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ファイナンスライブラリー

與那覇  潤 著 平成史―昨日の世界のすべて

評者 渡部  晶
文藝春秋 2021年8月 定価 本体2,200円+税

著者の與那覇潤氏は、1979年生れで、筑波大学附属駒場高等学校を経て、東京大学教養学部・同大学院総合文化研究科博士課程を終了後、2007年から17年まで愛知県立大学准教授で、日本近現代史を専門とした。2014年春にうつ状態と診断され、2015年から2年間の休職を経て、17年に大学を辞している。そのうつ体験と同時代史を綴った『知性は死なない―平成の鬱をこえて』(文藝春秋、2018年4月)は大変な話題作で、この11月には文春文庫から増補版が出ている。この増補版には、気鋭の「現」臨床心理学者・東畑開人氏(十文字学園女子大学准教授)が「ゲームマスターと元歴史学者―そのワイルドな知性」(以下「東畑解説」とする。)という素晴らしい解説を寄せている。
與那覇氏の著作については、本誌2013年10月号で、東島誠氏との共著『日本の起源』(太田出版)、同2015年1月号で『中国化する日本 増補版』(文春文庫)、同2018年5月号で『日本人はなぜ存在するか』(集英社文庫)を紹介している。その後も、『歴史がおわるまえに』(亜紀書房、2019年)、『荒れ野の六十年―東アジア世界の歴史地政学』(勉誠出版、2020年)、『歴史なき時代に―私たちが失ったもの 取り戻すもの』(朝日新書、2021年)が出版されているほか、斎藤環氏との対談をもとにした共著『心を病んだらいけないの?―うつ病社会の処方箋』(新潮選書、2020年)は、第19回小林秀雄賞を受賞している。
本書は、東畑解説で「與那覇氏の代表作となるであろう」とされている。著者が「PLANETS」(宇野常寛主宰)のメールマガジンで途中(第13章)まで連載されたものを原型とした、まことに重厚な1冊である。なお、本年3月から9月まで約半年、ジュンク堂書店池袋本店での企画「作家書店」の第31代店長が著者であった。著者による700点以上の選書が7つのセクションにわけて展示されていたが、その読書の蓄積には圧倒され、読みの確かさ、深さというものはここからくるのだと確信した。本書にはそれが随処に反映されている。
本書の構成は、「序 蒼々たる霧のなかで」にはじまり、3部(1989年―1997年、1998年―2010年、2011年―2019年4月)にわたる歴史叙述ののちに、「跋 歴史が終わったあとに」で終わる。
平成の約30年間を、概ね1章につき2年ごとの全15章で叙述しきる構成だ。そしてそれぞれの章に、当該の時期の特徴を一言で示す印象的な章題がついている。
その豊富な内容を過不足なく紹介することは評者の非力から難しいが、蛮勇を奮って気が付いた箇所を紹介してみたい。
「序」における「無限の反復のなかで」で、西部邁の1979年の「諸君」への紀行文「反進歩への旅」の1節を示し、浅田彰(1989年)、宮台真司(1999年)、東浩紀(2009年)、落合洋一(2019年)の各氏いずれが書いてもおかしくないことを読者に納得させ、「私たちが生きる社会が直面する課題が、ここ半世紀ほどまったく変わっておらず―そしてなにより―そうした潜在する不変の構造を明るみに出し、私たちが常にそれに挑んできたという同時代史を描く営みが衰弱しているからこそ、過去の積み重ねが歴史として蓄積されない。結果としてあたかもループもののアニメのように、一定期間ごとに『同じような思想・運動』のブームが反復され、しかしまさに先行する経験を忘却しているがゆえに、挫折しては知性への信頼をそこなってゆく」(11頁~12頁)との指摘がつき刺さる。
しかし、著者は、まずは「さぁ、旅をはじめましょう。私たちと同じ問いを、悩みを、平成ないしポスト冷戦の30年間に考え抜いた人びとの貴重な痕跡に、耳をすませながら」(16頁)とするのだ。
第1部は、類書同様、冷戦の終結からはじまる。しかし、同時に「冷戦の終焉は単なる国際政治上の力学の変化ではなく、ひとつの『思考法』が崩壊することでした」とし、あわせて、天皇という『模範』も喪失し、「国民全般から思考する上での参照軸、モデルが喪われてしまった。それが平成元年=1989年の1年間に日本で起きたことでした」(24頁)という。
1997年(平成9年)までの9年間だけで平成という時代が終わっていたら、「阪神・淡路大震災やオウム事件といった重い出来事はあるにせよ、もしそうなら平成はポスト冷戦の空気の下、あらゆる規範が相対化されていった『軽やかな時代』として、煌めきのなかに幕を閉じたかもしれない」(156頁)という。
第2部はじめの第6章の冒頭、江藤淳の自死を述べた「自殺した分析医」の節で著者は以下のようにいう。「絶対的な価値観が失われたいま、言葉で議論を尽くしても結論は出ない。だったら結局のところ、圧倒的なカリスマが体現する説得力に頼るしかない―。平成11年(1999年)は、こうした『言語から身体へ』の巨大な転換が動き出した年でした」(172頁)と。
第11章中「あきらめの倫理学?」の節で、「平成の言論界で最も成功したといえる識者たちが、ようやく成就した政権交代の季節には、すでにポスト・フェストゥムー祭りのあとの心境に陥っていた。結局は現状を前提とし、あきらめていくしかない」(356頁)とする。
第3部冒頭の第12章は、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故からはじまる。そして、「格差社会論の流行以降、もはや日本の全体を単一の共同体として語ることは難しく、かつ有識者ですら『社会』を実感できなくなったいま、眼前の問題に適切なスケールで処方箋を書くことができない。そうした震災以前から煮詰まった袋小路が、脱原発の思想や運動を挫折させたと捉えるのが、今日最も意味のある総括のように思います」(393頁~394頁)とする。
個人的に感慨があるのは、「ついに左派も『歴史修正主義に』」という段(394頁~397頁)である。「戦後史の正体」(孫崎享著 2012年8月)がヒットしたことに当時驚愕した。著者は、歴史学者らしく原典にあたり「思想史上の巨星も、政治史上の重要人物も、目下の『気分』に合致するようデフォルメされた形でのみ消費され、使い捨てられてゆく。そんな時代に『知識人』などとおだてられたところでなにができるのだろう―。私が感じた不安は徐々に、この後の世相のなかで的中していくことになります」とする。この一連の叙述には国家公務員として大変苦いものを感じた。また、2012年の消費増税法案の成立に関連して、大平正芳についての言及が目を引く。いわく「近年ではより明白に『反自民』の側が、『リベラルな保守』の模範として大平を担ぐ例もありますが、消費増税への反対は絶対に大平とは一致せず、またカーター政権下のアメリカを戦後初めて公式に『同盟国』と呼び、自民党右派を懐柔するため靖国参拝も行った史実(首相在任中に3回)を捨象するのは、歴史の利用として適切さを欠いています。あくまで現時点での外交・内政の環境を前提にしつつ、しかし財源論から逃げずに持続可能な社会保障を構築する。そうした『リアリズム』としての大平政治に与野党の主流を収斂させることが、ポスト高度成長期以来の政治改革の悲願だったとみるべきです。」(412頁)との洞察にはうならされた。第15章で、団塊の世代の有識者のうち松本健一、仙谷由人、大沼保昭、橋本治の各氏をあげ、「中間派から鬼籍に入る」定めでもあるかのようだとし、「おそらくそれは、ふたつの時代をともに生きるということの、帰結かもしれません。直前の時代を克服しきれない社会と同じように、自分自身の中にも軋みを抱えつつ、新旧どちらか一色の価値観に染め上げられずに思考を続ける。そうした誠実なかたちで成熟を追い求めることのコストが、あまりにも高くなっていった時代、それが平成だったのではないでしょうか」(533頁)という。
「跋」において、著者は、「ひょっとすると現在は、20世紀後半の世界を支配した冷戦期と、そのアップデートとしてのたとえば『米中冷戦』の時代との、狭間にあたっているのかもしれない。しかし、かつて歴史学者だったものの眼で見たとき、これほど思想的に貧しく、寂しい『戦間期』があるだろうか」と自問する。そして、「目下の第二戦間期(?)のメディアは、いわば『シュペングラーもどき』だけが跋扈している時代だ」(548頁)とする。
著者は、本書を「私が『歴史学者』として著す、最後の1冊になる」という。コロナ禍における與那覇氏の言論活動は、「東畑解説」が指摘するように「ワイルドな知性」を示している。また、歴史学者の現況を厳しく批判している。しかし、「東畑解説」がパスカルの『パンセ』を引いて指摘するように「哲学をばかにすることこそ、真に哲学をすることである」。そして、「自分自身を否定する不気味な何かを抱え、自信を失い、脆弱になることによってのみ、知性は研ぎ澄まされる。だとするならば、元歴史学とは歴史学を癒そうとする試みにほかならない」と喝破する。
評者は、大学の教養部で当時講師であった河村貞枝先生のイギリス近代史の講義を聴いて、村岡健次著『ヴィクトリア時代の政治と社会』や角山栄・川北稔先生の諸著作などで、大学での歴史研究のおもしろさに感動したことをいまでも思い出す。「歴史学」はまだそこにあると信じたい。
本書は「平成」を振り返るのに必読の1冊だと思う。ぜひ本書を手に取ることをお勧めしたい。