ファイナンス 2018年6月号 Vol.54 No.3
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在フランス日本国大使館参事官 有利 浩一郎1はじめに今年2018年は、日仏修好通商条約が締結されてから160年。これを記念して、この7月から、フランスにおいて「ジャポニスム2018」とのタイトルで、伝統的な能・歌舞伎、絵画、禅、武道・日本食、現代のメディアアート、アニメ・マンガといった日本文化を伝える一連のイベントが開催されることになっている。しかし、この日仏外交の起源である日仏修好通商条約そのものの内容について語られる機会はほとんどない。例えば、中学校や高校の日本史で、日本と米英蘭露仏の5か国との間で同時期に結ばれた条約であるが、関税自主権がなかったり、治外法権が認められていたりした不平等条約である、と習った記憶が蘇ってくる方もあるかもしれない。では、どういった交渉経過をたどり、何が規定されていたのかというところまで知る機会はほとんどなく、先行研究も限定的である。また、交渉経過を見ていくと、ワインの関税を巡る議論が当時すでに日仏間で行われていたなど財務省・国税庁の行政から見ても興味深い。そこで、本稿では、国立国会図書館所蔵資料、外務省外交史料館所蔵資料、フランス国立図書館所蔵資料、フランス外務省外交史料館所蔵資料等を参照しつつ、欧州や中国における諸情勢にも触れながら、日仏修好通商条約交渉に至る背景、同条約の交渉経過とその内容について、記すこととしたい*1。*1) 山口昌子「巴里の空の下始まった「特別な関係」」(「外交」Vol.48 2018年3月/4月号)では、本稿でも参照しているフランス外務省所蔵の日仏修好通商条約の原本についての記載をはじめ、同条約締結に関し分かりやすい解説がなされているので参照されたい。*2) 国際水路機関は1953年発刊の「大洋と海の境界(第三版)」において、日本海の北東に位置するものとして、英語版では、「La Perouse Strait(Sôya Kaikyô)」と、仏語版では「Sôya Kaikyô(détroit de La Pérouse)」の形で、宗谷海峡について、ラ・ペルーズ海峡の名称をあわせて記載している。ちなみに、1875年5月7日に日露間で調印された樺太千島交換条約第1条においても「ラペルーズ」海峡の語が使われている。*3) スエズ運河を建設したフェルディナン・ド=レセップスの叔父に当たる。*4) ジャン=バティスト=バルテルミー・ド=レセップス「旅行記」(1790年)(《Journal Historique du Voyage Partie I》 par Jean-Baptiste Barthélemy de Lesseps)203頁~211頁。2日仏修好通商条約交渉に至る背景(1) 19世紀初頭までの日本と西洋諸国の関係、日本人とフランス人の初めての接触1639年に幕府がポルトガル船の来航を禁じて以降、日本と西洋諸国との関係は、唯一、長崎の出島におけるオランダ商館のみを通して続けられていた。再びオランダ以外の西洋諸国が日本に近づいてくるのは、18世紀後半になってからのことである。ロシア商人パベル=セルゲイビチ・レベデフ=ラストチキンが1778年に北海道に来航・上陸したのに続き、1787年にはフランス海軍士官も日本近海に来航している。彼の名は、ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ガロといい、1785年にルイ16世に命じられて太平洋探検をする過程で、1787年に日本海に入り能登岬沖を通過して樺太に向かい、その後ヨーロッパ人としては初めて宗谷海峡*2を通過して千島列島に向かい、カムチャツカに滞在している。その滞在の模様は、この探検隊に属していたジャン=バティスト=バルテルミー・ド=レセップス*3が旅行記*4に記しているが、彼は、1788年2月9日にカムチャツカのニジネカムチャックを訪れ、2月11日に9人の日本人と面会し、中心人物のKodaïl(コダイユ)と話をしたことを書き記している。これは、1782年に駿河沖で遭難してアリューシャン列島のアムチトカ島に流れ着き、その後カムチャツカに渡った大黒屋光太夫のことで、おそらくこれが近世でフランス人が日本人と話をしたほぼ最初の機会ではないかと思われる。そして、旅行記には、光太夫の遭難やその後カム日仏修好通商条約、その内容と フランス側文献から見た交渉経過(1)~日仏外交・通商交渉の草創期~38 ファイナンス 2018 Jun.

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