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路線価でひもとく街の歴史 第20回

青森県青森市 桟橋前から駅前へ移った街の賑わい

海運の時代の大町界隈と銀行街
 青森市街のはじまりは寛永2年(1625)。津軽米を江戸に移出するにあたって弘前藩2代藩主津軽信枚(のぶひら)が新しい港町を計画した。当時の海岸に「青い森」と呼ばれた小さな丘があったのが「青森」の由来である。善知鳥(うとう)神社の東側に岸壁から浜町、大町、米町の3つの通りが作られた。その南側に並ぶ4つの寺が元々の街の外縁だ。昭和になって住居表示が実施され一帯が「本町」となった。今でこそ歓楽街のイメージだが、元々はこの辺りが街の原型、かつ中心だった。
 明治6年(1873)、青森と函館の間に定期航路が開設された。明治25年(1892)発行の地図を見ると、当時の乗船場は正覚寺から海に向かった先の浜町桟橋だったことがわかる。桟橋の根元には航路を経営した日本郵船の荷捌き場や待合所があった。陸奥湾は遠浅の海だったので、大型船が港に直接着岸できなかった。そこで浜町桟橋から艀船が発着し、沖に停泊していた定期船に乗り換える仕組みになっていた。鉄道の時代の前は浜町桟橋の後背地が栄えた。現代の市街図に明治の街割りを重ねたものが図1.市街図である。
 銀行も大町を中心に米町、浜町に集積した。荷為替取組を通じて商流・物流の一翼を銀行が担っていることを考えれば自然の成り行きだ。地元行の発祥を辿ると大町界隈に行き着く。まず青森銀行の源流は弘前藩の士族の出資で創業した第五十九国立銀行。創業の翌年、明治12年(1879)には青森に支店を出した。明治15年(1882)から今の青森県立郷土館の場所で営業していた。郷土館の旧館は、国立銀行の後身たる第五十九銀行の青森支店である(図2.青森県立郷土館(旧・第五十九銀行青森支店))。昭和6年(1931)の建築で鉄筋コンクリート造2階建。玄関や列柱に古典主義の特徴を備えているが、細部の装飾を排したモダニズム様式に分類される。昭和18年(1943)、第五十九銀行は八戸・津軽・板柳・青森との5行合併を経て青森銀行となる。第五十九銀行青森支店は新生青森銀行の本店となった。なお構成行のうち旧青森銀行も大町に、津軽銀行の支店は米町にあった。青森銀行は昭和45年(1970)、青森市橋本の現在地に本店を新築して移転。旧本店の建物は県へ寄贈され現在に至る。平成16年(2004)には国の登録有形文化財となった。
 もうひとつの地元行、みちのく銀行の源流も大町界隈にある。前身行の青森貯蓄銀行は大正10年(1921)の設立で、昭和24年(1949)に青和銀行と改称した。昭和51年(1976)には弘前相互銀行と合併してみちのく銀行になる。貯蓄銀行時代の昭和8年(1933)に建てた本店がみちのく銀行の本店となった。昭和53年(1978)、青森市勝田へ本店が移転してからも本町支店として使われていた。また、明治27年(1894)発足の青森商業銀行もみちのく銀行の源流のひとつである。青森市に本店を置き一県一行主義の再編の折にも独立を貫いた。昭和24年に青湾貯蓄銀行を統合し、昭和33年(1958)に青和銀行と合流した。ちなみに貯蓄銀行で戦後に残ったのは全国で5つ。青森、青湾両行は本邦最後の貯蓄銀行である。
 東京の銀行が店を構えたのも大町界隈だった。最も早かったのは三井銀行で、青森で最も古い銀行でもある。内航海運における青森港の重要性がうかがえる。明治9年(1876)、米町に進出し、明治27年(1894)に撤退した。明治32年に安田銀行が大町に進出。明治36年(1903)に浜町桟橋の通りと大町通の角に移ってきた。大正12年(1923)に青森手形交換所が創設されたときには決済銀行となる。この頃は預金残高も地域トップだった。戦後は富士銀行に改称、昭和46年(1971)に柳町に引っ越した。日本勧業銀行の青森支店は大正12年(1923)に発足。各県にあった農工銀行の再編に伴うものだった。こちらは貸出残高の地域トップ行だった。当時は米町にあったが、戦後の道路拡張に乗じて新町に移転。移転後に第一勧業銀行になり、富士銀行と統合して今はみずほ銀行になった。
 九十銀行、盛岡銀行など盛岡に本店を構える銀行の青森支店も大町にあった。しかし大町界隈にあった銀行はすべて移転・撤退。現在、旧第五十九銀行の郷土館を除き、かつて銀行街だった面影もない。青森、青湾の両貯蓄銀行、日本勧業銀行青森支店は青森大空襲でも焼け残ったが老朽化には抗えず近年取り壊された。銀行ではないが、カトリック本町教会が明治30年(1897)から浜町の同じ場所で活動している。

鉄道の時代の新町と百貨店街
 明治の終盤、海運から鉄道に交通手段のウェイトが移るに従って、街の中心は駅方面に引き寄せられていった。明治24年(1891)に東北本線が青森まで開通。明治31年(1898)には青森駅構内の船入場に定期船の乗り場が移転した。明治41年(1908)には青函連絡船が就航し、明治43年(1910)には日本郵船が青函航路から撤退。人と物の移動は定期航路から鉄道-連絡船が主流になっていった。
 大町界隈に代わり賑わったのが、元は街外れだった新町である。大正10年(1921)、当地初の百貨店が柳町通と下新町の角にできた。松木屋呉服店である。昭和10年(1935)年には新町の夜店通側に菊屋百貨店が開店した。新町の発展は戦後も続いた。昭和34年(1959)、青森市の最高路線価は「甘精堂菓子店前新町通」だった。甘精堂は明治24年(1891)創業の和菓子店である。昭和44年(1969)には最高路線価の目印が「成田本店前」とわずかに東に移った。こちらは老舗の書店である。新町全体が賑わっていたが、特に夜店通から県庁通までの上新町が中心だった。
 この路線には百貨店が多いときで4つあった。昭和23年(1948)に富士屋百貨店が県庁通の角に開店。昭和25年(1950)には菊屋百貨店が八甲田通との角近くに5階建のビルを新築し移転した。翌年は松木屋が道路向かいに移転。さらに元々大町の呉服店だったカネ長武田が新町に進出した。カネ長武田は今のさくら野百貨店に連なる。数年で4店も開店した反動か、昭和27年(1952)に菊屋百貨店が閉店。後に同店のメインバンクだった日本勧業銀行が移転してきた。再編を経て今はみずほ銀行の青森支店が営業している。昭和30年には富士屋百貨店も閉店している。こちらも跡地は銀行となり、青森銀行新町支店が移ってきた。
 その後、昭和40年代にかけて松木屋とカネ長武田百貨店は増築を繰り返し、地域一番店の座を争っていた。昭和49年(1974)には五所川原市が発祥の中三百貨店が青森に進出。この時点で中心市街地の百貨店は3か店となった。
 新町の賑わいを支えた要因に青森魚市場の存在もあった。鉄道の時代になって以降、浜町桟橋から東側の青森港は水産拠点として重みが増し、北洋漁業の基地として発展した。八甲通の先の海岸に、三角はんぺんを立てたような構造物がある。昭和61年(1986年)に開館した15階建の青森県観光物産館「アスパム」だ。以前はこの場所に安方魚市場があった。後背地には冷蔵倉庫や加工場が並び、水産関係者や寄港者が街の賑わいを支えた。駅前には築地場外市場のような産直市場が軒を連ねていた。そのひとつの駅前市場は後年再開発の対象となり、再開発ビル「アウガ」の地階の「新鮮市場」となった。

バイパス時代の浜田地区と大型モール
 昭和50年代から少しずつ車社会化の波が訪れた。他の地方都市と多少異なるのは、その黎明期に地元商店主が主導して郊外進出を果たした点だ。昭和52年(1977)、郊外の観光道り沿いに無料駐車場を配備した大型ショッピングセンター「サンロード青森」が開店した。運営主体の協同組合サンロード青森は地元商店主、日専連青森会の有志27名から始まった。わが国初の地元主導型ショッピングセンターと呼ばれる。核テナントはジャスコ(現イオン青森店)である。
 その後も郊外進出が続く。平成2年(1990)に東バイパス、平成12年(2000)に西バイパスに地元スーパー主導の大型モールが開店。サンロードの外側の浜田地区にイトーヨーカドー青森店が進出した。浜田地区にはイオンタウン等も進出し、一大商業拠点に成長した。バイパスに沿って展開した郊外拠点に中心市街地は東西南の3方向から包囲されたかたちだ(図3.広域図)。
 加速する郊外化の一方、平成11年(1999)に青森市は街づくりの基本理念として「コンパクトシティの形成」を打ち出した。中心から外に向かってインナー・ミッド・アウターの3層構造とし、無秩序な市街地拡大を抑制し街なか再生を推進する計画である。街なか再生の決め手と目されたのが駅前再開発ビル「アウガ」だった。当初の構想では西武百貨店が核テナントとなる予定だったが、バブル崩壊の余波で白紙になった。再検討を経て平成13年(2001)に地上9階地下1階の再開発ビルが開業。1階から4階がファッションビル業態で、上階には図書館その他の公共施設が入居した。運営主体は青森市が出資する第三セクター「青森駅前再開発ビル」でビルを地権者と共有していた。初年度の売上は目標の半分にも満たない23億円と前途多難な船出となった。期待の一方、中心市街地の衰勢は否めず、平成15年(2003)には松木屋が閉店。跡地はマンションになった。
 平成16年度以降のアウガのテナント賃貸料の水準をみると、ほぼ前面の路線価と連動していることがわかる(図4.アウガのテナント賃貸料と路線価)。若干遅れて地権者への賃借料が下がっていた。空き区画が目立って多かったわけではないが、賃料水準が当初想定したのに比べ大きく下回ったため、初期投資の回収に至らなかった。
 公民の支援の下、何度か再建策が講じられた。市が出資する第三セクターにもかかわらず市中銀行は元金繰延や利息低減、最終的には事実上の債務免除も応じた。市も追加の出資や貸付などを行った。しかし薬石効なく商業フロアの営業から撤退し、第三セクターを清算することになった。平成29年2月末には1階から4階にあった商業フロアからテナントが一斉に撤退。市はアウガに対する債権を放棄することになった。17億5300万円の市民負担に対する責任をとり市長は辞任。管理職除く一般職員も1年間にわたる1%~3%の給与削減を甘受した。民間商業が出店を躊躇するほど難易度が高いのが中心市街地の活性化だ。自治体らしい、リスクを取った果敢な挑戦だったが、市の一般職員が部分的にであれリスクに伴う連帯責任を被った前例となった。アウガは改修を経て平成30年に市の「駅前庁舎」となった。

アウガ後のコンパクトシティの行く末
 平成19年(2007)に全国で初めて認定を受けた中心市街地活性化基本計画は平成29年度末で終了。居住人口の減少に歯止めがかからず、空き店舗率も横ばいだ。再開発の一環だが昨年は中三百貨店が閉店。中心市街地の大型店は駅ビルとさくら野百貨店となった。やはり往時の賑わいを戻すのは難しいのだろうか。
 青森の街は、桟橋前から駅前に賑わいの中心が主要交通手段の変遷とともに移ってきた。自動車の時代に街の中心がバイパス前に移るのは自然の成り行きだ。しかしここでいう街の中心はあくまで商業におけるもの。ここで視点を切り替えたい。つまりコンパクトシティは商業の再集積を目指すものとは限らない。大事なのは「住まう街」としてのコンパクトシティである。そもそも青森は有数の豪雪都市だ。除雪作業など都市機能の維持コストが高い。住民にしても高齢化が進む中、雪かき負担の少ない都心居住のニーズはある。SDGs目標「住み続けられるまちづくりを」を引き合いにするまでもなくコンパクトシティの妥当性は青森市にこそあるだろう。中心市街地活性化基本計画は終了したが、「立地適正化計画」を通じた都心居住を促す取組みは続いている。
 他方、コロナ禍以前の数年をみると観光目的の入り込みは増えていた。マグネット役を果たしているのがかつての交通拠点、水産拠点であったウォーターフロント地区だ。かつての産業遺産の大部分が観光拠点となった。安方魚市場の跡地はアスパムになりその周りは「青い海公園」となった。元の連絡船の埠頭には八甲田丸が係留され博物館になっている。ねぶたの家「ワ・ラッセ」のようなねぶた展示館もできた。工場をイメージした外観のA-FACTORYはご当地スイーツが並ぶ商業施設で、中にはシードル工房もある。
 ウォーターフロント地区の公園化は観光振興に一役買っているがそれだけではない。都市住民の憩いの場になることで街なか居住の魅力も高めている。回りまわって住まう街としてのコンパクトシティの実現に貢献していることに気づく。

プロフィール
大和総研主任研究員
鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融