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路線価でひもとく街の歴史

第22回 「栃木県宇都宮市」

一足早かった車社会化の先のLRT都市

歴史的に宇都宮は下野国一の宮の二荒山神社の門前町。諸説あるが二荒山神社の別称が宇都宮の地名の由来となった。近世城下町としては江戸時代の初め、家康側近の本田正純が城主だった時代に町割りの原型ができた。田川に沿って城の東側にあった奥州街道を西側につけかえ、城の西北で日光街道から分岐させた。元々、二荒山神社の社地は下之宮の一帯を含んでおり、奥州街道は社地を迂回するように屈曲している。
市街を貫く両街道は日光への参詣路、東北に向かう幹線として往来が絶えず、街道沿いに軒を連ねていた旅館や商店が繁盛した。なかでも本陣があった伝馬町、池上町界隈が賑わっていた。

三島通庸の大通り整備
明治に入り、戊辰戦争に巻き込まれ宇都宮はいったん焦土となる。その後、廃藩置県を経て宇都宮県の県庁所在地となった。当初宇都宮県とは別に栃木県があり今の栃木市(栃木町)に県庁があった。栃木県南部は県境を越えて両毛地域圏を形成しており宇都宮に対し独立性があった。今も栃木県には自動車のナンバーがふたつある。宇都宮の「栃木」に対し両毛地域は「とちぎ」だ。明治6年(1873)に両県は合併し新制栃木県となったが県庁は栃木市のままだった。
宇都宮市に県庁が移転したのは明治17年(1884)である。前後して三島通庸が栃木県令に就任した。本連載の山形市の回で登場した通称「土木県令」である。山形と同じように宇都宮の大改造が始まった。二荒山神社の西隣に官庁街を造成。奥州街道に直交する街路を敷き、突きあたりに県庁を置いた。そして奥州街道の、鉄砲町の手前で屈曲していた先の細道を拡幅し「大通り」を整備した。大通りは市街の東西を直線で貫く横軸となった。田川を渡った東端には宇都宮駅がある。宇都宮駅の開業は大通り整備の翌年の明治18年(1885)。当時の宇都宮市街を大きく迂回して敷設された日本鉄道の駅だった。
この頃の駅の吸引力はまだ弱かったが、大通りの開通は街の構造に少なからぬ影響を与えた。街道の分岐点近くにあった中心街が大通りに沿って二荒山神社の周辺に移ってきた。栃木県統計年鑑を調べたところ、遅くとも大正期には二荒山神社の前の馬場町の地価が最も高かった。戦後の昭和35年(1960)の最高路線価も「馬場町、春木屋食堂前二荒神社前通」だった。春木屋食堂は大通りと神社の表参道バンバ通りが交差する馬場通り一丁目交差点の南西角にあり、今も同じ場所で和菓子店と洋食店を営んでいる。

大工町の銀行街
黎明期の銀行も大通り沿線に立地している。大工町に多かったが、ここは大通りの整備前は裏通りだった。
宇都宮初の銀行は明治11年(1878)に開店した第三十三国立銀行の宇都宮支店である。明治19年(1886)には第六十国立銀行が支店を出す。いずれも本店は東京で明治25年(1892)までに休業してしまった。
明治20年(1887)に第一国立銀行の宇都宮支店が開業。明治27年(1894)、他の地域と同じように地元行に業務が引き継がれた。宇都宮の場合、引継ぎ先は栃木町が本店の第四十一国立銀行だった。栃木県初の国立銀行で明治11年(1878)の創業。大正7年(1918)に館林の第四十銀行と合併して第八十一銀行となり、大正10年(1921)に東海銀行(かつて名古屋市にあった東海銀行とは無関係で本店は東京)に併合された。昭和2年(1927)に東海銀行は第一銀行と合併。いったん譲渡した支店が回りまわって第一銀行に復帰したことになる。店舗は昭和9年(1934)に大工町から宮島町に移転。今のりそな銀行の場所だ。ちなみにりそな銀行の前身のひとつ不動貯金銀行の宇都宮支店は大正6年(1917)に開店している。
宇都宮が地元の銀行で最も早いのは明治24年(1891)創業の下野銀行で大工町にあった。明治29年(1896)には宇都宮銀行が杉原町で創業した。下野銀行は県内に広く展開していたが大正12年(1923)に休業し地元経済界は少なからず動揺した。大正14年(1925)には宇都宮銀行他5行が合併し下野中央銀行が発足。県と宇都宮市の公金も取り扱っていた。しかしこちらも昭和5年(1930)に休業。宇都宮に本店を構える銀行が無くなった。見渡せば栃木県を本拠とする銀行は足利銀行だけとなる。明治28年(1895)に今の足利市で創業。最初の支店を群馬県桐生、2番目を館林に出したように両毛地域を地盤としていた。今も桐生市の指定金融機関である。宇都宮商業銀行を統合し宇都宮に進出したのは大正13年(1924)。その翌年、支店を馬場町の現在地に移転した。本店を宇都宮に移転したのは昭和42年(1967)である。
宇都宮に現存する銀行で最も古いものはみずほ銀行である。支店を出したのは明治13年(1880)。前身の安田銀行の本店は日本橋小舟町にあったが、両替商から合本安田銀行に組織変更した時の支店は栃木支店と宇都宮支店の2つだった。宇都宮のみならず、現存する安田銀行系の支店の中でも最も古い。初め杉原町にあったが明治35年(1902)に大工町に移転した。昭和6年(1931)、下野中央銀行に代わって宇都宮市の市金庫に指定され、以降昭和61年(1986)まで指定金融機関の地位にあった。
安田銀行は戦後に富士銀行になった。他に、戦前の進出行で現存するものを挙げると、明治31年(1898)に発足した栃木県農工銀行を起源とする日本勧業銀行がある。昭和46年(1971)に第一銀行と合併し第一勧業銀行となったが、平成14年(2002)には富士銀行とも合流しみずほ銀行になった。今の宇都宮支店は栃木県農工銀行があった場所だ。

馬場町の百貨店の賑わい
銀行と並び街の発展史を織りなす役者である百貨店の動きを追ってみよう。地元最古の百貨店は馬場通り一丁目交差点の北東角、二荒山神社の門前(図1 市街図の1)にあった上野百貨店である。明治28年(1895)の創業時は油屋呉服店と称し、日光街道の本郷町にあった(図1の1’)。後に上野呉服店に改称。門前の店舗は2代目店主の時代、大正14年(1925)に出した支店だった。昭和4年(1929)に上野百貨店となる。
戦後は昭和32年(1957)に地元資本の山崎百貨店が開店(図1の3)。昭和34年(1959)東武宇都宮百貨店が開店した(同4)。昭和6年(1931)、宇都宮刑務所の跡地に開業した東武宇都宮駅の駅ビルである。昭和35年(1960)、曲師町に緑屋が開店(同5)。昭和37年(1962)に3番目の地元百貨店の福田屋が開店(同6)。翌々年には上野百貨店が6階建の本館を新築した。
昭和40年代は全国展開する百貨店の出店も相次いだ。昭和42年(1967)には丸井が進出(同7)、翌年十字屋が宇都宮店を出した(同8)。昭和46年(1971)には西武百貨店が出店(同9)した。地元勢として上野百貨店は昭和44年(1969)に表参道を挟んで向かい側の馬場町に新館「新うえの」(図1の2)を出す。東武宇都宮百貨店は昭和48年(1973)に当時は市内最大の13,470m2に増床。5年後には地域一番店となった。
その後、昭和49年(1974)に山崎百貨店が閉店し緑屋が入居、昭和60年(1985)にams宇都宮に転じた。ざっと数えて百貨店・大型店が8店あったこの頃が宇都宮の中心商店街の全盛期といえる。

図1.市街図の1

一足早い車社会化と百貨店の郊外移転
車社会化ととも中心商店街の時代は曲がり角を迎える。だいたいの地方都市で商業郊外化の兆候は80年代に表れ90年代後半に本格化する。その中で栃木県の車社会の波は一足早く訪れた。ちなみに昭和41年(1966)時点で世帯当たりの自動車保有台数がもっとも高かったのは愛知県で次が東京都だった。栃木県は20位で、この頃の自家用車は特別な存在だった。以降急速に普及し昭和54年(1979)に栃木県は群馬県に次ぐ2位になる。昭和58年(1983)は世帯当たり1台を超えた。
一足早く始まった車社会化とこれに伴う商業郊外化を背景に丸井が撤退。バブル景気が本格化する前の昭和62(1987)の話である。耳目を集めたのは平成6年(1994)に福田屋百貨店が都心店を閉じて郊外に大型店を出したことだ。店舗面積17,000m2の福田屋ショッピングプラザがオープン。後に増床し39,000m2となった。百貨店といえば都心にあるものと考えられていた中、わが国初の郊外型百貨店として話題をさらった。
その翌年、地域一番店の東武宇都宮百貨店は35,000m2への増床で対抗。平成8年(1996)には十字屋が閉店し、上野百貨店は本館をパソコン専門店T-ZONEに転換した。戦略としての若者シフトもみられた。平成9年(1997)、馬場通り一丁目交差点の東南角、上野百貨店本館の向かい側に整備した再開発ビルにパルコが入居(図1の10)。平成13年(2001)にはams宇都宮に交代する形で109UTSUNOMIYAが出店した。
2000年代に入ると既存大型店の閉店が相次いだ。平成12年(2000)に上野百貨店が経営破たん。先行する福田屋に倣って前年に郊外モール業態の大田原店を開店したばかりだった。平成14年(2002)に西武百貨店が撤退。その翌年には宇都宮駅前のロビンソン百貨店が閉店した。平成2年(1990)に開店した駅前百貨店だった(図1の11)。背景には一段と進む郊外化と大型化があった。平成15年(2003)、福田屋2店目となる郊外大型店、店舗面積55,000m2のFKDショッピングモール宇都宮インターパーク店が開店。平成16年(2004)には工場跡地に店舗面積42,000m2のベルモールショッピングセンターが開店した。それぞれ現在は69,000m2、48,000m2に増床している。
若者シフトの起爆剤と期待された109も客足振るわず、平成17年(2005)、開店4年にして撤退を余儀なくされた。

LRT開通で期待される市街地の変化
現在、都心立地の百貨店は東武宇都宮百貨店のみとなった。109の跡地は市に買収されオリオン市民広場、通称オリオンスクエアとなった。上野百貨店の跡地は平成19年(2007)に「うつのみや表参道スクエア」が建った。西武百貨店の撤退後、建物はラパーク長崎屋を経て今はMEGAドン・キホーテになっている。馬場通り一丁目交差点に最後まで残っていたパルコも令和元年に閉店した。上野百貨店の新館「新うえの」跡地は再開発でマンションとなった。街路に面する下層階では足利銀行が営業を続けている。
明治の大通り整備以来、最も地価が高かった馬場町界隈だったが、令和2年、最高路線価地点が「宮みらい宇都宮駅東口駅前ロータリー」に移った。中心商業の衰勢が背景だが、駅前百貨店があった西口ではなく東口であるのは、令和5年(2023)開業の路面電車(LRT)「宇都宮ライトレール」への期待があるからだ。宇都宮駅東口から芳賀・高根沢工業団地まで14.6kmの区間を44分、ラッシュ時6分間隔で結ぶ。
宇都宮市は将来の都市構造として「ネットワーク型コンパクトシティ」を掲げている。それぞれコンパクトにまとまった都市、産業、観光そして地域拠点を結ぶネットワークのカギとなるのがLRTだ。令和2年度に始まった第3期中心市街地活性化基本計画にもLRT色がうかがえる。今後、LRTを軸とした新たな街が沿線にできる。ネットワーク化の余勢をかって中枢機能を高めつつ、集客効果を西側の中心市街地に波及させようというものだ。特にLRTの始発となる駅東は宮みらい地区の再開発が進行中だ。来年11月に「街開き」の予定で、エリア内にはコンベンション施設を中心に都市型モール、専門病院、ホテル、マンション等が建ち並ぶ。
旧城下町エリアにも再生の兆しがうかがえる。元が屋敷町だから住まう街としての魅力は高い。大型店がしのぎを削った商業地にマンションが建ち、ここ数年来の居住人口は横ばいないし微増傾向にある。東武線西側の「もみじ通り」は昭和に栄えた商店街だがシャッター街となり商店会も解散した。その後、空間デザインを本業に不動産仲介から起業アドバイスまで手掛ける建築デザイン事務所、株式会社ビルススタジオがもみじ通り界隈で店を始めたい人を募集し空き建物を物件化。地道な活動が奏功し個性的なカフェやショップなど22店が出店した。図3 もみじ通り(上)、もみじ図書館(下)下はその一環でアパートの一角にできた私設の図書館で、エリアの価値向上に一役買っている。

図2.広域図

図3.もみじ通り(上)、もみじ図書館(下)

プロフィール

大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融。12月22日に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)上梓予定