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路線価でひもとく街の歴史 第16回

「さいたま市大宮区」氷川神社の参道を軸としたまちづくり
東北出身者の心の駅といえば上野だが、筆者にとっては大宮だ。少年時代、夏休みに仙台から上京したとき東北新幹線の終点が大宮駅だったからだ。都心へはリレー号に乗り換えた。当時の印象は長く残り、「埼共連」の看板の黒いビルが見えると大都会東京に来た気がした。まさに大宮は首都圏の玄関口だった。そして長らく大宮が奥州街道の宿駅だと思っていた。

鉄道と製糸のまち
当時の埼玉県大宮市、平成15年(2003)に政令指定都市になってからはさいたま市大宮区だが、「大宮」の名は当地に鎮座する氷川神社を「大いなる宮居」と呼んだことに由来する。当社は武蔵国の一宮、すなわち埼玉県、東京都、川崎および横浜市の総氏神だ。氷川信仰を背景に大宮は門前町として栄えた。
寛永5年(1628)、氷川神社の参道から分かれ中山道が通された。板橋、蕨、浦和に次ぐ中山道六十九次4番目の宿駅が置かれ、大宮は宿場町としても賑わった。しかし武士の時代の終焉と同時に衰退し、明治2年(1869)には人口1,000人を割り込む。街道から鉄道の時代になり、明治16年(1883)、中山道に沿って工事を進めていた日本鉄道が現在の高崎線のルート、上野・熊谷間で開通したが、浦和駅の次が上尾駅で大宮は素通りだった。危機感をおぼえた地元有志の請願で大宮に駅ができたのは明治18年(1885)。それも先行開通した中山道線から東北方面に分岐する駅となった。それから9年後の明治27年(1894)には日本鉄道が大宮工場を開設した。国有化後は国鉄大宮工場となる。交通路としてだけでなく地元の主力産業の意味でも大宮は鉄道の町となった。
大宮駅の開業と同年に赤羽駅から分かれ品川駅に至る支線が開通。一部が今の山手線となっている。既に開通していた官営鉄道との連絡で、群馬の養蚕地帯と横浜の生糸積出港が結ばれた。そして中間点の地の利から大宮に製糸工場の進出が相次いだ。長野県岡谷を発祥とする片倉製糸が明治34年(1901)に進出。当初は駅近くの仲町にあった。後に移転し跡地が片倉新道と呼ばれる道路となる。明治37年(1904)には岡谷製糸が国鉄大宮工場の西隣に大宮館製糸所を構えた。そして明治40年(1907年)に長野県須坂を本拠とする山丸製糸場が氷川参道沿いで操業を始めた。その一部が今の山丸公園で名前に名残をとどめている。明治44年(1911)には岡谷出身の渡辺綱治が渡辺組大宮製糸所を大宮駅の西南に旗揚げした。
大正5年(1916)、片倉製糸が氷川参道一の鳥居を出たところ、今のコクーンシティの場所に大工場を整備し移転した。繭を意味するコクーン(cocoon)の名前に、かつて製糸場だった土地の記憶を込めている。
進出企業は地元に根を張りまちづくりに貢献してきた。渡辺組大宮製糸所を創業した渡辺綱治は昭和4年(1929)に与野町長を務める。昭和9年(1934)の日赤病院の開院にあたって、渡辺は工場向かいの敷地と建築費の一部を提供している。片倉大宮製糸所の工場長を務めた今井五六は、昭和15年(1940)に町から昇格した大宮市の初代市長でもある。学校創設を思い立ち、昭和17年(1942)に片倉製糸の出資を募り片倉学園を創設。理事長になった。片倉学園の創設地にある県立大宮高等学校の前身の一つである。
次に金融をみてみよう。銀行の立地は当時の業務中心地を示す。大宮に本店を構える大宮商業銀行が創業したのは片倉製糸が進出する3年前、明治31年(1898)である。県内勢では大正元年(1912)に粕壁銀行が支店を出した。大正9年(1920)に浦和が本店の武州銀行が駅前に大宮支店を出店。粕壁銀行を吸収合併した。その後昭和18年(1943)に第八十五、飯能、忍商業銀行等と大合併して埼玉銀行になった。昭和35年(1960)に現在地に移転、現在の埼玉りそな銀行に至る。戦後は武蔵野銀行が昭和27年(1952)に創立。今の大宮支店の場所、大宮銀座に本店を構えた。
県外勢では明治34年(1901)に東京日本橋に本店があった日出銀行が大宮に進出。大正6年(1917)には、八王子が本店の第三十六銀行が大宮支店を出した。日出銀行はその後、総武銀行、千葉合同銀行を経て千葉銀行の支店となり、昭和19年(1944)埼玉銀行に継承。第三十六銀行は昭和18年(1943)に安田銀行に統合され、戦後は富士銀行になった。その後も長らく同じ場所で営業していた。
武州銀行は駅前、第三十六銀行は中山道にあった。宿場町を由来とする大宮は、中山道と、中山道に並走する東西2本の道からなる町割だ。並走するのは中山道を表に軒を並べる建物の裏手の道である。細長い町割の西側に大宮駅ができた。街道と1筋しか離れておらず、街道沿いがそのまま近代の市街地になった。中山道、それに並行する駅側の道、駅正面から伸び両者をつなぐ道からなる“H”型のエリアが中心街だ。

一等地は駅東口から西口へ
歴史を辿ると大宮は街全体が郊外だったといえる。岩槻や川越など城下町から外れ、都心を迂回して横浜に向かうバイパス線上にあった。舟運から鉄道に交通手段がシフトしたことで圏域の中心機能が鉄道拠点にやってきた。事実、報道を遡れる昭和34年(1959)の時点で埼玉県の最高路線価は県都浦和市ではなく大宮市にあった。当時の最高路線価地点は「大門町一丁目中地ミシン店駅側通」だった。駅に並行する大宮銀座の通りのうち、駅東口から東西に伸びる中央通との交差点に面する側である。駅に並行する通りは川越街道に連結することから川越新道と呼ばれていたが、昭和22年(1947)に大宮銀座に改名した。昭和27年(1952)には歩道にアーケードが架けられた。
昭和40年代は中央通とその北側に大型店の出店が続いた。昭和41年(1966)、第三十六銀行の後継の富士銀行の隣に大宮中央デパートが開店した。駅と氷川神社を結ぶ導線上の一の宮通りに続く「一番街」には昭和43年(1968)から3年連続で大型店が進出。長崎屋、西武百貨店、十字屋が開店した。昭和45年(1970)には中央通に高島屋が開店した。大型店の出店が一巡した昭和50年(1975)、最高路線価の場所は「コヤマ食堂前銀座通」とやや北に寄ったが大宮銀座に変わりなく、価格はm2当たり88万円だった。その頃の西口はまだ閑散としており、路線価は同34万円と東口の4割弱程度だった。
大型店が集積した北側に対し、中央通の南側は繁華街となった。映画館も多く、北側の大宮銀座に掛けて南銀座、略してナンギンと呼ばれ親しまれた。大宮銀座の道は中央通を越えると南銀座通という。中山道の西側、南銀座通と片倉新道の丁字路周辺がナンギンだ。
駅の開業以来東口が一等地だった街に変化をもたらしたのは昭和57年(1982)の東北新幹線の開通である。宇都宮や仙台の駅前と同様、真新しい新幹線駅を背中にペデストリアンデッキが縦横に広がる風景に一変した。あわせて大宮駅前西口地区の再開発事業が進められた。新幹線が開通した年に丸井やダイエーが進出。昭和62年(1987)にそごうが開店した。その翌年、地上31階建の大宮ソニックシティビルが完成し駅前の印象が大きく変わった。その後バブル景気を挟んで平成4年(1992)には最高路線価地点が東口から「桜木町2丁目旧マスクラ写真館前大宮駅西口広場」に変わった。
図1.市街図(出所)筆者作成

製糸場の跡にできた新都心
東口から西口に最高路線価が移転した頃、かつての郊外で新しい都市の建設が始まった。さいたま新都心である。平成3年(1991)に着工。平成11年(1999)に名称が「さいたま新都心」に決まった。まちびらきは平成12年(2000)だ。
東北本線を挟んで西側は国鉄大宮操車場だった場所だ。広幅の車道で街の外縁が形作られ、内側は中央のけやきひろばと月のひろばを真ん中に、ひろばを囲むように高層ビルが立ち並ぶ。街区はペデストリアンデッキで縦横につながっている。シンボルは最大37,000席を擁するさいたまスーパーアリーナ。まちびらきの年の秋にオープンした。官公庁や民間企業のオフィスビル、シティホテルの他、さいたま赤十字病院のような拠点病院もある。財務省の関東財務局をはじめ、関東地方を管轄する政府の地方支分部局が集まっている。
線路の東側はかつて片倉製糸場だったところだ。跡地にできたコクーンシティは郊外型の大型ショッピングモールである。さいたま新都心駅を擁する駅前立地だが、国道17号バイパスだけでなく首都高速の便もよい。駅前とロードサイドの両方の特性を合わせ持つ。
令和2年の最高路線価は大宮駅西口ロータリーのm2当たり426万円。前年比上昇率も県内一高く15.1%だった。対して東口はその4分の3の同328万円。さいたま新都心周辺の最高路線価はさいたまスーパーアリーナ前の同156万円とそのまた半分の水準である。ちなみに県内で大宮に次いで高いのは川口市の同194万円で、浦和はそれをわずかに下回る3位だった。最高路線価は浦和駅西口駅前ロータリーの同192万円で大宮駅西口の半分をさらに下回った。以下川越市の同108万円、所沢市の同100万円である。
他の都市と同じように、大宮もその時代に適した街が既存の街の外側にできる構図がみてとれる。きっかけは東北新幹線の開通だったが、広い区画のビル街が西口にできた。さらに、車社会に適応しつつ広い歩道がメインストリートの街が新都心にできた。
図2.中山道から分岐する氷川参道の入口と一の鳥居(出所)筆者撮影

公共施設再編と連鎖型まちづくり
西口に水をあけられ、さいたま新都心の吸引力に押される東口の旧市街。平成22年に策定した「大宮駅周辺地域戦略ビジョン」を基に新しいまちづくりが進んでいる。具体策のなかで目をひくのが、「公共施設再編による連鎖型まちづくり」だ。氷川参道に沿って点在する公共施設をたまつき式に再整備し、氷川参道を都市軸に新たな魅力をつくるプロジェクトである。
一昨年、氷川参道沿いの山丸製糸場があった場所に大宮区役所の新庁舎が完成。大宮市の時代から中央通りにあった区役所が移ってきた。新庁舎には大宮図書館も同居する。それまで参道の一の鳥居に近いところにあった図書館をもってきた。旧市街と新都心の中間点に市の中心機能を配置することで、南北に分かれた都心の一体化を図っている。新庁舎のオープンに合わせ区役所に面する参道を歩行者専用にした。沿道のオープンカフェがケヤキ並木の風景に溶け込んでいる。氷川参道の周囲は元々静かな住宅地でとくに西側は都市型マンションが多い。生活エリアに緑豊かな散歩道ができ、図書館やカフェ・レストランが充実するなどしてエリアの魅力が高まることが期待されている。
氷川参道に沿って大宮区役所の隣に市民ホールがあるが、大宮中央デパートのあった場所に移転する予定だ。中山道、中央通の交差点北東角の区画の再開発が進捗中で、18階建の複合ビルが来年開業する。4~9階に移転後の市民ホールが入る以外は5階まで商業フロア、10階以上はオフィスとなる予定である。
移転に伴って空いた旧区役所、旧図書館、空く予定の市民ホールの跡地の活用策を将来ビジョンに照らし検討している。昨年、一の鳥居近くの旧図書館の活用法が決まった。事業主体の民間グループは市から旧図書館を定期賃借権方式で借り受け、1階に地元食材レストランや屋外マルシェ等、2階はオフィスや保育施設等が入居する複合施設にリノベーションする。大宮ブランド発信、地域ビジネス活性化および観光拠点となることを目指し今秋にオープン予定だ。大宮駅と一の鳥居を結ぶ一の宮通りは氷川神社への動線であるとともに、美容室や個性的なショップが並ぶエリアでもある。氷川参道を公園化した「平成ひろば」に沿って中層マンションが林立する。旧図書館のリノベーションによって都市型ライフスタイルに合ったエリアの一体性が高まることも期待される。
平成31年、大宮公園グランドデザイン検討委員会の報告書が公表された。地域戦略において都市公園が重要な意味を持つ。大宮公園はもともと氷川神社の境内地で戦前は氷川公園と称していた。開園は明治18年(1885)と大宮駅が開業した年に遡る。大宮駅の設置を請願するにあたって駅の集客拠点とする目論見があっただろうことは想像に難くない。東屋やベンチの他、2階建の休憩所「含翠亭」を整備した。古い地図を観ると万松楼、八重垣、石州楼など料亭らしい店もある。正岡子規や太宰治はじめ文人が好んで訪れたそうだ。県内有数の花見の名所でもある。
昭和8年(1933)には児童遊園地、その翌年には野球場が完成。ベーブ・ルースらと日米親善野球をした。昭和28年(1953)に小動物園、昭和35年(1960)にはサッカー場ができた。平成19年(2007)に改修。J2大宮アルディージャのホームでもある。住民の憩いの場であると同時に開設当初からの観光拠点で、スポーツ・レジャー拠点でもあった。
図3.歩道化された参道に沿ってオープンカフェが増えている(出所)筆者撮影


氷川参道を軸とした街の再構成
一の鳥居から氷川神社までおよそ2kmにわたる氷川参道は木漏れ日が気持ち良いケヤキ並木の散歩道だ。そして大宮の発祥から現代そして未来に渡って不動の南北軸でもある。軸の北端には大宮公園があって武蔵一宮氷上神社が鎮座し、南端にはさいたま新都心が求心力を放つ。氷川参道の南北両端からほぼ等距離の地点には、首都圏の玄関口たる大宮駅がある。軸線とその北と南と西に位置する拠点が街の一体感を生み出している。鉄道開通に端を発し、製糸業が盛んになって街が拡大。その後製糸業は衰退して跡地に新たな街ができた。いったん分散したかのように見えた拠点が不動の都市軸に回帰することで再び一つにまとまった。
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融