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路線価でひもとく街の歴史

第24回 「滋賀県長浜市」
博物館都市構想のレガシーと黒壁まちづくり

ターミナル駅だった長浜駅
長浜は羽柴秀吉が築いた城下町である。長浜の“長”は上司(織田信長)の名前にあやかった。徳川の治世になると政治拠点は彦根に移り、長浜城も元和元年(1615)に廃棄された。それでも近代に至って栄えたのは、秀吉時代の商業インフラがあったからだ。楽市楽座の下、商人地の年貢が免除されていたが、その制度は彦根藩の管轄下でも継続された。藩政期に認められた免税特区を朱印地という。
町衆は通りを挟んで組織化し「町」を名乗った。舟町の吉川家、本町の下村家、呉服町の安藤家が有力で長浜三年寄と称された。また、長浜では毎年4月に長浜八幡宮の祭礼「曳山祭」が開催される。伝統工芸の粋を集めた山車が町内を巡行する祭りで、平成28年(2016)にユネスコ無形文化遺産に登録された「山・鉾・屋台行事」の全国33カ所あるうちの1つである。旧市街の52の町がさらに13にまとまり「山」となり、それぞれ「曳山」と呼ばれる山車を保有する。祭の担い手たる意味を込め、長浜では町衆を「山組」という。
長浜は琵琶湖水運と北国街道の街である。琵琶湖畔の長浜湊から米川や旧外堀を通って市街地に舟が乗り入れていた。南北に走る米川~旧外堀が市街地の西辺となり、並行する北国街道が市街地の中心を貫く。
鉄道黎明期、瀬戸内海と日本海の連絡と東西幹線の全通が喫緊の課題だった。神戸から東に伸びた鉄道は大津港が終点、敦賀から南進する鉄道は長浜が終点となり、大津港と長浜港は琵琶湖の水路で結ばれた。東京から西進する東西幹線も長浜駅が終点となった。そのため明治15年(1882)開業した長浜駅は、初代大津駅と同じく頭端式のターミナル駅だった。駅の脇に長浜港が整備され連絡船に乗り換えられるようになっていた。当時の駅舎は現在「長浜鉄道スクエア」という博物館になっている。現存する日本最古の駅舎である。向かい側に明治20年(1887)築の日本建築「慶雲館」がある。京都行幸の帰り道、明治天皇が汽船から汽車に乗り換える際に立ち寄られた。

御堂前の中心街
長浜は大通寺の門前町でもあった。浄土真宗大谷派(東本願寺)の別院で開基は慶長7年(1602)。商人地の東側にあり表参道に沿って門前町が栄えた。明治17年滋賀県統計書をひもとくと、当時の長浜で最も地価が高かったのが大通寺門前の「御堂前町」だった。1反当たりの平均価格は177円で、県内最高の大津(柳町257円)の7割弱で八幡(大杉町178円)と並んだ。当時は彦根(土橋町68円)に大きく水をあけていた。彦根にはまだ鉄道が開通していなかった。
琵琶湖北部いわゆる湖北地方の拠点だった長浜だが、学校と銀行は県都より先にできた。学制発布の1年前、明治4年(1871)に滋賀県第一小学校が西本町にできた。明治7年(1874)、神戸町に擬洋風の校舎が建てられ移転。開知学校と名付けられた。その後、学校は明治34年(1901)に現在の長浜小学校の場所に移り、建物は昭和12年(1937)に駅前通りと北陸街道が交差する角の現在地に移築された。平成12年(2000)の改修で八角塔屋が復元され創建時の姿を取り戻した。
銀行の開業も滋賀県初だった。明治10年(1877)設立の第二十一国立銀行である。本店は神戸町にあった。昭和初期の一県一行主義に則り、同じく湖北地方が地盤の伊香、江北銀行と合併し昭和4年(1929)に湖北銀行となる。この時点では湖北経済圏の独立性が当局に認められ、県単位の集約は免れた。昭和12年(1937)に長浜貯金銀行を買収し大手前の通りと表参道が交差する地点に移転した。長浜貯金銀行の本店だった場所だ。
長らく独立を保ったが、戦時下の非常時の流れには抗えなかった。昭和17年(1942)に滋賀銀行に買収され同行の長浜支店となる。長浜支店は昭和45年に長浜小学校の隣に移転し、建物は御堂前支店となった。
大手町の通りには大垣共立銀行(本店大垣市)や後述する百三十銀行(本店大阪市)の支店もあった。駅前の通りには滋賀県農工銀行があった。昭和13年(1938)に日本勧業銀行に転じたが昭和31年(1956)に撤退。建物は長浜信用金庫が引き継いだ。大正12年(1923)の建築でドーム型の尖塔が目印だったが昭和48年(1973)に解体。
湖岸の鐘紡長浜工場が空襲を受けたものの、市街地に目立った戦災はなかった。町家の多くは残り、街の構造も戦前戦後を通じて大きな変化はなかった。地価の分布も同じ具合で、昭和32年(1957)の路線価をみると最高路線価は3地点に分かれていた。御堂前町、横町そして駅前から本町にかけての道路が坪当たり195千円で同額だった。
時代は下り、昭和48年(1973)の路線価図によれば最高路線価地点は「国鉄長浜駅前平和堂前」となっていた。m2当たり100千円で、横町64千円、御堂前町45千円というように3地点に差がついていた。地元大手スーパーの平和堂が駅前に進出したのは昭和44年(1969)。店舗面積7,125m2の店舗「長浜ショッパーズスクエア」が開店した。駅前に対抗し、中心街の60の商店主が出資し株式会社パウワースを結成。5階建3,693m2の共同店舗を立ち上げ昭和45年(1970)に完成した。向かい側には西友が進出していた。ふりかえれば駅前、中心街ともにこの頃が全盛期だった。

博物館構想と黒壁の取組み
昭和47年(1972)に国道8号バイパスが開通。その後、4車線化の進捗に従ってロードサイド店が増えてきた。昭和60年(1985)には地元の材光工務店が手掛けるカラフルタウンCan’Sが開店。転機になったのが昭和63年(1988)オープンの長浜楽市である。ドライブインシアターなど物販以外の機能が充実した、まちづくり型のショッピングセンターのはしりだった。地元商店主が結成した協同組合長浜商業開発と西友の共同開発だったことも業界の耳目を集めた。店舗面積約9,600m2のうち約3分の1が長浜商業開発だった。商店主からみればパウワースのときと同じ集団化の文脈で、生き残りをかけた郊外進出でもあった。皮肉にも中心街の空洞化を進めることにもなった。
郊外大型店の進出計画が進む一方、後に伝説となる旧市街再生の萌芽もあった。昭和58年(1983)の長浜城の復元である。約10億円の建設費のうち4億3000万円が市民の募金で賄われた。このときの盛り上がりが後につづく公民連携のレガシーとなった。その翌年には「博物館都市構想」が策定。町家や曳山祭など有形無形の歴史遺構を背景に生まれたコンセプト「伝統を現代に生かし、美しく住む」が旗印となった。
昭和62年(1987)、北国街道のカトリック教会が移転し建物が不動産会社に売却された。明治33年(1900)の黒漆喰の建物で、新築時は百三十銀行その後明治銀行の支店だったことから黒壁銀行と呼ばれていた。歴史遺構を保存すべく市の買取が望まれたがそうもいかない。そこで、買取と修繕に必要な1億3000万円のうち市が4000万円を拠出、残りを民間から集め、受け皿として第三セクターを設立することにした。昭和63年(1988)創立の株式会社黒壁である。黒壁の初代社長は地元ゆかりの経営者長谷定雄氏であった。氏は長浜城の復元に兄弟で1億5000万円寄付した篤志家だった。
黒壁の場合、個人の寄付ではなく企業の出資で、1口1000万円以上だった。民間8社のうち1500万円を拠出したのが琵琶倉庫と材光工務店である。その後の旧市街再生を主導したのは2社の社長だった笹原司朗(もりあき)氏、伊藤光男氏である。
歴史遺構が人手にわたる危機は免れたが、引き続き維持運営を自弁しなければならない。そこで銀行建築を活用したビジネスに取り組むことにした。町家が軒を連ねる立地を活かし、集客が見込め、郊外大型店に対抗できるコンテンツは何か。商店街と競合しない配慮も要る。打ち出したコンセプトは歴史性、文化芸術性そして国際性の3つだった。たどり着いたのは長谷社長が発案したガラス事業である。仕込み期間を経て平成元年(1989)に「黒壁ガラス館」が開店。奥の元聖堂をガラス工房に、銀行時代の担保蔵はフレンチレストランに改装した。元々はこれら3つの建物からなる四角形の区画を「黒壁スクエア」といった。
再生の取り組みは点から面へ
当初は歴史遺構の保存と活用が目的だったが、その取り組みは点から線、さらに面へと広がった。まずは北国街道沿いに重点を置き、黒壁が周辺の町家を買取あるいは賃借。統一的なデザインとコンセプトで再出店を進めていった。その結果、カフェやセレクトショップなど直営店舗を含め、黒壁ブランドを冠する施設は30に増えた。黒壁が関与せずともデザインコードに従って周辺の建物の改装が進んだため、年月を経るごとにアンティークな雰囲気の落ち着いた街並みができていった。黒壁スクエアの概念が拡がり、今ではガラス館の周辺を含め黒壁ブランドの店舗が集まるエリアを称して「黒壁スクエア」という。
取り組みは、空き店舗を集めテナントミックスを図る積極策に発展した。主導したのは黒壁から派生した株式会社新長浜計画である。昭和59年(1984)にパウワースに入居し核店舗となった西友が平成6年(1994)に撤退。新長浜計画が床を賃借しテナント誘致に取り組んだ。高齢者主体のビジネス組織「プラチナプラザ」も育成。惣菜店など4店の開業に至った。
平成12年(2000)、パウワースの向かい側の当初西友があった場所に曳山博物館が開館。公民連携した一連の取り組みが奏功し、平成13年(2001)には来街者が200万人を超えた。

決め手となった外の力
着眼すべきは、黒壁スクエアの仕掛け人が商店主ではないことだ。郊外大型店を脅威としつつ郊外に活路を求めた地元商店街の利害や、「山組」の地縁とは一線を画した立場で進めていった。公民のパートナーシップが良い具合に働いたことも成功要因である。一般的に第三セクターが陥りがちな放漫経営の要素は2つある。ひとつは、公平性や失業対策など営利活動と矛盾しかねない使命あるいはメンタリティを持つ自治体が企業経営にあたって発言権を持つこと。もうひとつは民間側が自治体の赤字補てんをあてにすることである。これら2つの相互依存関係が破たんをもたらす。
対してメリットは建物保存のエピソードからもわかるように自治体の公的負担が節約できること。民間側にとってはリスクを帯びた事業に信用補完が得られることである。自治体の出資は担保や第三者保証に代わる「頭金」となる。信用力が強化され資金調達や新規取引がしやすくなる。もっとも信用補完は甘えを生み出すので諸刃の剣ではある。第三セクターは使いようによって毒にも薬にもなるのだ。黒壁ケースは成功例といえる。長浜城の復元に端を発した公民連携の気風が土台にあるのはまちがいない。
商店街でも観光地でもない存在感
他の都市と同じく長浜も買い回り商業の拠点は郊外に移った。平成8年(1996)、平和堂が店舗面積15,436m2のアルプラザ長浜を出店。平成12年(2000)には店舗面積21,134m2のジャスコ長浜SCがバイパスのさらに外側、北陸自動車道の長浜ICの麓に開店した。現在のイオン長浜店である。
旧市街に目を転じると、最近はコロナ禍で閉店した店もあるようだが、4年前に筆者が訪れたときは賑やかさを保っていた。北国街道、大手町界隈は空き店舗も目に入らなかった。もっとも、かつての西友やパウワースのような店はなく、日常使いあるいは地域の買い回りを担った、いわば狭義の商店街が復活したわけではない。個性的な店が軒を連ねる観光スポットのような印象だ。かといって一度訪れれば十分な、いわゆる観光地でもない。近畿圏、中部圏からの来街が多くリピート率も高い。ガラス工芸をキラーコンテンツに、アンティークな街並みを舞台とするテーマパークのような独特のポジションを築いている。これも中心市街地の再生の姿のひとつである。
パウワース跡地は再開発事業が施行された。事務局は新長浜計画である。個別利用区制度を適用し街道に面する町家を残す方式で事業を進めた。町家部分はイタリアンレストラン、高級食パンのベーカリーになった。商業棟では発酵をコンセプトとしたチーズ構造、喫茶室、ショップ、ギャラリーや図書室を備えた複合施設「湖(うみ)のスコーレ」が昨年末オープンした。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融。昨年12月に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)出版

図表.図1 長浜鉄道スクエア(頭端式だった初代長浜駅)
図表.図2 市街図
図表.図3 広域図
図表.図4 北国街道と黒壁ガラス館(交差点(札の辻)右奥)