ファイナンス 2017年9月号 Vol.53 No.6
42/72

本年2017年1月、私は26年ぶりにロンドン・ヒースロー空港に降り立った。日本を離陸してからというもの、刻一刻胸の鼓動が高まっていた。ロンドンでは34年ぶりに、ルーマニア財務省の元官僚である友人との再会が実現することとなっていた。•IMFでの出会い34年前の1983年4月、主計局係員としての勤務が3年目に入ったところで、少し外国で勉強して来いと、米国ワシントンのIMF(国際通貨基金)研修所に派遣され、3か月間の研修を受けることになった。この研修コースには、33か国の財務省、中央銀行等から中堅職員が参加しており、私はクラスで最年少であった。その内容は、“Financial Programming and Policy”略してFPPコースと言われる、相当高度なものであった。IMFが加盟国に融資を行うに当たって策定する経済調整プログラムの柱であるマクロ経済政策の骨組みを構築する際に用いる手法をFinancial Programmingといい、それを伝授するものであったが、恥ずかしながらそのことが認識できたのは、国際機構課係長を経験した後年のことであった。私はとにかくまず、英語の講義に慣れることに専念するとともに、各国からのクラスメートとのコミュニケーションを通じて英会話能力を高めるよう心がけることにした。クラスメートと親しくなるのに、あまり時間はかからなかった。講義以外にエクスカーションなどのプログラムもふんだんに用意されていたからである。そんな仲間の一人に、ルーマニア財務省のエコノミストで、私より少し年長の男性がいた。名をアレクサンドル・タナセといった。当時はまだ東西冷戦期、ルーマニアは東側の社会主義国。にもかかわらず、妙に気が合った。社会主義国の官僚的なイメージと違って、真面目、温厚で柔和な人柄を感じたからであろう。また、「タナセ」という姓の響きが、日本人の「棚瀬」さんに通じるところがあったからかもしれない。最初は、五輪体操の金メダリスト「コマネチ」ぐらいしか話題がなかったが、やがてお国柄や家庭(彼は既婚者、私は当時独身)の話など、話題は尽きなくなった。互いに英語がネイティブでなかったのも良かった。いつしか「アレックス」、「ヒャッキィ」と呼び合う仲になった。研修の中盤にワシントンからニューヨークを経てカナダのモントリオールへと長距離のバスツアーがあった。この時もずっとアレックスは、隣の席だった。カナダ国境が近づいたある日の黄昏時、退屈なバスの中で私は何を思い立ったか、中学時代に英語の授業で暗唱したラフカディオ・ハーンの「怪談」の一節「ムジナ」の話をした。これがアレックスにとっては真に迫るものがあり、リアルに恐怖を感じてくれたようであった。中学校で習った英語もかように役に立った。こうして、初めての外国経験としては大いに得るところがあり、3か月はあっという間に過ぎ、季節は春から夏になっていた。アレックスとは、これからも友人として付き合っていきたかった。そこで私はプライベート・アドレスを交換しようと持ちかけた。しかし当時あるルーマニア官僚との友情 ――政変を越えて(上)造幣局 理事長  百嶋 計Spot0438ファイナンス 2017.9SPOT

元のページ  ../index.html#42

このブックを見る