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初代大蔵省事務次官を知っていますか?~幕末・明治を生き、渋沢栄一を新政府に引き入れた岐阜人~

岐阜県 総務部長 横山  玄

1.はじめに
 いきなりですがクイズです。
 現在の財務大臣は誰ですか?
 …考えるまでもない愚問ですね。
 では、現在の財務省の事務次官は誰でしょう?
 …本誌を手に取っている方であれば、ご存じですよね。
 さて、それでは、大蔵省の初代の事務次官は誰か、知っていますか?
 また、その人はどこの出身でしょうか?
 …これが分かる方は、よほどの大蔵省(財務省)マニアしかいないと思います。
 答えは、郷純造(ごう・じゅんぞう)で、私が現在出向している岐阜県の出身の方であります。
 彼と彼の息子の郷誠之助(ごう・せいのすけ)は、現在放映されている大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一と深く関わりのある人物です。本稿では、二人の生涯について、簡単に紹介したいと思います。
写真1:郷純造

2.初代大蔵次官、郷純造(1825~1910)
(1)誕生から明治維新まで
 郷純造は、文政8年(1825年)、美濃国方懸郡黒野村(現在の岐阜県岐阜市黒野)に生まれた。生家は豪農で、純造は三男であった。
 渋沢栄一と同様、純造も漢学や剣術を近郷で修めた。幼少より読み書き算術は抜群であったという。また「本は片時も離さず、夜は燈明を一本貰い、眠くなるとキリを膝に立てて読書をした」という言い伝えが子孫の家に残っており、大変な勉強家であったようだ。
 更に、身体も大きく相撲も強かったようで、剣術についても19歳で免許皆伝の巻物三巻を手にしたというから、まさに文武両道、大谷翔平ばりの両立を成し遂げていたと言える。
 そんな純造は、これも渋沢と同様、立身出世の志を立てる。弘化2年(1845年)20歳の時、笠松代官になる夢を抱き、江戸に上った。
 「笠松代官」と言われてもイメージがわかない方が大半だと思うので、少し解説すると、江戸時代、美濃国は10万石未満の多数の藩と幕府直轄領に細分化されて統治がなされており、直轄領には「美濃郡代」が置かれ、笠松(現岐阜県羽島郡笠松町)にある陣屋の代官が行政実務を取り仕切っていた。つまり純造は、武士になることはもとより、武士の中でも、今でいう首長になることを志していた、ということになる。
 江戸でははじめ大垣藩主の用人であった者に仕え、その後、旗本の牧志摩守義制(まき・しまのかみ・よしのり)に仕えた。牧が長崎奉行になると、純造も長崎に随行した。嘉永4年(1851年)、長崎奉行所にてジョン万次郎の取り調べを行い、寛大な処置で故郷土佐に帰している。また、同5年(1852年)には、「オランダ別段風説書」(江戸幕府がオランダ商館長に提出させた、海外事情に関する情報書類)を読んでペリーの来航を予知し、時の老中・阿部正弘に報告している。
 こうした仕事ぶりが評価されたのであろう、純造は文久元年(1861年)から慶応元年(1865年)にかけ、大坂町奉行の家老を務めている。
 順調にキャリアをステップアップさせていった純造であるが、実はこの段階でも幕臣にはなれていなかった。幕臣となるには御家人株を譲り受ける必要があったのである。純造が株を取得し、念願であった幕臣となったのは、慶応4年(1868年)1月のことであった。
 しかし、間もなく時代は大きな変革の時を迎える。明治維新である。
写真2:郷純造(青年期)

(2)新政府に入り、渋沢栄一、前島密らの登用を薦める
 鳥羽・伏見の戦い、江戸無血開城を経て、明治新政府が樹立された。純造は江戸無血開城に関わったが、折角大枚をはたいて買った御家人株は、全く無価値となってしまった。
 だが、新政府の主要藩閥である薩長土肥には、事務・財務処理能力に長けた人材が不足していた。明治元年(1868年)9月、43歳の純造は、その能力を買われ、新政府に出仕することとなった。
 いつの時代、どんな国家にも、財政を担当する人間は必要であり、純造はいわば「居抜き」の形で用いられることになったと言えよう。
 明治2年(1869年)、純造は渋沢栄一や前島密といった旧幕臣を新政府の大隈重信に推薦し、登用させた。渋沢栄一は幕末に幕府のパリ使節団の一員としてヨーロッパに渡航、帰国した時は既に明治時代になっており、駿府城に謹慎していた徳川慶喜と面会し、そのまま静岡に留まり静岡藩に出仕、「商法会所」を設立していたが、純造の紹介により再び中央政府で働くことになったわけである。
 その後、渋沢は明治6年(1873年)に大蔵省を退官、実業界に身を投じ、「日本資本主義の父」と称される活躍を見せ、令和の世には大河ドラマの主役を張り、また新一万円札の顔となるわけだが、いわば「旧体制」の一員として徳川慶喜の下で働いていた渋沢を「新体制」の一員に引き入れた純造の功績は大きいと言えるだろう。

(3)大久保利通に睨まれる
 一方で、旧幕臣が政府内で活躍するのを苦々しく思っていた人間がいた。「維新の三傑」の一人、大久保利通である。明治3年(1870年)、大久保は岩倉具視あての書簡の中で、「郷権大丞(ごんだいじょう)ヲ断然免職カ転勤二ナラス候」と糾弾している。
 しかしながら、大久保の後に大蔵卿となった大隈重信はこう述べている。「我輩が大蔵省に入って人材を求めて居ると、郷純造君が洋行帰りの渋沢君を推薦して来た。郷氏はなかなか人物を見る眼があった。氏の薦めて来た人物は皆良かった。前島君(前島密)も其の一人である。」
 このように、純造は決して派閥争いのために旧幕臣を集めたのではなく、ちゃんと能力主義で人材を推薦していたことが分かる。

(4)草創期の大蔵省と藩債処分
 さて、純造は大蔵省でどのような仕事をしていたのだろうか。純造が特に心血を注いだのは、全国大名諸藩の「藩債処分」である。
 草創期の大蔵省は、歳出、歳入、累積債務、どれをとっても大問題を抱えていた。まず歳出は、旧幕藩に雇用された非生産的な武士階級への俸禄(給料)が、予算全体の3~4割をも占めていた。次に歳入は、米穀などの現物を中心とした租税制度のため、米価等の変動により納税額が大きく変動する構造となっていた。そして、その上さらに、諸藩や旧幕府が作った膨大な借金の処理が残されていたのである。
 「草創期」と聞くと何だかベンチャー企業のような印象を勝手に受けるが、内実はまるで反対で、当時の大蔵省はゼロどころかマイナスからのスタートを強いられていたのである。
 上述した3つの課題に対し、大蔵省はそれぞれ、秩禄処分、地租改正、そして藩債処分という財政構造改革を断行し、近代国家としての財政的基盤を整備したのであるが、ここでは純造が深く関わり、一般には余りなじみのない「藩債処分」について解説したい。
 江戸時代、全国の諸藩は国内外から多額の借入を行ってきたわけであるが、明治政府は当初、藩債の処理については、各藩がそれぞれ償還年限の目途を立てて割賦返済すべき、つまり、「藩が作った借金は藩の自己責任で返せ」という方針であった。
 しかし、明治4年(1871年)の廃藩置県によって、政府自らが藩を消滅させてしまったため、政府は旧藩の債務を最終的に明治政府の責任において処理することを決定し、旧諸藩の抱える債務残高や藩札発行高を大蔵省に報告させる形で、旧藩の債務の総額を確定する調査を開始した。
 調査結果として届け出られた全国諸藩の債務の総額から、旧藩主の私的債務として明治政府が引き継ぐことが不適切な債務や、旧幕府が旧藩に有していた債務等を除いた総額は61,681千円で、これに外国債4,002千円、藩札発行高39,094千円を加えると104,777千円となった。これは、当時の経済規模の20~30%に匹敵する金額であり、また歳入の約1.6倍に及ぶ金額であった。
 この巨額の債務について、大蔵省は大要以下の処理方針を立てた。
 まず、藩債については、発行時期によって以下の3種類に分類し、対応した。
ア.天保14年(1843年)以前の借入は、同年に幕府が棄捐令を発しているので、全て棄捐する(=償還しない)。
イ.弘化元年(1844年)から慶応3年(1867年)までの借入は公債として継承するが、明治5年(1872年)を始期とする無利息50年の年賦償還とする。
ウ.明治元年(1868年)から明治5年(1872年)までの借入も同様に公債として継承するが、元金3年据置かつ四分利付25年年賦償還とする。
 そして、藩札については、廃藩置県時点の「相場」または実勢価格によって政府紙幣と引き換える形で、政府紙幣への引き換えを順次進めたのである。
 新政府が過剰な債務を背負うことを避けつつ、債権者たる藩債や藩札の所有者の権利にも配慮した、リーズナブルな処理策と言えるのではないだろうか。

(5)大蔵次官から貴族院議員へ
 純造は明治10年(1877年)に国債局長、同17年(1884年)に主税局長となった後、同19年(1886年)初代事務次官に就任、同21年(1888年)に退官した。その後、明治24年(1891年)には貴族院議員となり、明治33年(1900年)勲功により男爵を授かっている。
 純造は、黒野小学校約2,000坪をはじめ、地元に対し合計約8,100坪の土地を寄付するなど、生まれ育った岐阜・黒野村への貢献も忘れていない。
 明治43年(1910年)12月2日、純造は85歳の生涯を閉じた。
 青年の頃に立てた「笠松代官になる」という志は、そのままの形では実現しなかったが、立身出世の夢は立派に果たされたと言えるだろう。

3.渋沢の後継者となった次男、誠之助(1865~1942)
 ここからは、純造の次男、郷誠之助について、簡単に紹介したい。
(1)誕生~留学まで
 慶応元年(1865年)、誠之助は父と同じく美濃国黒野村に生まれた。生まれてすぐ大坂町奉行勤めの父のもとに届けられ、維新後は麹町に住んでいる。
 少年時代はかなりやんちゃ坊主であったようである。16歳の時には、東京から故郷の黒野村までなんと無銭旅行をし、激怒した父から勘当されたというから、半端ではない。
 親に「面倒を見切れない」と思われたのかどうかは定かでないが、明治17年(1884年)、誠之助はドイツに留学した。約8年に及んだ留学生活では、放蕩三昧の日々を送っていた時期もあったようだが、最後は一念発起して哲学や経済学を学び、博士号を取得した。
写真3:郷誠之助

(2)帰国後の活躍
 帰国後は一転して実業界に身を置くことになり、経営危機に陥った日本メリヤス、日本鉛管、日活、東京電灯、入山採炭(後の常磐炭鉱)や王子製紙などの整理・改革に携わる。
 そして、30数社に及ぶ企業や、70を越す団体の要職を歴任した。その主なものは、東京株式取引所理事長、日本商工会議所会頭、東京商工会議所会頭、日本工業倶楽部専務理事などであり、まさに財界の世話役であったと言える。珍しいところでは、渋沢栄一の推薦で、大正15年(1926年)、嘉納治五郎講道館の初代後援会長にも就任している。
 渋沢栄一は死の直前、「自分の亡き後は郷君(誠之助)によろしくお頼みしたい」という遺言を伝えており、財界の後継者として誠之助を位置づけていたことが伺える。

4.おわりに
 残念ながら、郷純造、誠之助親子のことは、地元の岐阜でもほとんど知られていない。かくいう筆者も、岐阜での生活は三年目になるが、まことにお恥ずかしながら、先日、二人に関する記事が地元の新聞に掲載されるまで、初代大蔵次官が岐阜の人だったとは知らなかった。
 新聞記事を見て、これも何かの縁かと思い、地元の研究家の方に詳しいお話を伺ったところ、これまで書いてきたような興味深い事実を色々教えていただいたので、是非「ファイナンス」で紹介したいと思い、本稿を執筆させていただいた。
 本稿をきっかけに、郷親子に関心を少しでも持っていただければ、筆者としてこれに勝る喜びはない。
 最後に、本稿執筆にあたり、貴重な史料をご提供いただき、またインタビューに快く応じていただいた、郷家現当主の郷和彦さん、ご子息の学さん、地元の歴史研究会(黒野城と加藤貞泰公研究会)の河口耕三会長、そして三人をご紹介いただいた平野恭子県議会議員に、この場を借りて深く感謝申し上げます。
写真4:岐阜市黒野の郷親子生誕地案内板にて。右から、河口会長、筆者、郷和彦さん。

参考文献
「実業之日本社」明治42年(1909年)7月発行
「大久保利通文書 四」日本史籍協会編 東京大学出版会
「明治前期財政経済史料集成 第九巻」大内兵衛、土屋喬雄編 明治文献資料刊行会
「明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響」大森徹(日本銀行金融研究所「金融研究」2001年9月所収)