ファイナンス 2018年5月号 Vol.54 No.2
41/71

説明し切ってしまおうというわけであるから、それが自然主義の立場であることはいうまでもない。ならば、生まれながらにして人間が道徳などの概念(の元)を持っているとする、生得説が自然主義に反する主張であるかといえば、それはまったく違う。生得説のいう生まれながらの道徳概念とは、カントのいう定言命法のような、真理への直接のアクセスに由来するものではなく、先述の通り、進化という自然の過程から生まれたものである。生得説と経験論は、同じ自然主義の土俵のなかで角を突き合わせているに過ぎず、生得説の立場においてさえ人間は自然的世界に閉じ込められている。人間は超越から遠く隔てられている。真理への直接のアクセスを重視する立場は、「アプリオリズム」と呼ばれている。アプリオリズムとは、懐疑論、例えば、「培養槽の中の脳」(コンピュータに接続されて幻の経験を与えられている脳)のような存在であるかもしれないという類の疑い*2からの挑戦に対し、経験から独立したアプリオリな知識を持ち出すことで、その克服を図る戦略である。『自然主義』において著者は、懐疑論を完全に論破することは難しいことを認めつつも、懐疑論の克服のためアプリオリズムへ向かう途は不毛であり、今後はますます自然主義のプログラムに沿った研究を進めるべきであるとしている。アプリオリズムあるいは「第一哲学」というロマンティックな企て亡きあとの自然主義の歩みは、散文的で味気ないもののようにみえるかもしれない。それでも、『入門』は、それなりに興味深い途を示している。「生まれながらのサイボーグ」(アンディ・クラーク)という考えがそれである。我々の心が直観と熟慮というふたつのシステムからなることは先にみた通りである。このうち熟慮については、公共言語を用いておこなわれることで、道徳等の人工的構築物となって人々の間で共有されるようになる。人間はこのような外部の人工的構築物と一体のサイボーグとしてはじめから生きている。ここまで辿りつけば、公共的討議を通じて、より善い生のためにこれらの人工物を改造することが視野に入ってくる。哲学者には道徳の進歩を促すという役目があることになる。政策担当者には道徳をより効果的に実装すべく制度設計する役割があることになる。これはこれで、ロマンティックとまではいかぬとしても、なかなか刺激的だし、希望を抱かせる企てではある。それでも人間が自然を超えていることはないのか:「第一哲学」という企てが歴史的存在に過ぎなかったのであれば、いまや「第一哲学」亡き後の生活に落ち着かねばならぬときがきたと割り切るべきなのかもしれない。それでも、である。真理への直接のアクセスを求める人間の心性は、一過性の歴史上の出来事として片づけられる程度のものだったのだろうか。人間の本性に構造的に根ざしたものと理解すべきものなのではないか。この心性はまず文学として生き残りの途を探ることになるだろう。カントもデカルトもプラトンも文学作品として読む限り、今後も長きに渡って読み継がれるべき価値を持つだろう。そして、哲学そのものの領分においてもまた、自然主義を乗り越えようとする試みがやむことはないのではないか。例えば、『入門』への読売新聞での評で、東京大学の納富信留教授は、「自然を反省的に捉えるこの視点、そこに現れる普遍性は、すでに自然を超えているのではないか」と指摘されている。「生まれながらのサイボーグ」の議論を思い起こしてみてもよい。そこでは、人間の心は外部の構築物と一体のものとして把握されていた。この議論をもう一歩進めれば、外部の公共的構築物、すなわち道徳、法、科学等もまたひとつの真なる実在であるという認識へと近づいていく。これら言語的構築物こそ実在であって、そのなかで創り出される我々の心は自然を超えた存在なのではないか。文学もまたその意味での構築物の最たるものであり、文学のなかで生き永らえる「第一哲学」もまた、その言語世界のなかで「第一哲学」としての実在性を逆説的に見出すことはないだろうか。そんな妄想をもって、本評は締めくくらなければならない。本書『自然主義入門』は、近年の哲学と科学の革新を通じ、我々人間のこの世界における立ち位置がだいぶ変わってきていることを知るのに格好の一冊である。この変化を知らずにいることは、アリストテレスの説に触れることなく、古代ギリシアで生を終えるようなもので、まったく遺憾なことである。その意味で、政策の役に立つかどうかは別にして、政策担当者にとっても本書から得るところは大であろう。*2) この手の設定は映画『マトリックス』でよく知られているが、実は哲学では古い歴史がある。「そこで私は、真理の源泉である最善の神がではなく、ある悪い霊が、しかも、このうえなく有能で狡猾な霊が、あらゆる策をこらして、私を誤らせようとしているのだ、と想定してみよう。…また、私自身、手ももたず、眼ももたず、肉ももたず、血ももたず、およそいかなる感覚器官をももたず、ただ誤って、これらすべてのものをもっていると思い込んでいるだけだ、と考えよう」(デカルト『省察』(『第一哲学についての省察』)(1641年)、井上庄七ほか訳)。 ファイナンス 2018 May37ファイナンスライブラリーライブラリー

元のページ  ../index.html#41

このブックを見る