ファイナンス 2018年4月号 Vol.54 No.1
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家であり、討議の際その意見は特別な尊重に値するという考えは興味深い。また、同一個人のなかに相矛盾する判断が併存する際、そのアイデンティティの不整合を再統合しようとする個人の内面の活動が、それぞれの立場を乗り越える契機になることがあるという。「間―位置的査定」というセンの概念によると、複数のグループに属する個人は、それぞれのグループの視点から評価を形成するとともに、その評価を別のグループの視点から批判的に検討する機会を持つ。この個人の内面での「公共的討議」が社会に開かれれば、社会規模での視点の交検の契機となるだろう。『潜在能力』では、この様々な視点を横断することが決定的に重要で、公共的討議にこの視点の交換を促す機能が期待されているようである。公共的討議の社会実装:あるべき公共的討議について、社会実装により近いところで論じているのが、名古屋大学の田村哲樹教授による『熟議民主主義の困難』である。本書では熟議民主主義の阻害要因を悉皆的に検討し、その克服の手立てを考察しており、熟議民主主義の包括的理解に資する好著となっている。本書は熟議(公共的討議)の阻害要因として、1)分断社会(民族対立等による共同体の分断)、2)個人化社会(集合的目標への関心の低下)、3)労働中心社会(仕事に忙しく公を顧みる余裕のないこと)をあげている。議会制民主主義国では、熟議は、多数決と並んで(あるいはそれ以上に)正統的な意思決定手続きとみなされている。公共の決定について論ずる際、熟議の重要性の指摘をもって論を締めくくることはひとつのスタイルとして確立している。しかしながら、熟議は様々な要因でうまくいくとは限らない。視点の交換はおこなわれるとは限らず、熟議を補完あるいは代替するなんらかの手立てが必要となるかもしれない。『熟議』は阻害要因としてさらに五つを追加している。熟議を代替し競合するという意味で、4)情念(情念が理性の妨げになる惧れ)、5)アーキテクチャ(人為的制度が真正なる熟議の障害となる惧れ)、そして、熟議民主主義の理解を狭めてしまう「思考枠組」として、6)親密圏(家族等での討議は熟議とは関係ないとする思考)、7)ミニ・パブリックス(公平に選ばれた小グループでの討議のみを熟議とする思考)、8)自由民主主義(自由民主主義を与件として熟議を考える思考)を取りあげている。著者は、これら(4)以下)を単なる阻害要因とみる考えに反省を促し、むしろこれらを熟議の観念を広げる契起とし、熟議を補完するものとする方向を提示している。例えば、情念は理性と対立するものではなく、理性と相補って、熟議を支えるものである。アーキテクチャもまた熟議が適切におこなわれる制度上の条件を整えるものと位置づけられる。熟議を単体でみるよりも、制度のなかに埋めこまれたものとしてみることが必要だというわけである。パターナリズムの問題:阻害要因の考察を通じて、どうすればよりよく熟議を支えることができるのか『熟議』は様々なヒントを提示している。例えば、熟議を成功に導くには、人々が多様な意見に接することが重要であるから、公共フォーラムでの討議を思いがけない意見に接するためのアーキテクチャとして活かす途が示唆されている。仕事に忙しく熟議にエネルギーを割くことがむつかしい現状を踏まえ、熟議に参画するための一定の所得を保障するというアイデア(熟議所得)が示されている。物事を経済からみることに慣れていると天地が転倒するような話だが、古代ギリシアの民主制が労働から解放された市民によるものであった歴史を想起するなら、民主主義論としてはひとつの姿なのかもしれない。熟議を「支える」という発想そのものが、よりよい結論が出るよう外部から熟議を導くという発想を内包している。これをパターナリズムとみて批判する論者もあるだろう。ただし、社会実装に向けて考察する限り、純粋に理性と理性が語り合うといった類の熟議が存在すると想定することには無理がある。個々の熟議はある特定の制度的文脈のなかにしか存在せず、その文脈は良かったり悪かったりする。この点、『熟議』で用いられる言葉づかい、「許容される/正当なパターナリズム」からは、純粋なる熟議など存在しないなかで、どうすればよりましな熟議ができるのかという、プラグマティックな問題意識を読み取ることができる。よりよい決定を行うよう、人間を手助けする余地を認めるならば、つぎに「どのように」手助けするのか論ずるのは自然なことである。『潜在能力』にはパターナリズムを論じた箇所はない。このことをどう考えたらよいだろうか。この背景には、『潜在能力』の議論の抽象度の高さもさることながら、その背景思想であるリベラリズムがパターナリズムと対峙してきた歴史があるものと考える。のちに「リバタリアン・パターナリズム」という考えを提唱する、リチャード・セイラーでさえ、パターナリズムと人から言われ、「同僚をパターナリスト呼ばわりすることは許されない」と憤慨したくらいだ*3。評者はパターナリズムへの『熟議』のプラグマティズムを理解可能だと考えるが、同時に何のためのパターナリズムか突きつめることが重要だとも考えている。なし崩しのパターナリズムにより、例えば、討議が「虐待を受けてきた奴隷」から同意を調達する形式的手続きとなるのでは本末転倒である。そもそも討議を持ち出したのは、討議に参加する者が他者の視点を自らのものとしてよりよい共通理解をつくり出すことの持つ価値に着目してのことであった。両著を通じて、公共的討議の機能について一段と理解が深まることを期待したい。*3) リチャード・セイラー『行動経済学の逆襲』(2016年、原著.Misbehaving.2015) ファイナンス 2018 Apr.29ファイナンスライブラリーライブラリー

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