ファイナンス 2018年6月号 Vol.54 No.3
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長期間の敵意が存在するのなら、むしろフランスが日本と先に関係を樹立するのには好都合であると述べ、再びド=ブルブロン公使に日本との交渉開始を指示するものの、ド=ブルブロン公使はその後も日本に対するアプローチを行っていない。(6) 日本と和親条約を結んだイギリスと和親条約を結べなかったフランスこのように、フランス側が日本との交渉開始を急かす外務大臣と交渉開始に後ろ向きな駐中国公使との間の書簡のやり取りでいたずらに時間を浪費する中、イギリス東インド・中国艦隊司令官のスターリングは、敵国ロシアの艦隊が日本との交渉を行っているとの情報をもとに、それを拿捕すべく、1854年9月、長崎に来航する。しかしながら、先述のとおり、プチャーチンの率いるロシア艦隊は4月に既に長崎を一旦去っていたため、スターリングはロシア艦隊が日本で補修や補給を受けられないようにするための交渉を長崎奉行との間で始める。スターリングの提案は、イギリスも含んで交戦状態にある双方が日本の港で補修や補給を受けられないようにすべき、というもので、日本に局外中立を求めるだけで条約締結を求めようとはしていなかったが、このときイギリス側が連れていた通訳の誤訳もあり、日本側はむしろイギリスがロシアに対する作戦のために日本の港を使用したいと言っていると誤解して議論が進んだ。しかも、日本側は、軍艦と商船の区別はしないで開港するという方針でおり、最終的にはスターリングもその考え方を受け入れた。こうして、箱館・長崎の2港開港と英国船に対する補修・補給を定め、通商規定は含まない日英和親条約が長崎奉行水野忠徳らとスターリングとの間で、1854年10月14日に締結された。実は、スターリングはイギリス本国から全権を与えられていない立場で交渉し条約を締結したが、イギリス本国政府もこの条約締結を追認し、批准手続に進んだ*19。*19) 日英和親条約の締結の経緯については、グレース・フォックス著「1854年の日英条約」《The Anglo-Japanese Convention of 1854》 by Grace Fox (Pacific Historical Review, Vol. 10 No. 4)(1941)及びウィリアム・ビーズリー著「大英帝国と日本開国」《Great Britain and the opening of Japan, 1834-1858》 by W.G. Beasley.(1951)の113頁以降に詳しい。*20) ヌヴェルカレドニ(ニューカレドニア)は1853年9月にフランスの支配下に入ったが、その中心都市ヌメア(当初の名前はポール=ド=フランス)を1854年6月に建設したのが、日本近海に赴く直前、ヌヴェルカレドニにいたタルディ=ド=モントラヴェル海軍大佐である。*21) 1855年5月時点の長崎奉行は荒尾成允。*22) 1855年5月30日付でタルディ=ド=モントラヴェル海軍大佐が長崎奉行に宛てた書簡に記載されている。前掲アンリ・コルディエ著「フランスの日本との最初の条約」28頁。さて、1856年1月30日には、日本とオランダとの間で日蘭和親条約が結ばれるのだが、日本とフランスの間では、最後まで和親条約が結ばれることはなかった。しかし、実は、日本はフランスに対して1855年5月に和親条約の締結を打診している。クリミア戦争への作戦従事のため日本・中国近海で任務に当たっていたフランス海軍コンスタンティヌ号の艦長ルイ=マリ=フランソワ・タルディ=ド=モントラヴェル海軍大佐*20が長崎に入港した際、当時の長崎奉行*21が同大佐に長崎及び箱館の二港を開港する条約への署名を提案したのである。しかしながら、同大佐は、条約締結のための権限を有していないためその提案を断っている*22。これに関しては、同年7月8日付で同大佐が海軍大臣に宛てた書簡の中で、○日本側が、同大佐が権限を有していないことについて、後日フランス政府が正式に任命した全権委員の承認に服させるという条件付きでも良いといって条約締結を持ちかけたこと○一方で、同大佐自身は、前年に結ばれた日英和親条約につきイギリスのスターリングが日本側に修正を持ちかけてきているのに対して、フランスに同内容の条約を認めさせれば(スターリングの主張に)対抗するための精神的支援となり得ると日本側が思っていたとの見解を示した上で日本側との友好関係を害することなくその罠を避けることができたことを述べている。このように、ここでも、全権がなかったのに和親条約を結んで後から議会の承認を得て批准したイギリスの積極的態度と、全権がない以上は和親条約を結べないと言って締結を拒んだフランスの消極的態度が現れている。そして、何より意外なのは、ペリー来航のときは条約交渉を先延ばしにすることに注力していた日本が、日米和親条約締結後は英仏に対してむしろ和親条約締結を提案している点である。一度日米間で条約を締結したことで、倣うべき前例ができたことも大きく影響していると思うが、西洋各国間の牽制効果を ファイナンス 2018 Jun.43

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