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新々 私の週末料理日記 その45

4月△日土曜日

昼寝から起きてお茶を飲む。そろそろ新茶の季節である。昔から新茶と言えば八十八夜。八十八夜というのは、24節季の一つである立春を起算日として88日目ということであり、今年でいうと5月1日である。24節季は太陰暦と異なり、太陽の運行を基準にしているので、実際の季節とのずれが小さい。「彼岸」、「八十八夜」、「土用」、「二百十日」などは、我が国において24節季をベースに生活・農事のために設定された暦日である。

昭和世代のおじさんとしては、お茶の産地と言えば「清水港の名物は お茶の香りと 男伊達」と歌にもある通り、静岡県が圧倒的な大産地だろうと思っていたのだが、最近は鹿児島県もほぼ同じぐらいの産出量らしい。これは煎茶についてであり、抹茶については、何といっても宇治を擁する京都府が1位で、続いて愛知県、鹿児島県といったところだ。愛知県では西尾の抹茶が有名で、抹茶スイーツなどにもよく使われている。

先程の歌にある「清水港の名物」としてお茶と並ぶ「男伊達」とは、言うまでもなく清水次郎長(しみずのじろちょう)一家のことであるが、一方愛知県西尾市は、吉良(きら)町と合併しており、荒神山(こうじんやま)の喧嘩で有名な侠客吉良仁吉(きらのにきち)は三州(さんしゅう)吉良横須賀の生まれである。

過日吉良を訪問した折に、仁吉の墓がある源徳寺のご住職から話を聞いたことがある。お話によれば、浪人崩れの寺男の息子であった仁吉は、180センチを超える大男で腕っぷしが強く草相撲で鳴らしており、巡業で回ってきた相撲興行に飛び入りで参戦した。当時興行上の暗黙の了解として、飛び入りの素人は下位の力士にはともかく大関には勝を譲らなくてはならないとされていた。ところが仁吉は、勝ち抜いて大関と対戦したのはいいが、若気の至りで大関を投げ飛ばしてしまい、興行主のやくざから命を狙われる羽目となった。そこを近隣の侠客寺津(てらづ)の間之助(まのすけ)に匿われたことから、間之助から盃をもらってやくざになった。それが縁で間之助の兄貴分である清水次郎長の下で18歳から三年間修業をして、その後吉良に帰り、吉良一家を構えた。

仁吉は義理に厚く、堅気には腰が低く、若くして人望を集めていたが、兄弟分である伊勢の博徒神戸長吉(かんべのながきち)の縄張りを同じく伊勢の穴太(あのう)徳次郎が奪うという事件が起きる。長吉から助けを求められた仁吉は、たまたま吉良に滞在していた次郎長一家の幹部清水大政(しみずのおおまさ)、関東綱五郎、樋屋鬼吉(おけやのおにきち)、法印(ほういん)大五郎、増川仙右衛門等とともに穴太徳との喧嘩に助っ人として赴くことになる。ご住職によれば、仁吉は多勢に無勢の不利を承知で、それでも侠客としての義侠心から引き受けたのだという。そして神戸一家と助っ人の吉良一家、清水一家あわせて22名と、穴太一家と助っ人の黒駒勝蔵一家、平井亀吉一家130余名が、現在の三重県鈴鹿市にある荒神山(こうじんやま)観音寺の裏山で激突した。これが世に言う荒神山の喧嘩である。荒神山観音寺は、かつて春日局(かすがのつぼね)の信仰が篤く、その威光で公然と博打開帳が許されており、その収益は莫大であったという。荒神山の喧嘩は博徒同士の利権争いであった。神戸方は人数的には劣勢であったが、仁吉や大政以下清水一家の活躍で勝利した。しかし、仁吉は鉄砲で撃たれて死ぬ。28歳の最期であった。穴太方は、「神戸方の頭株の仁吉と大政はいずれも大男であるから、大男を狙え」と雇った助っ人の猟師に指示していたのだという。

源徳寺には、次郎長が建立したという仁吉の墓のほか、「義理と人情 吉良町」と刻まれた大きな石碑がある。自治体が任侠道に因んだ碑を建てるというのも珍しいと思うが、なかなか立派な碑である。

閑話休題。先日親族の90歳近い老人が庭仕事中に枝に額をぶつけて怪我をして、血液凝固阻止剤を服用していたためか出血が止まらず困ったことがあった。土曜日の午後であったので営業中の病院を探し、家族が付き添って某整形外科を訪れて、受付で事情を説明したが、医師が姿を見せることなく「当院では首から上の怪我は診ない」と断られ、保険会社の「安心ダイヤル」のメモを渡されたそうだ。そこに電話しても話し中だったので、今度は市役所に相談したところ、ある総合病院を紹介された。そこの外科に電話して説明したところ、「当院はMRIやCTがなく十分な検査ができない」と断られた。出血以外は全く元気だから応急の止血措置をしてほしいと言っても引き受けてくれないのである。翌朝救急車に来てもらって比較的大きな病院の休日外来に連れて行ってもらって、ようやく診ていただき縫合してもらえたのだが、特段の検査は不要とのことだったそうだ。車中で救急隊員は親切に「遠慮なくすぐに救急車を呼んでください」と言ってくれたそうだが、老人にしてみればこの程度のことで呼ぶわけにはいかないと思ったのだろう。この話を聞いた時、もちろん病院側にもいろいろ事情はあったのだろうが、「義理と人情」の碑を思い出したことであった。演歌「人生劇場」に曰く「時世(ときよ)時節は変ろとままよ、吉良の仁吉は男じゃないか…」。

ベストセラー「人生劇場」を書いた尾崎士郎も吉良の出身であり、自伝的大河小説である同書には、吉良仁吉の血をひく吉良常(きらつね)なる人物が登場して、随所で主人公青成瓢吉(あおなりひょうきち)の力になる。「人生劇場」では、吉良から上京して早稲田大学に入学する瓢吉の青春を描いた「青春篇」や「愛欲篇」が面白いが、仁義に生きるやくざ飛車角(ひしゃかく)と老侠客吉良常を中心に描いた、やや番外篇的な「残侠篇」も人気がある。何度も映画化されているが、私が好きなのは、飛車角を鶴田浩二、吉良常を辰巳柳太郎が演じた「人生劇場 飛車角と吉良常」(内田吐夢監督)である。

因みに荒神山の喧嘩始終を次郎長に最初に伝えたのは、旅回りの講談師松廼家太琉(まつのやたいりゅう)である。次郎長の家に寄食することの多かった太琉は、荒神山の喧嘩にも同行して、大政の命を受けて次郎長のもとに報告に急行したのである。話を聞いた次郎長は、仁吉の弔い合戦に、数百人を引き連れて船で伊勢に乗り込んだが、穴太方が謝罪したので手打ちになった。太琉は、次郎長の養子山本五郎(後の禅僧・歌人天田愚庵)が著した次郎長の半生記「東海遊侠伝」を読み、「清水次郎長伝」の講談を考案して語ったが、あまり受けなかった。何としても次郎長伝を世に出したかった太琉は、人気講談師三代目神田伯山に、自分の次郎長伝をそっくり譲ったという。伯山は、それから「東海遊侠伝」を参考に練り上げて「清水次郎長伝」を完成させ、大人気を博した。これを初代玉川勝太郎や二代目広沢虎造がふしをつけ、独自の工夫を凝らして浪曲化した。虎造の「清水次郎長伝」はラジオで放送され、大衆の支持を得た。戦後、次郎長伝をはじめとする虎造の浪曲のラジオ番組は聴取率第1位となるほどの人気で、これにより仁吉も含めて清水次郎長一家は庶民のヒーローとなった。春秋の筆法をもってすれば、博打好きの太琉が次郎長の家でごろごろしていたから、吉良仁吉も有名になったということになろうか。

ところで吉良の有名人と言えばもう一人、吉良上野介義央(きらこうづけのすけよしひさ)を挙げねばなるまい。忠臣蔵では意地が悪く欲深な老人として描かれ、天下の憎まれ役とされている吉良公だが、地元では治水事業に尽力した名君と称えられている。領内に黄金堤という堰堤を築いたとき、赤毛の愛馬にまたがり巡視にあたったとされ、吉良にはその銅像がいくつもある。馬上の義央は穏やかにして威厳がある。吉良公の赤馬に因んだ郷土玩具や最中は、吉良の名物になっている。

吉良上野介の墓所は、吉良の片岡山(へんこうざん)華蔵寺(けぞうじ)にある。かつて華蔵寺を訪れた俳人村上鬼城は「行春や憎まれながら三百年」の句を残した。同寺には、生前の吉良義央がつくらせたという義央の木像もある。温厚で思慮深い顔立ちである。また、地元の方々が建てた「真実を求めて」と題する立派な石碑もある。碑文中に曰く「…名君を暗殺したものを忠臣としたのでは、武士道にも反し芝居にならないので、小説家、劇作家たちが、興味本位にいろいろのつくりごとをして、吉良公を極悪人に仕立て上げ、忠臣蔵として世間に広めた。…」。

世の中に一度悪評が定着すると、それを覆すのは極めて難しい。「ため息は命を削る鉋かな」というが、昨今の一部マスコミの興味本位の一面的な記事やSNS上の無責任な誹謗、そしてそうした諸々のものからなる薄っぺらで尖った世相を見ると、ため息が出る。華蔵寺の石碑を建てた吉良の人たちの思いに感ずるところ切なるものがある。

時計を見るともう5時近い。吉良三人衆に思いを馳せてばかりもいられない。そろそろ夕食の準備にかかろう。献立は、ねぎと牛肉のスープにチャプチェと石焼ビビンパだ。チャプチェは本来春雨で作るものだが、家の者がチャプチェは太ると難色を示すのでしらたきで作ってみた。意外にもなかなか美味。世の中ではカロリーを気にする人も多いようで、家人が言うにはしらたきのチャプチェは結構流行っているらしい。もっともご飯を山盛りにした石焼ビビンパで、しらたきへの置換によるカロリー節減効果は完全に相殺されてしまった。本当はもう1品カルビ焼肉ぐらい食べたかったが、久しぶりの韓国飯で一応満腹。さてと、夜は久しぶりに二代広沢虎造の清水次郎長伝の荒神山の段あたりをゆっくりと聴くことにしよう。

しらたきのチャプチェのレシピ(4人分)

〈材料〉 しらたき400g、輸入牛ロース薄切り120g(細く切り、ごく軽く塩、胡椒する)、玉ねぎ半個(細く櫛切り)、人参半本(3ミリ角程度に細く切る)、きくらげ半袋(水に戻し食べやすい大きさに切る)、椎茸4本(石突を取り薄くスライス)、ピーマン1個(細切り)、いりごま(白ごま)、一味唐辛子、合わせ調味料(醤油大匙1、砂糖大匙1、酒大匙2、焼肉のたれ大匙1、おろしにんにく小匙1)

(1)しらたきを食べやすい長さに切り、湯通しして笊にあげる。さらにフライパンで乾煎りし、醤油、酒各大匙1を振り、かき混ぜてから、ボウルなどに取る。

(2)フライパンにごま油大匙2をひき、中火で牛肉を炒めほぐす。牛肉の色が変わり始めたら、人参と玉ねぎを加えて1分炒め、椎茸、木耳を加えてさらに1分炒める。

(3)ピ-マンを加え、合わせ調味料半量を振り1分炒めたら、しらたきを投入し、合わせ調味料の残りを振って、強火で2分混ぜながら炒める。途中で一味唐辛子少々を振る。

(4)味見して、味が薄ければ、醤油と焼き肉のたれで整え、皿に盛りつけ、いりごまを振れば完成。

*生椎茸、ピーマン、一味唐辛子に代えて、水で戻した干し椎茸、韮、糸唐辛子を使ったりするとさらに本格的な感じが出る。