ファイナンス 2018年4月号 Vol.54 No.1
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評者廣光 俊昭*1後藤 玲子 著田村 哲樹 著潜在能力アプローチ 倫理と経済熟議民主主義の困難 その乗り越え方の 政治理論的考察岩波書店 2017年3月 定価5,600円+税ナカニシヤ出版 2017年4月 定価3,500円+税潜在能力アプローチ:『潜在能力アプローチ』は、アマルティア・センの業績の継承と深化に取り組んできた一橋大学の後藤玲子教授による著作である。伝統的な経済学が効用により状況を評価するのに対し、潜在能力アプローチでは、資源を用いて個々人が具体的にどのようなおこないを実現できるのか、その選択可能性の幅に着目した評価をおこなう。「財」(資源)は生活上必要な「機能」に変換され(図の第二・四象限)、その様々な機能を用いて人々の生活がおこなわれるのである(第一象限)が、実際に選択されて実現する機能の組み合わせ(点Z)もさることながら、実現可能な機能の機会集合(潜在能力)に着目することが眼目である。財・機能空間財・機能空間財1財2機能空間機能の機会集合(潜在能力)評価関数機能2bZa0機能1財空間どれほどの潜在能力を持つかということが、その個人がどれだけの自由を持つか評価する上で重要な意味をもつことは理解できると思う。ここまで描けてくると、今度はそれぞれの関心分野で、実際に人々がどの程度の潜在能力を持つのか知りたくなるものである。本書には潜在能力を計測する手法を論じた箇所(第2章)があり、実際にも(技術的課題との折り合いをつけつつ)様々な分野で潜在能力の形状を計測する試みもされているようである。主体の多元性:潜在能力アプローチはこのように実践へと開けつつある手法なのであるが、本書の著作としての力点は、この手法の精緻化にあるわけではない。著者の問題意識は、むしろ標準的手法に収まりきらない現実へと向けられている。「個人が、異なるさまざまな空間において、相互に矛盾に満ちた、実に多様な行いや在りようを示す存在であるとしたら、しかも、その多くのは、われわれ自身の認識と理解の発展にともなって、発見されうるのだとしたら、潜在能力アプローチは、ジャイロスコープ的な自動調節メカニズムのフレームを一歩越え出ることになる」(p.35)。人間は単一の主体であるよりも多元的な要素からなる複合体であり、このことは、脳神経科学が日に日に説得力をもって明らかにしているところである。機能空間(第一象限)での判断が、財空間(第三象限)での判断と整合的であるとは限らない。この主体の多元性というモチーフは、センが『合理的な愚か者』(1977年)で指摘したものが知られている。そこでは、人間が利己的個人であるばかりではなく、他者の苦悩に共感し、ときには正しいことにコミットすることのできる存在でもあることが強調されている。この『合理的』の多元性が苦悩する者をみる側の主体の多元性として提示されているのに対し、『潜在能力』での多元性は、苦悩する側の主体の多元性として示されていることが特徴的である。この意味での多元性もまたセンによって、「虐待を受けてきた奴隷、飼いならされた主婦」など機会を切り詰められてきた状態で形成される嗜好として提示されていたものである*2。インド出身のセンは、この「虐待を受けてきた奴隷」のような状況に敏感なのであった。興味深いことは、この主体の多元性から公共的討議の重要性が導き出されていることである。著者は、個人の選択を当該個人の主観的判断に帰着させることは充分ではなく、その選択の理由(reason)を問うことが必要だと指摘している。主体が主観に尽くしきれない多元性を持つからこそ、選択の理由を問うことが意味を持つのであり、理由を問うことは、その選択を言葉のやり取りを通じて社会に開くこと、公共的討議の対象とすることである。「虐待を受けてきた奴隷」の嗜好をそのまま社会評価の指標として用い、「奴隷は満足している」と済ますことはできないのである。公共的討議の機能:このように公共的討議は重要な役割を担うのであるが、それは討議のどのような機能に期待してのことなのだろうか。『潜在能力』は有益な切り口を提示している。例えば、不遇な境遇に置かれている者はその境遇についての専門*1) 財務総合政策研究所客員研究員*2) Sen, A. 1987. The Standard of Living.28 ファイナンス 2018 Apr.FINANCE LIBRARYファイナンスライブラリーライブラリー

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