、フランス語では、「レユニオン、インド、中国及び日本艦隊司令官ゲラン准将(M. le Contre-Amiral Guérin Commandant en chef la station navale de la Réunion, de l’Inde, de la Chine et du Japon)」となっており、肩書が大きく異なる。*26) 仏語文上ではConvention entre la France et les Iles Lieou-tchou(フランスと琉球諸島との間の条約)。一方、漢語文上はタイトルが付けられていない。なお、琉仏修好条約の第二条で約されているフランス人に必要な土地・家屋・船舶の琉球側からの提供については、琉米修好条約においては定められておらず琉仏修好条約独自の条項となっている。ちなみに、この第二条について、「沖縄一千年史」(島倉竜治・真境名安興著)(1923)では、毛姓家譜を引用する形で、琉球側が土地・家屋の賃借は国禁に触れるので許可できない等と述べたため、ゲラン司令官が大声で一喝、随行していた兵員が抜刀して琉球側の談判委員を捕らえて戸外に連れ去ろうとし、最終的に琉球側がフランス側の主張を受け入れ条約の締結に至ったと記されている。*27) 琉仏修好条約については、その後、批准書の交換が行われていない。を述べ、その上で駐仏イギリス大使によるイギリス政府の小笠原諸島に関する提案に賛成であることを述べている*24。1855年に小笠原諸島の占領提案がパリにおいて英仏間で話し合われていたというのも驚きであるが、それに加えて、フランス海軍が琉球に対して極めて強い関心を抱いており、琉球との交渉は、外務省よりもむしろ海軍省が主導して進めようとし、しかも琉球への恒久的施設の設置にこだわっていたことが見て取れる。そして、1855年11月には、1846年当時海軍大佐として琉球に来たことがあるゲラン司令官がヴィルジニー号など3隻で琉球に来航して交渉に当たる*25。そして、同年11月24日、琉米修好条約では定められなかった土地・家屋のフランス側への提供やフランスによる貯炭場の設置を琉球側に認めさせ、琉球諸島への恒久的施設の設置という上記書簡の目的を果たす恰好となった琉仏修好条約*26が結ばれることになった*27。(8) 軍艦の故障で遅れたフランス使節団の 日本への出発1856年、アロー号事件に端を発して、英仏が清に出兵しアロー戦争(第二次アヘン戦争)が勃発する。このときのイギリスの司令官はエルギン卿ジェームズ・ブルース、フランスの司令官はジャン=バティスト=ルイ・グロ男爵で、いずれもこの後、日英ないし日仏の間の修好通商条約の交渉にあたることになる人物である。英仏は優勢に戦いを進め、1858年6月、清との間で、賠償金支払、外国人の旅行・通商の自由、キリスト教布教の自由、10港開港などを定めた不平等条約の天津条約を結ぶ。そして、アメリカは、下田総領事のタウンゼント・ハリスがアロー戦争において英仏が44 ファイナンス 2018 Jun.

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