ファイナンス 2018年6月号 Vol.54 No.3
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号の要求にそのまま応じざるを得なくなり、事件後、長崎奉行松平康英や佐賀鍋島藩家臣7名が切腹する事態となる。このような軍事力を背景にイギリスが日本に対応を迫ったこの事件は、日本の対外関係に大きな緊張を強いる契機となったと思われる*8。また、ロシアとの関係では、1806年から7年にかけてニコライ=アレクサンドロビチ・フヴォストフが樺太や択捉の番屋を襲撃したり、1811年にディアナ号艦長ヴァシリー=ミハイロヴィチ・ゴローニンが国後島に上陸して幕府に捕縛されたり、逆に同号に高田屋嘉兵衛が拘束されたり、1813年にディアナ号がゴローニンの解放交渉に訪れたりといった事件も起きている。(2)異国船打払令からの転換イギリスは、フェートン号事件の後も日本近海に現れており、幕府は、1825年、異国船打払令を発して、日本沿岸に接近する外国船を見つけ次第砲撃して追い返させる強硬策を打ち出した。しかしながら、1837年、日本人漂流民を乗せ日本に帰還させようとしたアメリカのモリソン号に対し幕府側が砲撃を行い国内からも批判が出たことに加え、1840年から42年にかけてのアヘン戦争で清が敗北し、イギリスと清との間で結ばれた南京条約により、清が香港の割譲、賠償金支払、5港開港、自由貿易等を約束させられたのを見て、幕府は、遭難した船には飲料水や燃料の給与を認める薪水給与令を1842年に発して、強硬路線からの転換を図り始める。この動きをより大きな目で見てみれば、18世紀末からのわずか数十年の間に起こった、(ア)フランス革命戦争やナポレオン戦争での実戦を通じた兵器の改良と、(イ)産業革命において発明された蒸気機関を搭載した軍艦の機動力の向上という2つの変化が、西洋諸国の軍事力における圧倒的優位をもたらし、その*8) この時期の長崎のオランダ商館の状況やフェートン号事件については、筆者が武雄税務署長として勤務していたときに執筆した「日本の近代化は肥前武雄から始まった(上)」(ファイナンス2006年5月号)で詳しく述べている。*9) 1844年7月には、アヘン戦争での清の敗戦後、イギリス等による日本の侵略を憂慮したオランダ国王ウィレム2世が、幕府に対し開国の勧告書を届けている。*10) イギリスは、南京条約を明確化するため、1843年に清との間で虎門寨追加条約を結び、ここで、領事裁判権、片務的最恵国待遇、関税を自主的ではなく2国間で定める協定関税制度が定められた。*11) 黄埔条約は清の両広総督であったキィエン(耆英)とフランスの特命全権使節テオドール・ド=ラグルネの間で締結されたが、その交渉経緯は、ラグルネの下で交渉に当たったフランス側の書記官兼通訳ジョゼフ=マリ・カルリが1845年に記した「在中国フランス公使館外交業務日誌」(《Journal des opérations diplomatiques de la légation française en Chine》 par J. M Callery)に記されている。*12) 彼は、琉球に長期滞在する初めての西洋人となった。なお、彼とともに中国人のコ教理教師も琉球に残留している。*13) 当時、フランスは、運天港をPort-Melville(メルヴィル港)の名で呼んでいた。結果として、イギリスが清に勝利し、日本にとっても無視できない脅威として西洋諸国が目の前に現れたということができる*9。すなわち、フランス革命と産業革命という二つの革命が、日本の開国に向けた政策転換に多大な影響をもたらしたと言っても過言ではない。(3)欧米の日本への接近アヘン戦争での勝利によりイギリスが清と不平等条約の南京条約及び虎門寨追加条約*10を締結したのを見て、1844年7月、アメリカが両条約と同様の内容の望厦条約を清と締結し、さらに、同年10月、フランスも同様の内容の黄埔条約を清と締結する*11。また、フランスは、この条約の締結の半年前の1844年4月に、ベニニュ=ウジェヌ・フォルニエ=デュプラン海軍大佐の指揮する軍艦アルクメヌ号が琉球諸島に来航し通商を求めたが拒否されたものの、同号は、フランス人のテオドール=オギュスタン・フォルカド神父を那覇に残していく*12。続いて1846年5月、ニコラ=フランソワ・ゲラン海軍大佐が艦長を務める軍艦サビヌ号がフォルカドの後任ピエール=マリ・ル=テュルデュ神父を連れて那覇に来航、6月に入り来航したジャン=バティスト・セシル総督の指揮するクレオパトル号とシャルル・リゴ=ド=ジュヌイ艦長の指揮するビクトリユズ号と沖縄本島北部の運天港*13で合流する。セシル総督は、再度通商を求めたがやはり拒否され、ル・テュルデュ神父を現地に残し、前任のフォルカド神父を連れて長崎に向かう。ここで、今度は日本に対して通商を求めるが、やはりここでも交渉を拒否される。1846年9月にはマチュ・アドネ助任司祭も琉球に渡るがその後同地にて死去、1848年に軍艦バヨネズがル・テュルデュ神父をマニラ経由でマカオに連れて戻り、ここに琉球在住のフランス人はいなくなっ40 ファイナンス 2018 Jun.

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