ファイナンス 2017年10月号 Vol.53 No.7
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とそれ以外の地域の新興市場国の市場の動向の分担を決めました*2。前年(2012年)春の財務大臣・中央銀行総裁会議の決定により、(1)マクロ経済を分析する組織(民間法人)の立ち上げというプロジェクトを始めたばかりのタイミングで、(2)国際機関設立協定の作成、というまったく別のプロジェクトが付加されたことは第4回(2017年5月号)の中で説明しました。(2)の方へ気を取られていると、(1)の方がこちらを忘れては困ると騒ぎを起こしているかのようです。勿論今回は米国議会での発言に端を発する世界的な市場の動きです。頭の中では関係がないことは分かっていても、どうして2011年、2013年と1年置きに市場は騒ぎを起こすのだろう、という感想でした(この時点から2年後の2015年にも人民元の切下げに伴う市場の混乱がありました)。2011年の市場の動揺の時は銀行口座の残高がゼロであったため情報を取るすべがなく、暗闇の中にいるが故の恐怖感を味わいました。今回の2013年の際は、その後の予算措置により情報端末を通じ為替や株の値動きはリアルタイムで見ていた上に、データは週次で届けられていて、今度は流出の大きさ自体に肝を冷やしました。経常収支が赤字基調の国を中心に、市場の不安定さは半年ほど続きました。グラフからも明らかなように、一年ほどして再度資金の流入に転じました。政策当局者と話をしていると、この時期以降ASEAN新興市場国は為替政策をより柔軟なものとするとともに、政策の目的を短期的な景気の調整から中長期的な金融の安定に大きく舵を切ったのが分かりました。先進国の非伝統的金融政策についての不透明さは当分継続しそうであり、何らかのニュースをきっかけに市場が大きく動く状況も続きそうでした。ASEANの金融為替政策当局者も、こうした先進国の政策の影響から各国経済をどう守るかの方向へ意識が変わったものと理解しました*3。AMROの組織内で日本人1人となる(2012年8月~2013年8月)少し話が遡ります。AMROのオフィスの立上げ当初の2011年春から、格付会社等での勤務の長い仲川聡さんにADBのコンサルタントとして立ち上げ事務を手伝ってもらっていました。AMROの2012年予算では各国との調整担当のポストが認められましたが、そのポストに仲川さんが応募してくれました。正式な選考プロセスを経て、AMROスタッフとなりました。当時の魏ウェイ所長も大歓迎でした。その後日本人の採用はなかなか捗らず、オフィスの中の日本人は、自分と仲川さんの2人の時期が続きました。この頃、特に海外出張中は、オフィスの仲川さんに電話して(日本語です)、用件をスタッフにメールないし口頭で伝えてもらうことが間々ありました(これは英語です)。仲川さん本来の仕事は各国との調整でした。各国の財務省、中央銀行の中に数多くの知り合いがいて、貴重な情報を入手してくれました。あまり負担をかけてはいけないと思いつつも、やや中毒気味に依存していました。その仲川さんがデング熱に二度もかかり、医者の勧めに従って日本に帰国することとなり、結果としてある日から突然オフィス内に日本人が一人写真1 テーパー・タントラムの頃のAMROスタッフ(2013年6月、AMRO設立から丸2年)、写真提供:AMRO32ファイナンス 2017.10連 載|国際機関を作るはなし

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