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路線価でひもとく街の歴史

第21回東京都中央区築地・銀座 ハイカラの拠点は築地居留地から銀座へ

都内で最も高い路線価は銀座中央通りの銀座4丁目交差点をまたぐ地点である。昭和34年(1959)の公表で三愛装身具店中央通とあったので、この頃既に4丁目交差点が一等地だった。本連載4月号の日本橋の回で書いたように江戸以来の中心地は日本橋だった。東京市統計年表によれば銀座の宅地賃貸価格が日本橋を追い越し第1位になったのは昭和4年(1929)。本連載の考え方、「主要交通手段の変遷によって街の中心は移転する」に則れば、その背後に舟運から鉄道へ変遷があったと考えられる。東京に鉄道が開通したのは明治5年(1872)で、ターミナルの旧新橋駅は今の汐留にあった。今の銀座8丁目交差点にあった橋「新橋」の向こう側が駅前広場だった。ひとつの見方だが銀座は「駅前商店街」だったのだ。

宣教と文教の街だった築地居留地
他方、銀座エリアの内側に着眼すれば、その重心は築地居留地から銀座4丁目交差点に移ったのではなかろうか。銀座といえば戦前はハイカラ、モダンで形容され、現在もハイブランドが軒を並べるファッションの中心地である。こうした銀座イメージの源流は築地居留地にあるという仮説の下、築地から話を始める。
安政の五か国条約で横浜等の開港とともに築地の「開市」も決定した。開港と違って恒久拠点は置けないので、横浜を拠点に江戸には短期滞在の出張扱いで商談する目論見だった。いわば営業所のような位置づけである。横浜の関内のように居留地は水路で囲われている。狭義には隅田川、堺川、築地川に囲まれた区画で、広義にはその南北に設定された日本人と外国人の雑居地を含めた区画をいう。雑居地と狭義の居留地の間には居留地を管理する運上所があった。現在、運上所の跡地に「電信創業之地碑」が建つ。明治2年(1869)に本邦初の電信が運上所と横浜裁判所の間に敷かれたことに由来する。
雑居地には波止場があり定期船が横浜と往来していた。その南端には「築地ホテル」があった。日本橋の回で触れた第一国立銀行、為替バンク三井組と並ぶ擬洋風建築である。新橋駅を手掛けた米国人建築技師ブリジェンスの基本設計の下、慶応4年(1868)に竣工した。施工は2代目清水喜助率いる今の清水建設。発注元の幕府に財源がなかったため、現代のPFIよろしく資金調達から完成後のホテル経営まで請け負った。
インフラは整備され、とりわけ築地ホテルは錦絵映えのスポットになったが、期待されていたようなビジネス街にはならなかった。文久元年(1862)の予定が延びようやく居留地がオープンしたのは幕府瓦解後の明治元年(1868)。横浜が開港して10年経ち貿易港として定着してきた。得意先と見込んだ大名階級だが江戸市中から撤収する者もおり、築地居留地はビジネス展開の上で魅力ある立地ではなくなってきた。そうして築地ホテルは経営が厳しくなり、不幸にも4年後の銀座大火で全焼してしまった。
ビジネスパーソンの代わりにやってきたのがキリスト教の宣教師だ。宣教師たちは明治6年(1873)のキリシタン禁制の解除を待って活動を始める。翌年にはローマ・カトリックのパリ外国宣教会の宣教師が居留地の真ん中の角地を借り受け、築地教会を建てた。明治11年(1878)には司教座(カテドラル)となった。以降大正9年(1920)に現在地の関口に移るまで日本の地域拠点のひとつだった。その他プロスタント諸派を含む計13教派が築地居留地に教会や宣教師館を構えていった。
宣教のため、彼らは宣教師館や教会に学校や病院を併設していった。図1(市街図)の丸数字はその場所だ。例えば番号1は名前が番地に由来するA六番女学校で、禁教令の解除に先立つ明治3年(1870)に米国長老派教会の宣教師が立ち上げた。後の女子学院である。2の東京一致神学校も長老派系で、こちらは明治学院の源流だ。明治10年(1877)の開設だが元を辿れば文久3年(1863)に横浜で開校したヘボン塾に行き着く。明治10年は3の海岸女学校が開校した年でもある。米国メソジスト監督教会による創設で、青山学院の前身校のひとつとなった。
明治7年(1874)、米国聖公会の宣教師が4の場所に立教学院を立ち上げた。米国国教会は後に病院も開設している。明治34年(1901)年開院の聖路加国際病院だ。初代院長のトイスラー医師は立教学院の理事でもあった。
5は雙葉学園の発祥地である。明治8年(1875)にカトリックの幼きイエス会が修道院に併設した築地語学校があった。カトリック築地教会の敷地(番号6)には暁星学園の前身となる神学校があった。明治21年(1888)にマリア会が立ち上げたものだ。
7には明治28年(1895)に米国バプテスト伝道協会が設立した東京中学院があった。関東学院の前身校のひとつである。8は明治38年(1905)に米国のプロテスタント教会ディサイプルス派が設立した女子聖学院である。当初は神学部の単科だった。以上8つのミッションスクールは既に現在地に移転し、跡地に発祥の記念碑が建つ。ビジネス街ではなくとも居留地独特の雰囲気を持ったエリアだったようだ。内田魯庵は「ドチラをみても外国人の住宅ばかりで、ドコからとなくピアノの音や賛美歌のコーラスを開く時はエキゾチックな気分に陶酔する」と随筆集『読書放浪』に書いている。
図2.歌川国輝(二代)「東京築地鉄砲洲景」塔を乗せた建物が築地ホテル、左上の日の丸の場所が運上所

情報拠点としての銀座
居留地には米国公使館もあった。明治7年(1874)に横浜関内から移ってきて、明治23年(1890)に赤坂に引っ越すまで公使館を構えていた。波止場があり、電信が敷設され、外国人向けホテルも整備され、少なくとも計画時点では築地が人や情報の交流拠点となる予定だったに違いない。新橋に開通した鉄道の引力に持っていかれた次第だ。横浜との往来は居留地の波止場ではなく鉄道が使われるようになった。波止場の隣にあった築地ホテルが全焼して4年後、明治9年(1876)に築地精養軒が開業した。“築地”と付くが今の住所で銀座5丁目、かつて銀座東急ホテル、今は時事通信社がある場所だ。みゆき通りをはさんで向かい側は新橋料亭街で、この辺りは築地と銀座と新橋が混ざっている。
鉄道開通と同じ明治5年に起きた大火も銀座のターニングポイントだった。築地ホテルから銀座一帯を焼き尽くすほどの災害を機に三十間堀川から汐留川、外堀で囲まれた銀座一帯が耐火建築になった。東京駅のような重厚な赤レンガの建物が並んでいるのとは少々違ったがこれでできた銀座の街並みがいわゆる銀座煉瓦街である。英国人のウォートルスが設計した。今風にいえば銀座再開発である。
煉瓦街に変貌した銀座には新聞社が集まった。4丁目交差点の和光の場所は元は朝野新聞の本社だった。東京最初の日刊紙の東京日日新聞は明治9年(1876)から明治42年(1909)まで今の銀座5丁目、イグジットメルサの場所にあった。毎日新聞の源流である。朝日新聞の東京創業の地は銀座6丁目の並木通り、今の「東京銀座朝日ビルディング」の場所にあった。「三四郎」や「こころ」を連載していた夏目漱石や校正係の石川啄木が通っていた。現地には石川啄木の「京橋の瀧山町の新聞社、灯ともる頃のいそがしさかな」の歌碑がある。本社があったのは明治21年(1888)から昭和2年(1927)までで、後に有楽町マリオンの場所に移った。読売新聞は大正12年(1923)から昭和46年(1971)まで外堀通の旧プランタン銀座、今のマロニエゲートの場所にあった。
銀座の立地は情報拠点にふさわしい。貿易港の横浜駅とつながった新橋駅前の地の利。北側には金融はじめビジネスの日本橋、東側には官庁街の日比谷、虎ノ門そして霞が関エリアがある。
銀座再開発エリアには新しい店も集まってきた。明治時代、今でいうショッピングセンターのような「観工場」という業態があった。元々は内国勧業博覧会に出品された逸品を場外で陳列販売する店舗形態だったが、転じてひとつの建物に様々な店がテナントで入る商業施設となる。銀座には明治32年(1899)に今の銀座8丁目の新橋のたもとに帝国博品館ができた(図3.明治43年(1910)の銀座中央通りと帝国博品館)。時計塔を掲げた洋館が目を引いた。関東大震災後にいったん途絶えるも、今も同じ場所で「博品館」が営業している。
銀座煉瓦街は大正12年(1923)の関東大震災で全焼。ほどなくして銀座に百貨店の時代が訪れる。まずは大正13年(1924)に松坂屋銀座店が開店した。屋上に動物園があった。翌年の大正14年(1925)に松屋銀座店が開店。昭和5年(1930)には三越が銀座4丁目交差点に銀座店を出した。ちなみに時計塔を載せたクラシックな建築が銀座のシンボルになっている和光本館は昭和7年(1932)の竣工。明治28年(1895)の開店で元は服部時計店といった。
煉瓦街の時代からメディアの中心だったが、ファッションや社会風俗の面でも銀座は情報発信の拠点だった。洋装のモダンボーイ、モダンガールいわゆるモボ・モガも、カフェー風俗も銀座で発展した。戦後も流行の発信地であり続けた。デザイナーのコシノジュンコ氏が装苑賞を受賞後にイージーオーダーの店を構えたのは銀座の小松ストアーだった。マクドナルド、スターバックスからアップルストアまで日本で初めての店は銀座に構えた。
今もってハイブランド旗艦店の集積地だが、近年は自治体アンテナショップの集積地としても知られている。2020年度自治体アンテナショップ実態調査報告によれば、併設店舗を除く都内62店のうち20店舗が銀座・有楽町にある。隣接する日本橋や新橋エリアを加えると35と半分を超える。地方自治体が地元の逸品をPRするのにも選ばれる場所なのだ。

歴史・病院・住まう街を考える
情報拠点としての銀座、ハイカラ・モダンと形容される銀座の源流は築地居留地に辿ることができると筆者は想像する。明治早々その拠点性は銀座に移ってしまったが、前述の通り洋館や教会やミッションスクールが醸す雰囲気はしばらく残っていた。
が、旧居留地の洋風建築群は関東大震災でほとんど倒壊してしまう。現存するのは震災後の再建である。カトリック築地教会は昭和2年(1927)の建築で、古代ギリシアのドーリア式神殿を模した教会堂である。聖路加国際病院の旧館は昭和8年(1933)築。敷地内にある2階建の西洋風住宅、トイスラー記念館は同年に建てられた宣教師館で、元は聖路加タワーの場所に建っていたものを移築した。これらわずかに残る建物に居留地の面影を感じるが、基本的に一帯は中層マンションが林立する住宅街だ。
かつての築地居留地は年月を経て歴史と病院を擁する住まう街となった。これは背景は違えど拠点性が薄まった地方都市の再生の参考になる。キーワードは歴史、病院、住まう街の3点だ。まず歴史だが、居留地時代の遺構の代わりにミッションスクール発祥の地はじめ記念碑が多い。居留地を囲んだ水路は埋め立てられて今はないが、どこに水路が走っていたかは地図を見れば明らかだ。道端の案内図には水路があった時代との比較がある。戦災や開発で歴史的遺構を失った地方都市でも、碑石、町割や水路跡で街の記憶をとどめることはできる。まちづくりの観点では、住民が歴史の系譜に自らを位置づけることで住む街に愛着を持つことに意味がある。現物は必須ではない。
次に病院だが、旧居留地エリアの中心に聖路加国際病院がある。病院の道路をはさんだ隣にツインタワー「聖路加ガーデン」があり渡り廊下でつながっている。うち38階建の棟の大部分はサービス付賃貸マンション。上層階はシティホテルで低層階が商業施設だ。健康であっても血管系疾患等の再発リスクを抱えるシニア層にとって、24時間体制で稼働する高度医療施設が隣にあるのは心強い。病院にとっても入院病床ではなく在宅ケアの拠点になりえる。高齢化社会にとって病院中心のまちづくりは魅力的な選択肢だ。高度・救急医療体制は都市防災の観点からも求められる。
最後に住まう街である。かつて居留地を囲んでいた水路は公園になった。築地川公園しかり。運上所の前の入り江の堺川はあかつき公園になった(図4.あかつき公園(堺川跡)とツインタワー)。鉄砲洲川は道路になったが歩道が広い大通りになった。ツインタワーの東側の明石町河岸公園は隅田川の眺めがさわやかな散歩コースだ。川には水上バスが行き来している。地方の中心市街地は車社会化の影響で商業拠点の空洞化が激しい。コロナ後、ネット通販の時代は本格化し商業拠点自体の意味も薄れてくるだろう。これからのまちづくりの方向性は「住まう街」だ。その点、歴史、病院、住まう街の3点揃った旧居留地は意外にも地方都市の参考になると思う。

プロフィール
大和総研主任研究員
鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融