このページの本文へ移動

日本の建築(法隆寺から新国立競技場まで)(下)

元国際交流基金 吾郷  俊樹

3.近現代の日本の建築
前編の伝統建築に続き、後編は、近現代の日本の建築。

1.はじめに―安藤忠雄(1941~)
癌が見つかり、医者から「「(膵臓、脾臓、十二指腸、胆嚢、胆管)全部ない人は日本中にいないから面白い」と言われて、全部取り、絶望したが、絶望するだけではだめで、挑戦しないといけないと語る、いつも満員という大阪弁のこの人の講演は面白い。おそらく、日本で最も知られている現在の日本人建築家。
中学生の時、自宅を二階建てに増築。若い大工が一心不乱に働く姿を見て建築に興味。高校二年生で半年前にデビューした双子の弟の後を追い、プロボクサーデビュー。ジムを訪ねてきた世界チャンピオンのファイティング原田の練習をみて、「プロでのし上がっていくには才能が必要なのだと痛烈に思い知らされ」、「ボクサーの道をすっぱりとあきらめた」という。
「家庭の経済的理由と何より学力の問題から大学進学を諦めざるを得なかった」安藤は独学で建築を学ぶ。古書店で、近代建築の巨匠、ル・コルビュジェの作品集と出会った「が、高価すぎて手がでない。他の客に買われないように、書店に行くたび本を下に移動させ」、数か月後にやっと購入。「全ての図面を覚えてしまうくらい、何度も何度も」図面を書き写し」たという安藤の愛犬の名はコルビュジェ。
1971年、初めて住宅の設計依頼。四軒長屋の一軒を建て替え、夫婦と生まれてくる子供一人のための「極限の家」を建てたが、双子が生まれ、依頼主から、「安藤さんが双子だからうちにも双子が生まれた。責任を取って欲しい」と言われ、その住宅を買い取り、自分の事務所に。1975年、建築雑誌に掲載されたその住宅を見て、電通社員が長屋の建て替えを依頼。日本建築学会賞を受賞する「住吉の長屋」と呼ばれるこの家は、三軒長屋の真中をカットし、コンクリートの箱を挿入。「間口わずか二間(3.6メートル)、奥行き約八間(14.4メートル)」を「三分割して中央の中庭を設け…狭い空間の中に大きな宇宙を作り出そうとした」。雨の日は傘が要るこの家、建築界の巨人がある建築賞の審査員として現れ、「じっくり見た後、『この建築は悪くない。が、建築家でなく、頑張っている住み手の勇気に賞を与えるべきだろう』と言い残してその場を去った」。記事を見て、当代随一の建築写真家二川幸夫が来る。一通り見終わった後で、「面白い」と言い、「がんばれ。これからお前が作る建築は全部写す。そのうち作品集を作ってやる」と一言。
「海外で未だ一つのプロジェクトも経験したことはな」かった1982年、突然フランスの建築家協会I.F.A.から個展の招待。「問題にぶつかりつつもなんとか乗り越え展覧会」。その後、「1991年にニューヨークのMoMAで、そして93年にパリのポンピドー・センターで、日本人として初めての個展」。「現代美術の世界的殿堂である両施設で生存している人間の個展というものが、そもそもなかった」中、「かけがえのない貴重な経験」に。「世界は広く、知らないことが多い。いくつであっても新しいことへの挑戦が、また新たな可能性をうみだす」と安藤は語る。
余程魅力的な人なのだろう。1972年に出会ったサントリーの佐治敬三は「私の事は何も聞かず、ただ「人間として面白そうだから」という理由であちこち連れて行ってくださった。お会いしてから十数年たったころ、「お前、建築家らしいな」という。「知らなかったのですか」と問い返すと、「いちいち学歴や職業など聞いておれん。一生懸命生きとるかどうか、それだけや」と言われた」という。安藤が東大教授に決まると、佐治は東大の先生方を招いて料亭で壮行会を開き「これだけ接待したのだから、安藤をいじめないでくださいよ」と一言。竹中工務店にいた友人の案内で、「社員でも簡単には立ち入れない」スペシャルデザインルームに忍び込むようになり、社長に見つかり、「よくこんな奥深いところまで、勇敢ですね。」と感心され、励まされ、ご馳走にまでなったという。
直島。1988年、公害で荒廃した直島を現代芸術の島にしようとしたベネッセの福武總一郎は「東京を反面教師にしようと思い、建築家も東京ではなく、大阪出身の『戦う建築家』と称されていた」安藤に依頼。最初、理解に苦しんだ安藤も、「経済は文化のしもべである」との福武の「気迫と精神力に掛けてみたいと思うに至った」。1992年に安藤設計の自然とアートに包まれ食事をし泊まることもできる美術館、ベネッセハウスが完成。アーティストが泊まる部屋に絵の具を置いておくと、勝手に絵を描いていくという。当初30万人の来場見込みでスタートし、90万人以上来場した「2010年に行われた瀬戸内国際芸術祭に、多くの人が集まったのには驚いた」と安藤もいう。
建築の仕事について、「どんなプロジェクトも、私とスタッフの一対一で進める。…技術が進歩しても、仕事は人と人との生身の対話で進められるべきもの。」という安藤。ハイアットホテルのオーナー、ジェイ・プリツカーが創設した建築界のノーベル賞といわれるプリツカー建築賞を1995年に受賞、2003年文化功労者、2010年文化勲章受章、フランスのレジオン・ドヌール勲章は2005年のシュヴァリエに続き、2021年、コマンドゥール受章など受賞多数。
前回ご紹介したユネスコの世界遺産となっている日本の伝統建築から世界的にも高い評価を受けている現代の日本の建築に至るには、多くの建築家達の活躍。ここでは、(1)大工棟梁の時代、(2)「西洋建築の父」、ジョサイア・コンドル、(3)その弟子で日本銀行本店や東京駅の設計者、辰野金吾 (4)日本にも大きな影響を与えた欧米のモダニズム建築の巨匠達を経て、(5)その影響を受けた丹下健三以後の現代日本の建築家、そして、(6)現代日本の建築家たちが活躍する最近の国際建築展をご紹介。
写真:同潤会青山アパートメントの再開発「表参道ヒルズ」も安藤の建築。地権者との対話を重ね、一部を「そのままの形に復元」し、既存の風景を守るため高さをケヤキ並木と同程度に抑え、容積確保のため地下30mまで掘り下げたという。出展:表参道ヒルズ

2.日本伝統建築棟梁の時代
1853年、ペリー来航で開国を迫られ、西欧列強がやってくると、西洋建築が必要になり、大工棟梁がこれを担う。大手ゼネコン5社の社史を紐解くと、家康の時代、1610年(慶長15年)創業の竹中工務店を除くと、1804年創業の清水建設、1840年創業の鹿島建設、大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一が設立にかかわり、1888年設立の大成建設、1892年創業の大林組といずれも19世紀に事業開始。大工棟梁の仕事として知られるのは、西洋人建築家と組んだ清水建設2代目、「青天を衝け」にも登場した清水喜助(1815-1881)が建築、施主の幕府の瓦解で清水自身が経営した「築地ホテル館」。木造二階建てで102室、幅70m、奥行き60mは世界遺産の東大寺大仏殿より大きい。当時大変な話題となり、文明開化の東京を代表する建築として津々浦々に知れ渡ったという。

3.お雇い外国人の時代―ジョサイア・コンドル(1852~1920)
「西洋建築の父」。外務卿井上馨の欧化政策の舞台となった国家の迎賓施設、鹿鳴館(1883)の設計者。明治初期、イギリス建築家協会の設計コンクール、ソーン賞に入賞した将来を嘱望される若者が、日本政府の招きに応じ、弱冠25歳で来日し、東京大学工学部建築学科の前身、工部大学校の外国人教師に就任。その仕事は「建築の造形、構造、設備は無論のこと、材料の調達、建設工事、管理運営、更には暮らし方の指南」にまで及んだという。1898年、岩崎弥太郎の女婿、後の総理大臣、当時、ロンドンの大使館勤務の加藤高明はコンドル設計の岩崎弥之助深川別邸(1889)の各部屋を飾るためにコンドルの指示で買い集められた絵画を義兄弟の久禰に送る。「のちの首相もここでは岩崎家の使い走り」だったという。
工部大学校の教授職は、第一回生の辰野金吾が後任となり、コンドルは、建築事務所を開く。この時期の作品は、穏やかな古典主義作品が多く、岩崎弥之助邸(現・関東閣)(1908年)、三井家クラブ(1913年)、島津忠重邸(現・清泉女子大学)(1915年)など。
「ジャポニスムの熱に感染した若き建築家だった」コンドルは、日本画の河鍋暁斎(1831-1889)に弟子入りし、「暁瑛」の名をもらい、花柳界の踊り手を妻に迎えた。モダニズム建築の初期1920年、東京で没し、護国寺に眠るコンドルの墓は文京区指定史跡。

4.辰野金吾(1854~1919)
藩の洋学校で英語教師、高橋是清から英語を学ぶ。コンドルの教育を受け、1879年、工部大学校造家学科を首席で卒業した辰野は、卒業後に英国留学。帰国後、コンドルの後任の工部大学校教授に就任し、長きにわたり人材育成。
建築家としては、「辰野式」と呼ばれる煉瓦と石造りの建築で知られる。東京帝国大学教授時代の代表作は1896年竣工の日本銀行本店。さすが日銀、設計にあたり辰野に欧米の銀行建築を調査することを求め、辰野は一年間以上の欧米巡回の旅へ。日銀本店の設計当時、ペルー銀山の経営失敗により全財産を失い路頭に迷っていた高橋是清がかつての教え子である辰野の下での建築事務主任。日銀本店が煉瓦に石張りなのは、石造りの予定の本店を「石造りとすると工費も大幅に跳ね上がる」ため、高橋が石張りを提案し、辰野がそれを受け入れたからだという。
東京帝国大学を退職後、建築事務所を立ち上げ、代表作は東京駅。施工した大林組の社史によると、「明治建築界の元老辰野金吾博士の設計になる今に残る名建築であるが、同時に施工にも素晴らしいものがあった。あの関東大震災でもまったく被害をうけず、昭和20年5月の東京大空襲の際に直撃されながらも、上部だけの被害にとどまり、補修により今も現役のままであることからも、その水準の高さが分かる。」という。
教育者としては、西洋建築に加えて、御所大工家の惣領、木子清敬を帝国大学工科大学講師に招聘し「日本建築学」を新設。西洋建築一辺倒であった造家学に、日本の伝統建築を学ぶ講座が初めて作られた。
コンドルに先立ち、1919年にスペイン風邪で逝去。「建築家にはなるな」との辰野家の家訓を守り、息子隆は仏文学者に。
写真:(辰野金吾の代表作、日本銀行本店、出典:日本銀行のWebsite)

5.モダニズム建築の巨匠たち
コンドルや辰野が相次いで亡くなった頃、日本人建築家は大体1920年までに西欧の伝統的な建築様式を自在に使いこなせるまでに。第一次大戦からの復興期のこの頃、欧米ではモダニズム建築の動き。
近代建築の三大巨匠と言われる人達がいるらしい。おそらく日本で最も有名なのは帝国ホテル旧館の設計者、米のフランク・ロイド・ライト(1867-1959)。2人目は、その作品や弟子たちを通じておそらく日本の建築に最も影響を与えた、仏のル・コルビュジエ(1887-1965)。3人目は、隈研吾が建築学科に入学すると、学生たちはコルビュジエかローエのどちらが好きかと頻繁に議論していたという独のルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)。
そのル・コルビジェ。自伝によると、13歳で時計装飾の専門彫金師養成の美術学校入学。16歳で先生から「君には絵画の才能がまったくないよ!」との審判に従い、「建築を始めた」。20代初めにリュックを背に「ほとんどお金もなく」欧州各地を旅したとも言うが、ルーブル宮中庭での葬儀ではフランス文化大臣が別れの言葉を述べ、米国大統領からの談話も届いたという。近代建築への顕著な貢献のため、上野の国立西洋美術館を含む三大陸7か国の17の建築作品が平成28年度にユネスコの世界文化遺産登録。その建築は「広い地域に重大な影響を与え,いまだに少なからず21世紀建築文化の基盤であり続けている」という。
1926年、彼がそれまでの理論的実験を体系化した今も建築学科の大学院の入試に出る「近代建築5原則」((1)ピロティ、(2)屋上テラス、(3)自由な平面、(4)水平連続窓、(5)自由なファサード」は広く知られ、ル・コルビジェをみて建築家を志した人は多い。1965年、安藤忠雄は一般人の海外旅行解禁翌年にシベリア鉄道でヨーロッパへ。「近所の人たちと水杯を交わし、二度と帰ってこられないかのような雰囲気」で「ル・コルビュジェに会いたい一心で」旅立ったが、フランスに着く直前に他界。しかし、「数々の西洋建築を見て歩くうち、建築とは、人間が集まって語り合う場を作る行為に他ならないと、気付いた」という。こうして「20代の旅の経験から多くの事を学んだ。」という安藤も「私は独学で建築に道に入り、とにかく興味を持った建築を実際にひたすら見て歩くことから始めましたが、…巨匠ル・コルビジェの生き方に、少なからず影響を受けていると思います」と語る。

6.戦後の日本の建築家たち
戦前からの世界的なモダニズム建築の流れを受け、戦後の日本をみると丹下健三などを第一世代、槇文彦、黒川紀章、磯崎新などの第二世代、安藤忠雄、伊東豊雄のような1940年代生まれの第三世代、バブル景気に沸く1980年代末に建築家としてデビューしたのが第四世代だという。
数多の建築家の中で誰を紹介するかは悩ましく、ここでは安藤忠雄を含め7組いる建築界のノーベル賞、プリツカー建築賞の受賞者をご紹介。

(1)丹下健三(1913~2005、プリツカー建築賞1987年受賞)
おそらく史上最も有名な日本人建築家。ル・コルビュジェに傾倒し、1938年に大学卒業後、ル・コルビュジェの教え子、前川國男の設計事務所に勤務した後、大学院に戻る。戦時中1942年、日本建築学会主催の「大東亜建設記念造営計画」コンペで一等獲得。
戦後、1949年の広島平和記念公園コンペで一等獲得。1951年、イギリスで第8回CIAM(近代建築国際会議)に前川と共に参加し、「広島平和記念公園」で国際デビュー。丹下の下で図面を引いていたという第二世代の建築家、磯崎新は、広島平和記念館本館について「これは『桂離宮っぽい』ということになっています」、「まんなかに耐震壁を入れることによって、横力の計算を外壁から全部内側に追いやるんです。これがのちにコアシステムへとつながっていきます。」という。1963年、22歳の安藤忠雄は「たった一人の卒業旅行」で、夜、広島の平和記念資料館を訪れ、丹下健三作品に感動したという。
旧東京都庁(1957):「コアシステム」といえば、旧東京都庁で、丹下は「コア」という構造概念を示す。「コア」とは「建築の荷重を集中的に負担する部分」で階段、空調、エレベーターを収納する「厚い壁で構成された中空柱」のイメージ。残りの部分は「構造的な負担がかからず、機能的な制約から解放され、巨大なコアと細い側柱という明瞭なコントラストを生み出すことに成功」。旧都庁で後の大阪万博の「太陽の塔」をデザインした「芸術は爆発だ!」の岡本太郎(1911-1996)と組む。このように1950年代の半ばくらいから、丹下は国家的なプロジェクトを扱う。
翌1958年には、三越の包装紙のデザインで知られる画家、猪熊弦一郎の推挙で香川県庁設計。ここでは「コアはより意識化されて、自由度と造形性がさらに増し」た構造。一階ロビーには猪熊の陶壁画。今は旧都庁は解体されて有楽町フォーラムが建っているが、こちらは今も庁舎として利用され、建築関係者が見学に訪れるという。
1964年の東京オリンピックでは国立代々木競技場(旧 国立屋内総合競技場)を設計。ワイヤーロープによる吊り屋根構造。2本の巨大な柱の間に渡したワイヤーロープ(メインケーブル)の左右に碁盤の目状にワイヤーロープを張り、その上に厚鉄板で葺いた屋根を架け、柱が1本もない巨大な空間を造り出す構造。磯崎は、日本モデルを間接的に使ってきた丹下による「東大寺がモデル」の「大伽藍」という。丹下は「代々木オリンピック・プール」で、IOCから功労賞授与、2000年の日経アーキテクチュアでも「長い年月を経てのデザインが陳腐化しない建物ランキング」で1位。隈研吾もこの建築に衝撃を受けて建築家を志したという。
1970年の大阪万博。日本の経済成長を印象付ける国家的イベントで会期中に6,000万人来訪。丹下健三は、未来都市のひな型として、樹木状のシステムを持つ会場計画のほか、スペース・フレームの大屋根と岡本太郎の太陽の塔があるお祭り広場をデザイン。
丹下健三の快進撃は大阪万博で国内では休止符。1970年代以降の日本では経済成長の停滞で丹下の方法論と経済の実態に乖離。丹下は「活躍の場を彼の方法論が十全に生きる新興国の開発計画に探し求め」、1960年代以降は、「中近東のほかに、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、中南米など、世界各地にプロジェクトを抱えた」という。1987年、プリツカー建築賞を日本人初の受賞。
新東京都庁(1991)。過去の歴史を否定するモダニズムに対し、「再び歴史性や場所性を導入して、多様な建築文化を作る」のがポストモダンだという。新東京都庁は、モダニズムの巨匠丹下が国内の大事業に返り咲くプロジェクト。「大聖堂を思わせるシルエットをもち、彼がポストモダンのデザインに移行したことを示した」という。
文化勲章、フランスのレジオン・ドヌール勲章など受賞多数。2005年逝去。「建築することとは、単に街や建物を設計することではない、人々が生きているその場のすべて、社会、都市、国家にいたるまでを構想し、それを眼に見えるように組みたてることだ。これが、私たちが教えて頂いた<建築>の本義であります。…日本の近代建築は世界のものになりました。今では、20世紀の世界の建築史はケンゾウ・タンゲの名前をはずして語れなくなったといえるでしょう。」と弟子、磯崎新の弔辞。丹下は自らが設計した東京カテドラル(1964年)に眠る。丹下以後、日本の建築家は世界で活躍するようになる。
写真:(隈研吾が東京オリンピックの時に見て衝撃を受けて幼少期より建築家を志したという丹下健三の代表作、国立代々木競技場(旧 国立屋内総合競技場)(1964年)提供 丹下都市建築設計)

(2)槇文彦(1928~、プリツカー建築賞1993年受賞)
代官山のランドマーク、ヒルサイドテラス、幕張メッセ、京都国立近代美術館、青山スパイラルやニューヨークのWTC跡地の4WTCの設計者。祖父は竹中工務店の元会長、叔父が慶応の理事で日吉キャンパスつくりに尽力したという。
第一世代の丹下に続く第二世代の建築家で、設計に関しては,「徹底的に科学的なアプローチが求められ」たという丹下研で外務省の庁舎の設計に携わる。曰く、「卒業設計が終わってから6月くらいまでの間,アトリエの一員として外務省のコンペを朝から晩までやっていました」。その後、ハーバード大学大学院の修士課程を修了。ワシントン大学とハーバード大学で都市デザインの準教授も務める。
1960年、東京に26か国からデザイナーが集まり、世界デザイン会議。これにあわせて、メタボリズム結成。メタボリズムといっても、人間ドックで「男性で腹回り85cm以上」とは無関係。新陳代謝を意味する生物学の用語からとられた、部分の交換可能なデザインを提唱するもので当時32歳の槇もメンバー。丹下はここで次世代を担う日本人建築家に国際的な舞台を用意。「日本から国際建築における最新のトレンドが発信されるようになるのはこの頃から」だという。
1965年に帰国、株式会社槇総合計画事務所を設立。帰国後もオフイスを構えながら、1989年まで東京大学教授。1993年プリツカー建築賞など受賞多数。
「社会の変化に応じて成長するというメタボリズムの思想が体現された建築」、旧山手通り沿い200メートルにわたって広がる複合建築、ヒルサイドテラスは、槇が代官山の地主朝倉家(代官山に唯一、戦前から住み続けている一族。)の依頼で30年以上の歳月をかけて実現。建築が町の核を作った好例として、芸術選奨文部科学大臣賞(1973年)、1993年ハーバード大学デザインスクールから「第三回プリンス・オブ・ウェールズ都市デザイン賞」(スクールの50周年記念にチャールズ皇太子が訪問した際に創設)授与など海外でも高い評価。2000年の日経アーキテクチュアで「長い年月を経てのデザインが陳腐化しない建物ランキング」で3位。
母校の三田の新図書館も設計。「黒川紀章が慶應の図書館をやりたがっているという話を聞いた。そこでやはり慶應は自分の縄張りだと思って(ヤクザと同じですね)、生まれて初めて営業をしました(笑)。」という。
2018年、90歳になっても「『なぜ、まだ仕事をしているのですか』という質問に対し、『いや建築家はニンジンがあれば追いかけているんです』と答える」という槇。数年前、ある講演会でお話しする機会。当時既に80代後半だったが、さすが米国の名門大学でも教えていた建築家、お話しはクリアで、曾祖父の代から慶応で、米国で教えていた頃、学生から「日本人の男性で、あんなハンサムな人がいるのかね」と言われたというだけあるダンディな紳士だった。
写真:(槇文彦の代表作、ヒルサイドテラス ここでの様々な文化活動に対し、1998年度メセナ大賞授与 提供 HILLSIDE TERRACE)

(3)SANAA:妹島和世(1956年~)、西沢立衛(1966年~)からなるユニット。2010年プリツカー建築賞受賞)
1990年代に入り、日本人建築家の海外プロジェクトが増える。そんな中、丹下、槇、安藤に続く、プリツカー建築賞受賞者は「ガラスの空間に回帰しつつ、透明性の操作にこだわり、微妙な調整や幾何学的なパターンによって、視覚的な効果を追求」するというSANAA(Sejima and Nishizawa and Associates)。
隈研吾と同じ第四世代の妹島は大学院生時代に伊東豊雄建築設計事務所でアルバイトし、1981年に入所、1987年妹島和世建築設計事務所設立。西沢も、大学院生時代に伊東豊雄事務所でアルバイトし、伊東事務所から独立したばかりの妹島に会う。「当時の妹島さんは、内から出てくるエネルギーがすごくて、爆発寸前の爆弾みたいな感じ」で「服装もすごくて、全身アラビアンナイトみたいな格好」、「一緒に山手線に乗ると、車内全体が緑になっちゃうようなすごい緑色の服を着て」、「とにかく独創的なファッションです。すごいインパクトでした。」、それで、「『この人の事務所でアルバイトをしてみたい』と思ったんです」と語る。1990年、「妹島さん一人ですから、毎日議論しながら建築をつくっていく」妹島和世建築設計事務所入所。西沢によると、3人だった妹島事務所に再春館製薬女子寮という「たいへん大きな依頼が来たので、みんなパニックで、束になって必死でかかるという感じ」だったという。「狭い敷地の中で80人という高密度をどう解決するか」は難しく、「平面構成、空間構成を必死に考え」、「80人が空間内のあちらこちらに、思い思いに滞在するような風景」を思い描き、公園的な風景を建築が作り出すことを目指していると、「トイレがいきなり空間全体を支配するようなストラクチャー」が浮かび「大変ドラマチックな構造の世界がやってきたと感じた」という。1995年、妹島と西沢でSANAA設立。「建築の設計における暗黙の決まり事を解体し、建物を使う人々の間に新しい関係を設定することが、二人の特徴」と妹島は語る。西沢は「一番時間がかかるのが『建物をどう置くか』の部分」だという。SANAAは、美術館建築、展覧会や家具デザイン、空間構成なども幅広く手がける。
2004年開館の代表作、金沢21世紀美術館は、円形の建物に複数の入り口があり、正面のない構造。市長の「普段着で来られる美術館にしたい」との意向を受けて、妹島は「この建物は町の中心にあって、人が訪れやすい場所なので、その特性を生かしたいと思って、どこから来てもそこが正面になるような建物を提案」。ここでは、現代美術館で極めて重要な要素であるキューレーターが決まっていたため、「設計の早い段階から建物を使う方々と打ち合わせができたのが大変よかった」と妹島は語る。「外周が全面ガラス張りの円形の平屋で、その中に様々な大きさの直方体の展示室が散在するという構成によって、これまでの美術館にない開放感と自由な流動性を生み出し」たという。
活躍は国内にとどまらず、2005年、国際コンペで、ルーブル美術館ランスの設計者に。ここでは、5つの四角形がつながる形。「その四角形がほんの少しカーブし斜めになるだけで、全然違う建ち方になり、大らかにゆったり感じられるのがよかった。自分でも少し驚きました。」と妹島は語る。いくつかの国際コンペに勝ち、国内よりも海外のプロジェクトが多いという。そして「内外共にガラスの壁を使うアメリカのトレド美術館ガラス・パヴィリオン(2006)やスイスのツォルフェライン・スクール(2006)など、海外でも実験的な建築に挑戦」しているという。
写真:「どこから来てもそこが正面になるような」外周が全面ガラス張りの円形平屋のSANAAの代表作 金沢21世紀美術館 外観
提供:金沢21世紀美術館

(4)伊東豊雄(1941~、2013年プリツカー建築賞受賞)
SANAAの妹島がその事務所に所属していた伊東豊雄も受賞。槇文彦が主のない「平和な時代の武士達」と呼ぶ伊東、安藤のような1970年代に登場した建築家の世代が1980年代に日本のポストモダンのシーンをリード。
学生時代、その頃、ベストドレッサーにもなった丹下健三助教授が「忙しいからほとんど大学に来ない。…そのころからスターでしたから、いつくるかと学生は毎週待っているんですけど、なかなか現れない。」と伊東はいう。大学卒業後、「百メートルを九秒台で走る選手が出て来たみたいな勢いがあった」メタボリズムのメンバー、菊竹清訓建築設計事務所に入り、「腹の底から絞り出すようなアイデアを出す」事務所で「まわりのスタッフも、死に物狂いで出さないと進んでいかない」という環境でスタート。
独立後、1976年、姉のために設計した「中野本町の家」は、間仕切りのないU字型チューブのような不思議な形。伊東は「当時、地上にある地下の空間とか、洞窟みたいな空間だと言われました。自分では、身体全体で建築を考えることを、…初めて実現できた」と語る。
「ポストモダン建築が一気に花開いた時代」バブル時代。伊東豊雄も作風を変え、「かろやかなヴォールト屋根を架けた自邸」、シルバーハット(1984)で日本建築学会賞。伊東曰く、「80年代の半ば頃は、…すべてに現実感がなくて仮設的というか、夢の中で何かが動いているような時代だった気がします。だから、自分の建築をそういう存在感のないものにしたい、と考えるようになりました。軽いとか、透明とか、風に舞っているようなとか。そういう言葉で表現する建築を考えていました」。
1990年代、日本でも、伊東豊雄とその門下生を軸として、軽い建築の潮流が顕著に。1991年の「八代市立博物館・未来の森ミュージアム」で「五十歳にして、初めての公共建築」。しかし、「内部のプログラムに踏み込まないと、本当にやりたいことは実現できない」と感じる。そんな時、コンペの審査委員長の磯崎新が、図書館と市民ギャラリー等の複合施設を「メディアテーク」と言おう、そして「メディアテーク」とはなんであるかを提案して欲しいと訴えた「せんだいメディアテーク」(2000年)のコンペティション。「こんなチャンスはない、絶対に勝ちたい」と思った伊東は、「来た人が自由に過ごせる『場所』をつくろうと考え」、コンペに勝つ。「街の人の流れも変わりました。『せんだいメディアテーク』をつくったことは、僕にとっても大きな転換点になりました。」という。
国際的な注目に応え、伊東は、ベルギー、イギリス、シンガポール、台湾などで、新しい建築へ空間と構造を意欲的に展開。「洞窟的な空間が自分の本質なんだと思います」と語る伊東。台湾のオペラハウス、台中国家歌劇院(2016)、「ここも全体が洞窟のようなと言われ、…できあがった時に、自分の建築人生が一回転したなと思ったんです。建築としての還暦だと」。
瀬戸内海には同年生まれの安藤が直島に安藤忠雄ミュージアムを設計しているが、2011年、大三島に「今治市伊東豊雄建築ミュージアム」がオープン。
伊東は、「いま、どういう建築を作りたいか。ひとことで言えと言われれば、美しい建築を作りたい。それにつきます。」と語る。
写真:(伊東豊雄の「「全体が洞窟のような」台中国家歌劇院 提供:伊東豊雄建築設計事務所)

(5)坂 茂(1957年~、プリツカー建築賞2014年受賞)
木を使った現代建築は多いが、坂 茂は紙を使う。スーパープレゼンテーション、TEDで紙管で作ったトイレは、「もしトイレットペーパーが切れていたら内壁をはがすことも出来ますから(笑)とても便利なわけです」と語る坂 茂。紙管によるルワンダ難民のシェルターや、コンテナを積み上げて、世界各地を巡回するノマディック美術館(2005年以降)など、リサイクル可能な部材を効果的に使う建築で知られ、活動の中心を海外に置き、2004年、ポンピドー・センターの分館の国際コンペで最優秀。曰く、「パリに事務所を借りたかったのですが手が届かなかったので…ポンピドゥー・センターの屋根の上に事務所を」自分たちで紙管で建てて、「1円も家賃を払うことなく6年間そこにいました(笑)(拍手)」という。
妹島と同じ世代で、米国の大学を卒業し、順調に建築家としてのキャリアを積むが、「建築家はあまり社会のために役立っていない」と気付く。「建築家を始めたころは、建築家は、例えば、人が家を建てるという人生最高の時に付き合い夢を実現するという、とても恵まれた立場にいるので、自分は建築家という職業を選んだことを喜んでいた」。が、医者や弁護士らは「常に弱者のために働いている。なんと素敵な仕事なのだろうと建築家になったことに少々後悔の気持ちを持ち始めた」という坂。「何か建築家としての経験や知識を利用しても、一般庶民、更に弱者のサポートができるのではないか」と考えていた時、1994年ルワンダの内戦により200万人以上の難民がキャンプでシェルターを作るために木を切ることが大問題になっていた。(高価なアルミパイプを支給したら、難民はお金のために売ってしまった。)坂は、ジュネーブの国連難民高等弁務局(UNHCR)にアポなしで乗り込み、再生紙の紙管を使ったシェルターシステムを提案。紙管シェルターの開発が始まる。
1995年1月に阪神・淡路大震災発生。焼失した教会に元ヴェトナム難民たちが大勢集まっているという記事を見つけ「紙で教会を再建しましょう」と提案。「するとこう言われました『アホか!火事の後なのに何を考えてるんだ』」。結局、各企業からの寄付を受けた建材でボランティアにより5週間で完成。人々に愛された教会は建設10年を迎え、震災の被害を受けた台湾に移築され、地域のコミュニティーセンターに活用。「いつの間にか災害支援活動は日常的な仕事の一部となってしまった。」という。
もともと大学で教える事にも興味があったと言う坂。横浜国大で教えていた時は、「成田から直接横浜までトランクを引きずりながら教えに来て、夜の10時ころまでぶっ通しで授業」し、救急車で運ばれた学生、貧血を起こして倒れる学生が大勢出たり、女の子が泣いて、机上の図面がだんだん濡れてきたという。
「安い住宅などの設計から始め、わがままな施主の相手をしながら積む苦労が建築家としての訓練になる…立場の異なるステークホルダーをそれそれに適した言い方で説得し、自分の描いたゴールを目指していく。その話し方や論理の作り方、人との付き合い方を学んで行くのが建築家にとって重要な訓練」だという。
写真:坂 茂のポンピドー・センターの分館。「屋根は集成材を中国の竹編み帽子のように編んだ六角形のパターン。巨大な木造屋根がテフロンコートされたガラスファイバーの幕材に覆われ、室内に柔らかい自然光が入る」photo by Didier Boy de la Tour 坂茂建築設計 ポンピドー・センターーメス

(6)磯崎新(1931~、2019年プリツカー建築賞受賞)
学生時代の1952年に「広島平和記念館」の現場を見て感動。「この人のところに行こう」と思い丹下健三の下で広島平和記念公園に関わり、独立後、1970年の大阪万博の会場計画にも深くかかわる。1991年に細川護熙知事発案の「くまもとアートポリス」のコミッショナーとして妹島和世の再春館製薬女子寮の参加を要請し、2000年に伊東豊雄が勝ったせんだいメディアテークのコンペの審査委員長、国際コンペの審査委員もこなし半世紀以上建築に関わってきた建築界のレジェンド。槇文彦と同じ第二世代の磯崎新も2019年に「遅すぎる受賞」とも言われたプリツカー建築賞を受賞。
1963年独立し、磯崎新アトリエを設立。1960年代後半から、世界各国の若手建築家と幅広い交友。伊東豊雄は、1970年代の磯崎邸での会について「磯崎さん、篠原一男さん、安藤忠雄さんほか、僕らの世代の建築家など全部で十人くらい。それがなぜか磯崎批判になってしまい、…磯崎さんが、だんだん不機嫌になって、『住宅ばっかりやっているような建築家は、西欧では建築家と呼ばれないんだぞ』と言い出した。そのころ、僕らはもちろん、安藤さんも篠原さんも住宅しかやってないから、それはないだろうということになり紛糾。とても面白い会でした。」という。
「70年の万博が終わって、僕は建築だけをやろうと思った。都市はさしあたり、意図的に切る。もちろん国家も関わりたくない。挫折の中での選択でした。」と語る磯崎は、20年ごとのメルクマールになるような建築作品として、丹下健三の広島平和記念館本館の次に、自らの「群馬県立近代美術館」を挙げる。「1.2mを基準とした立方体フレームの集合体が、美術作品を取り巻く額縁に喩えられた空洞として想定されており、美術作品が通過するこの空洞(空間)は流動的に変化し、増殖可能」というコンセプト。この建築で、1975年、磯崎は日本建築学会賞(作品)を受賞。
1983年、「近代日本国家が丸ごと作った最初で最後の都市」つくばで、「日本のポストモダン建築の先駆け」とされる「引用の集積のような」建築、つくばセンタービルを設計。ロサンゼルス現代美術館(1986)やバルセロナのサンジョルディ・パレス(1990)など早くから国際的にも活躍。最近も、「流体構造」と呼ばれる異形のフォルム、「カタール国立コンベンション・センター」(2011)、「ヒマラヤ・アートセンター(上海)」(2011)設計。
評論や設計競技の審査について。国際コンペの審査は、「フランス語の流暢な喋りで決ま」ったりすると磯崎は言うが、そんな場でも「西洋人が理解できるロジックで説明し、トリックを仕掛けることができる」と言われる磯崎は、40年前に唯一のノンアメリカンとして参加したプリツカー建築賞の設立メンバー。その言葉は門外漢の理解能力を超える。
1982年、「高校時代に<群馬県立近代美術館>を見てから、将来は磯崎アトリエに入りたいと憧れていました」という坂 茂は米国の大学を休学し、ポストモダン建築の旗手だった磯崎新アトリエに在籍。「磯崎アトリエは誰も磯崎さんのスタイルを継承しようとせず、磯崎さんの精神を学ぼうとしていたのだと思います。そこが磯崎アトリエのすごいところだと思うのです。そんな磯崎さんが世界で対等に闘っているのを見ていたことが大きかった。磯崎さんから設計の仕方を学んだというよりは、建築家としてのスタンスを学んだ気がします。…1年しかいなかったのですが、敬意をこめて経歴には所属していたと書かせていただいています」という。
写真:坂 茂が高校生のときに見て、「将来は磯崎アトリエに入りたいと憧れていました」という、磯崎新の群馬県立近代美術館、Ⓒ高知県,石元泰博フォトセンター)

7.最近の国際建築展
1895年以来、100年以上の歴史あるヴェネチアで開かれる芸術の祭典ヴェネチア・ビエンナーレ。美術展として出発し、その発展の過程で、国際音楽祭、国際映画祭、国際演劇祭、そして国際建築展を抱えるように。世界三大国際映画祭のヴェネチア国際映画祭は有名だが、国際建築展は1980年に正式にスタート。各回毎にヴェネチア・ビエンナーレ財団が任命する総合ディレクターが設定するテーマのもとに各国が自国のパヴィリオン等に自国を代表する気鋭のアーティストを送り込み、展示する「世界中の主だった建築家の仕事が一堂にみられる隔年イベント」。日本は、1991年の第5回展から正式参加、国際交流基金が日本館での展示を主催。上記のプリツカー建築賞受賞者を始め錚々たる建築家が参加。磯崎新コミッショナーの1996年第6回には日本館は金獅子賞(パビリオン賞)。同じく、磯崎新コミッショナーの2002年、第8回では伊東豊雄が金獅子賞(功労賞)。丹下健三も参加した2004年の第9回では、SANAAの(金沢21世紀美術館)が金獅子賞(作品賞)。伊東豊雄コミッショナーの2012年の第13回では、日本館が金獅子賞(パビリオン賞)など。今年、第17回は、寺本健一が共同キュレーターとして参加したアラブ首長国連邦館が金獅子賞(パビリオン賞)受賞。ビエンナーレ財団主催の企画展に招聘される日本人建築家も数多く、2012年の第8回では妹島和世が女性初の総合キューレーター。国際建築展は日本の建築を世界に情報発信し、日本人建築家に活躍の場を提供。

8.おわりに
建築について、ル・コルビュジェは「建築、それは素材を使って感動を生む関係をうち建てること」と言い、安藤忠雄は、「一に調整、二にも三にも調整という地味で過酷な仕事である。…それでも人の命の安全を守り、安心して過ごせるようにするのがこの仕事の意義であり、そこに自分の誇りがある。また、建築は、周辺の環境や社会に強い影響を与える。責任は大きいが、それだけやりがいのある仕事」と語り、伊東豊雄は「建築は、作ることそのものがコミュニケーションであり、そのプロセスにこそコミュニティーはうまれる」と言い、坂 茂は「建築家は物を作ることが仕事なのですが、本当に重要なのは人を作ることなのではないかと、つくづく思うのです。」と語る。
今やスター建築家は、国境を越えて活躍。「有名建築家は、地元の風景だけではなく、世界各地の都市を変える」。日本人建築家の海外進出の背景には、「独創的なデザインが数多く実現」し、安藤忠雄も「日本の建築技術は世界一」という「高い技術力と施工の精度による協力体制」や「国内外のメディアの後押しによって、世界的な評価」があると言われ、「グローバリズムの経済を反映するかのように、…日本人でも国内より海外の仕事が多い状況」だという。
このように高く評価されている日本の建築家たちがこれからも世界で活躍することを期待。

(主な参考文献)
安藤忠雄建築研究所 Tadao Ando(tadao-ando.com)
『安藤忠雄展─挑戦』記者発表:安藤忠雄による特別講演
安藤忠雄「仕事を作る 私の履歴書」、日本経済新聞出版社、2012年
福武總一郎+北川フラム「直島~瀬戸内国際芸術祭へー美術が地域を変えた」、現代企画室、2016年
安藤忠雄『安藤忠雄の建築 1』TOTO出版、2007年
安藤忠雄「ル・コルビュジエの勇気ある住宅」、新潮社、2004年
古山正雄、「安藤忠雄、野獣の肖像」、新潮社、2015年
鈴木博之編著、五十嵐太郎、横手義洋著、「近代建築史(部分カラー版)」、市谷出版社、2010年
丸山雅子編、「日本近代建築家列伝」、鹿島出版会、2017年
中西礼仁「実況・近代建築史講義」、LIXIX出版、2017年
竹中工務店のWebsite、https://www.takenaka.co.jp/corp/archive/years/
清水建設のWebsite、https://www.shimz.co.jp/heritage/history/
鹿島建設のWebsite、https://www.kajima.co.jp/prof/history/index.html
大成建設のWebsite、https://www.taisei.co.jp/about_us/corp/ayumi/1169092558063.html
大林組のWebsite、https://www.obayashi.co.jp/company/rekishi/yoshigoro.html
河上眞理・清水重敦『辰野金吾 美術は建築に応用されざるべからず』ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2015年
磯崎新 聞き手 横手義洋「日本建築思想史」、太田出版、2015年
ル・コルビュジエの建築作品‐近代建築運動への顕著な貢献‐(平成28年度記載)https://bunka.nii.ac.jp/special_content/hlinkG
ジャン・プティ著、田路貴浩+松本裕訳、「ル・コルビュジェ 自ら語る生涯」、中央公論美術出版、2021年
丹下健三について | 丹下都市建築設計(tangeweb.com)
ARAZARU ARCHIVES - 磯崎新による丹下健三への弔辞(tumblr.com)
Maki and Associates(maki-and-associates.co.jp)
神話化する丹下健三・マイスターとは異なる設計手法─「槇文彦氏が述懐する丹下健三」前編|新建築社|note
【特別対談】「慶應建築の系譜」|その他|三田評論ONLINE(keio.ac.jp)
前田例、「ヒルサイドテラス物語 朝倉家の代官山のまちづくり」、現代企画室、2002年
https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=11&d=1
進路決めた妹島氏との出会い、西沢立衛氏に聞く(3)(新しい建築の鼓動2011) | 日経クロステック(xTECH)(nikkei.com)
「妹島和代+西沢立衛読本ー2013」、A.D.A.EDITA Tokyo、2013年
西沢立衛「建築について話してみよう」、王国社、2007年
伊東豊雄建築設計事務所(toyo-ito.co.jp)
伊東豊雄「伊東豊雄 美しい建築に人は集まる のこす言葉」、平凡社、2020年
瀧口範子「にほんの建築家 伊東豊雄・観察記」、ちくま文庫、2012年
Brutus Casa 2021 vol249「新・建築を巡る旅。」、マガジンハウス、2021年
坂茂建築設計 | Shigeru Ban Architects
https://www.ted.com/talks/shigeru_ban_emergency_shelters_made_from_paper?lan
坂茂+慶応大学SFC坂茂研究所、「Voluntary Architects’ Network 建築を作る。人をつくる。-ルワンダからハイチへ」、INAX出版、2010年
Profile – Arata Isozaki & Associates
http://mmag.pref.gunma.jp/outline/about.htm
https://www.jpf.go.jp/j/project/culture/exhibit/international/venezia-biennale/arc/17/index.html