ファイナンス 2017年8月号 Vol.53 No.5
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うというのが民間外交のレゾンデートルだと思いますが、国民世論からすっかりかけ離れてしまったら現実性がなくなり、相手も信頼しなくなるし、甘いことばかり言っている外交になってしまいます。言うべきことは言わなければならないけれども、物別れになってしまってはだめなので、厳しいこととそうでないことを慎重に使い分けながら、理解できないような点は問い詰めていくのですが、これは、相手の人格を尊重しつつも、相手に反省を促していくということだと思います。ボスニアでの交渉もなかなか厳しかったのですけれども、公開の場、それこそプレスがいる前では喋ることが限られてくるので、プレスがいないところで、関係者のみの話し合いをする。また、大統領であっても首相であっても自分の同僚がいっぱいいると面子があるからあまり譲歩しないので、出来るだけ1対1で話しました。カラジッチやムラディッチは紛争で初めて筍のように出てきた指導者なので素人でした。だからなかなか頑固で物わかりが悪かった。ミロセビッチ大統領が私に代わってこの人達を説得すると、カラジッチは分からず屋ですから強硬に抵抗するわけですけれども、本当は明石の方が当たっているから、明石に聞くべきだと説得してくれました。やはり大事なのは、この人は人間として信頼に足りるので話をよく聞くべきだ、と思わせることです。▶神田 1994年2月に明石さんは、NATO理事会決定に従い、NATOに空爆を要請する権限とボスニア全土において近接航空支援を要請する権限を委譲され、恐らく、戦後日本で唯一、爆撃のボタンを事実上渡された存在です。ボーダ提督と共に、空爆を慎重に吟味されました。原爆投下といった無辜の民の虐殺は論外ですが、他方、テロ国家やISがヒューマン・シールドを多用する中、コラテラルダメージを恐れて必要な攻撃を時宜良くできないのも問題です。明石さんはこのジレンマをどのようにお考えになりますか。▷明石 ご指摘のとおり、私は1994年1月から14,5回限定空爆を許可しました。明らかに国連の要員が砲撃の対象にされ、生命の危機に瀕していることが、空からだけでなく地上からも確認できた場合は、国連側の要員を狙っている戦車なり砲火をピンポイントで空から破壊するもので、最小限の自衛行為でした。それ以上の本格空爆を許可するようになったのは、1995年の5月中旬にセルビア人勢力の攻撃が激化してきからです。事実上戦争のような状況になったので、国連のボスニア方面軍司令官だったルパート・スミスから、ここで本格空爆を使用するしかないと言ってきて、国連保護軍全体の司令官であったジャンビエという将軍もこれは許可するしか仕方がないと判断したので、私は空爆を許可しました。私が本格空爆の鍵を引いたのでブトロス・ガリはその後に、私からジャンビエに国連側の空爆の権限を移行しました。ジャンビエも私と全く同じPKO哲学に立って行動したので、私はこの権限移譲を抵抗なく受け入れました。私は、ご紹介頂いた『戦争と平和の谷間で』の中で、ボーダというアメリカ人提督に言及していますが、アナポリスなどのエリート校に行かずに一介の水兵からアメリカ海軍の最高ポストまで上り詰め、NATO南部方面軍の総司令官等をやられた方です。親しくなったこの人の物の考え方に非常に共鳴するところがあったのです。軍人は武器という凶器を使うものですから、それを使うことがどんなに深刻なことかをよく理解した冷静極まる人で、交渉するに当たっても、相手の退路を遮断せず、相手が譲歩せざるを得ないように導いていくような心理的な配慮までちゃんとする方でした。彼がNATO側でこちらは国連側でしたけれども、基本的なものの考え方でこの人だったら信用できるという思いがあったので、彼を100%信頼して協力できたのです。私は1992年2月のサラエボ危機と同4月のゴラジュデ危機に際して、攻撃してくるセルビア人勢力のカラジッチやムラディッチと交渉し、もし国連の言うことを聞いて撤退しないならば、NATOの本格的な空爆があることを彼らに飲み込ませるのに懸命でした。彼らがなかなかわからないものですから、ミロセビッチ大統領からも更ファイナンス 2017.837超有識者場外ヒアリング65連 載|超有識者場外ヒアリング

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