ファイナンス 2018年6月号 Vol.54 No.3
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た*14。また、この時期から数年間、フランスからのアプローチが見られなくなるが、これは1848年2月におきた革命(2月革命)によりルイ・フィリップの王政が倒れ、同年末にルイ・ナポレオンが大統領となるも、1851年末のクーデターを経て1852年末に彼がナポレオン三世として即位し第二帝政が始まるまでの間、フランスの政治が不安定であったことの影響があるのかもしれない。(4)アメリカによる日本開国とロシアの追随一方で、アメリカでは、政策遂行における日本開国の優先度が上がる出来事が発生する。すなわち、まず、1846年6月のイギリスとのオレゴン条約で、北緯49度以下のオレゴン地域がアメリカ領となることが確定、また、1846年4月に勃発した米墨戦争においてメキシコが敗北し、1848年2月のグアダルーペ・イダルゴ条約により、カリフォルニアなどがアメリカに割譲され、これらにより、アメリカは太平洋に面する国家となったのである。この結果、捕鯨船の補給地点の役割に加え、サンフランシスコから中国への太平洋航路の補給地点としての日本の重要性が増し、1851年、アメリカのフィルモア大統領は東インド艦隊ジョン・オーリック司令官に日本への親書を託し、開国を目指すことになる。その後、日本開国の任務は、オーリック司令官を引き継いで東インド艦隊司令官となったマシュー=カルブレイス・ペリーに与えられることになり、1853年7月、ペリーは日本が初めて目にすることになる蒸気船で浦賀を訪れ、一度退去するも翌1854年2月、江戸湾に進入、3月31日、下田・箱館2港の開港などを定める日米和親条約を神奈川にて締結し日本の鎖国体制を終わらせることになる。また、ペリーは1853年5月、浦賀寄港の前に琉球を訪れて首里城を訪問、浦賀からの帰途の7月にも琉球に寄港、そして、翌1854年1月、江戸行き前に琉球に寄港、さらに日米和親条約締結後の7月にも琉球に来航し、7月11日に琉米修好条約を締結している。この1853年から1854年にかけての時期は、まさにオスマントルコとロシアの間でクリミア戦争が発生*14) イギリスも同時期に琉球を訪れているが、やはり琉球と通商を開始するには至っていない。ただし、イギリスも、1846年4月に、ハンガリー人でのちイギリス国教会の宣教師となったバーナード=ジャン・ベッテルハイム(Bernard Jean Bettelheim)を琉球に残留させ、彼はペリーの来航まで8年間琉球で生活することになる。*15) 清では太平天国の乱が発生していた。し、英仏がオスマントルコ側に付いてロシアとの戦端を開いた時期でもある。英仏露という長らく日本に通商を求めていた国に先んじて新興国アメリカが日本を開国させることができたのは、先述したように太平洋国家となったことによる補給地の必要性が高まったことに加えて、クリミア戦争に参戦していなかったため他に煩わされる要因がなかったからだという見方も可能である。こうした中、ロシアは、ペリーの日本への出発を受けて、エフィム=ヴァシリエヴィチ・プチャーチン海軍中将を日本に派遣し、彼はペリーに遅れること1か月強の1853年8月に長崎に到着する。彼は、交戦中のイギリス海軍からの攻撃を恐れて一旦上海に退避するが、翌1854年1月から2月にかけて再び日本側と交渉した後日本を去り、フィリピン、そしてもう一度4月に長崎を経由して、ロシア沿海州に行き同年秋に再度日本に向けて出発、12月に下田で交渉を再開する。江戸安政地震の津波の被害に遭うも、交渉を続け、ついに1855年2月7日、日露和親条約の締結にこぎつける。(5) 日本との和親条約締結に関するフランス 外務省と駐中国フランス公使の見解の相違アメリカのペリーの訪日は英仏に懸念を与えたが、さらに、ロシアが東シベリア総督ニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキーの下で、1689年のネルチンスク条約で清の領土とされていた極東アムール川左岸での勢力拡大を狙うなどの動きや、清での反乱鎮圧*15のためロシアが清を援助するといった噂もあり、アヘン戦争後清に大きな権益を有するようになった英仏は、こうしたロシアの極東や清における影響力強化の動向に警戒感を強め、中国において協調路線をとるようになっていった。こうした中、1853年から1854年にかけてのアメリカと日本の交渉は、フランス本国において、日本との交渉を開始しようとの機運を産んだ。日米和親条約の交渉中であった1854年3月6日、フランスのエドゥアール・ドルアン=ド=リュイス外務大臣がアルフォンス・ド=ブルブロン駐中国公使に宛てた書簡の中で、 ファイナンス 2018 Jun.41

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