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路線価でひもとく街の歴史 第15回

「長野県松本市」共存共栄が根づいたハイセンス城下町

長野県松本市のシンボル、国宝松本城は江戸時代の天守が現存する数少ない城だ。白銀の北アルプスを遠景に漆黒の松本城が映える旧城下町は夏川草介の小説「神様のカルテ」の舞台で、櫻井翔主演で映画化されたときにはロケ地になった。主人公が勤める「本庄病院」は24時間365日の救急医療が看板の地域中核病院。モデルとなった松本市本庄の相澤病院は、2018年平昌五輪の金メダリスト、スピードスケートの小平奈緒選手が所属することでも知られている。

県下第二の都市、松本市の人口は県都長野市の約3分の2の24万人。筆者の印象だが人口の割に都会に見える。信越本線の長野市に対し中央本線の松本市。車のナンバーも「松本」で同じ長野県でも長野市とは別の地域圏を形成している。歴史を辿れば明治4年(1871)から9年(1876)まで長野県とは別に筑摩県があり、松本市にはその県庁があった。合併後も拠点機能の一部は松本市に置かれた。例えば日本銀行の支店や旧制高校は松本市にできた。その流れで信州大学の本部は松本市にある。県の調査によれば39市町村からなる松本商圏の人口は平成30年(2018)で松本市の人口の2.5倍あり、長野市と同水準の61万人だった。商圏でみれば県都と肩を並べることがわかる。

善光寺街道の親町3町

城下町の南北軸は外堀に沿ってクランクした善光寺街道である。およそ外堀の内側が武家屋敷で、商業地が街道に沿って南北に延び、北端が下級役人の住宅街になっていた。町割りを称して「親町3町、枝町10町、24小路」といい、親町(おやまち)とされた本町(ほんまち)、中町、東町が街の中心だった。街の防御を念頭に城下町の外郭に寺社が置かれた。

親町3町でも本町は明治以降金融街の様相を呈した。千国街道、野麦街道が枝分かれする交通の要衝である。今も通りの突き当りに地域一番行の八十二銀行の松本支店がある。認可順に番号が振られた国立銀行を源流とするが82番目にできた銀行ではない。上田市が本店の第十九銀行、旧松代町が本店の六十三銀行の国立銀行を由来とする2つの前身行の数字を足して八十二となった。松本には第十四国立銀行があったが破たんした。

八十二銀行松本支店の源流を辿ると、まず六十三銀行の松本支店は元々明治29年(1896)に松本で創業した信濃商業銀行の本店だった。本町に直交する伊勢町にあった。明治42年(1909)に買収されて六十三銀行の支店になる。次に第十九銀行は大正5年(1916)に松本支店を本町に構えた。昭和6年(1931)、両行が統合して八十二銀行が発足。店舗は伊勢町の六十三銀行松本支店を引き継いだ。その後、昭和40年(1965)に現在地に移転した。ちなみに松本に本店を構えた銀行は他にもあった。信濃商業銀行と同じ明治29年(1896)創業の松本貯金銀行で、大正11年(1922)信州銀行に改称。昭和18年(1943)に八十二銀行に買収され、同行の本町支店となった。こちらは現在の松本駅前支店の系譜に連なる。

本町に日本銀行が支店を出したのは大正3年(1914)。新潟支店と同時で全国10番目だった。背景には中·南信地方で盛んだった製糸業があった。わが国の輸出戦略の要で、原料繭の仕入が初夏に偏り現金払いが求められる製糸業は資金需要が旺盛だった。当地の製糸金融で慢性的な資金不足だった地元銀行を日本銀行が支援した。昭和33年(1958)に現在地に新築移転。跡地は松本郵便局になった。

メガバンクの前身で戦前から松本に拠点を構えているのは現みずほ銀行の安田銀行と日本勧業銀行だ。安田銀行の進出は明治40年(1907)。明治26年(1893)に開店した信濃銀行松本支店を源流とする。日本勧業銀行松本支店は昭和5年(1930)。明治32年(1899)に発足した長野農工銀行を引き継いだ。昭和12年(1937)に店舗を新築。鉄筋コンクリート造3階建で、正面に並ぶアーチ型の開口部が壮観だ。平成15年(2003)で銀行としての役目は終え、平成19年(2007)に国の有形文化財に登録された。

図1.市街図(出所)筆者作成

長らく郊外だった駅前の変貌

本町界隈が発展する一方で街は旧城下町の外に拡大していった。当時の「郊外開発」でも後々影響が大きかったのは鉄道駅である。松本駅は明治35年(1902)に開業。図1.市街図の市街図を見るとわかるように、駅周辺は元々城下町の外だった。駅以外でも、明治以降の比較的大きな施設は城下町の外にできた。駅の反対、城下町の東側には片倉製糸場が進出した。大正8年(1919)、製糸場とは目と鼻の先に旧制松本高校のキャンパスが開かれた。戦後は信州大学文理学部に継承され、キャンパス移転後は「あがたの森公園」になった。うっそうとした並木道の脇に佇む洋風建築は旧制高校時代の校舎である。開校に合わせて整備された駅前の大通りは「あがたの森通り」の愛称で呼ばれるが、昭和39年(1964)まで路面電車が通っていたので「旧電車通」ともいう。

ところで松本市の昭和32年(1957)の路線価図を見ると、地価のうえでは既に駅前が最も高かった。その後、昭和44年(1969)の報道で最高路線価は「新伊勢町186‐4スヰート菓子店」だった。新伊勢町通は旧城下町の伊勢町と松本駅を結ぶ通りで、スヰート菓子店は通りの駅側の端にあった。最高路線価はかつて郊外だった駅前に移ったが、商業中心地はまだ本町界隈に残っていた。駅前と伊勢町通の路線価が同額で、高価格帯が本町から女鳥羽川を渡り向かい側の六九(ろっく)通に伸びていた。商業中心地は伊勢町、本町そして六九通の“コ”の字型をしていた。

六九は藩の厩で54頭の馬を飼育していたことが名前の由来だ。6×9=54から厩を六九厩といった。六九通には明治18年(1885)創業の呉服店を由来とする井上百貨店があった。昭和11年(1936)に3階建の百貨店に改装。戦後の増築を繰り返しつつ一番店の座を守り続けた。昭和42年(1967)、松本初の全蓋式アーケードが架けられたのも六九通である。対して伊勢町は昭和31年(1956)に開業した「はやしや百貨店」が核店舗だ。昭和45年(1970)に出資を受け入れ同49年(1974)に信州ジャスコに転換した。

名実ともに駅前が一等地になったのは昭和47年(1972)に始まった区画整理がきっかけである。元々旧電車通りの南側は倉庫や工場が散在するエリアだったが、松本駅の新築と合わせ、マス目が広い碁盤目状の区画に整理された。昭和53年(1978)にイトーヨーカドーが進出。翌年、六九通から井上百貨店が移ってきた。他の商業施設やホテルが建ち、駅ビルも開業したことで、駅前は床面積10,000m2クラスのビルが集積する一大拠点となった。まずは中心街の人の流れが変化した。以前は本町、伊勢町、六九通の順で人通りが多く六九通も1日10,000人前後の人出があった。影響は如実に表れ、その5年後には駅前の人通りが最も多くなり、六九通は5,000人前後に半減した。

図2.旧日本勧業銀行松本支店(出所)令和元年4月8日に筆者撮影

車社会化と郊外型モールの席巻

同じ頃に車社会化の兆しも見えてきた。昭和56年(1981)、はやしや百貨店あらため信州ジャスコが片倉製糸場の跡地に移転。店舗面積は13,375m2で、郊外型モールのはしりだった。コの字型の中心商店街は駅前と郊外の挟み撃ちにあった格好だ。そうした中、昭和59年(1984)、約3年のブランクを経て跡地に松本パルコが開店した。信州ジャスコの移転でいったん落ち込んだ客足が戻ってきた。DCブランドの流行も手伝って伊勢町界隈は若者とファッションの街になっていった。思えば今に至る街の変化の萌芽だった。

1990年後半には郊外型モールの出店が本格化。平成12年(2000年)、井上百貨店は同じ松本盆地の山形村にシネコン併設の郊外型モール「アイシティ21」を旗揚げし、店舗面積23,500m2と大型化も果たした。

車社会を背景とした郊外型モールの席巻は松本の中心市街地に少なからぬ影響を与えた。出店ラッシュが一巡した平成12年(2000)、通行量が最も多い松本パルコ前でさえ1日9,000人前後に留まった。

近年の大きな動きとしては、平成29年(2017)にオープンしたイオンモール松本がある。片倉製糸場の跡地のジャスコ(当時はイオン東松本店)ができて30年以上経ち、建て替えることになった。店舗面積は49,000m2と長野県下で最も大きい。本町・伊勢町界隈と駅前の大型店の店舗面積を合わせてなお上回るショッピングモールの進出に地元は色めき立った。

ハイセンスに活路を見出す中心街

現在、20年前に比べ街中の人通りに数字上の大きな変化は見られない。とはいえ全国の中小都市に見られるシャッター街の雰囲気もない。松本パルコ以来のハイセンスな街のコンセプトが定着し、かつての繁華街とは異なる新たな魅力を得ているように見受けられる。イオンモール松本の開店から3年が経過したが、思いのほか良い影響もあるようだ。まずはイオンモールの吸引力で松本商圏の規模が拡大した。

次に、イオンモールを中心市街地に取り込み、既存の中心商店街との間で機能分担を進めた。図1.市街図で示した市街地の範囲は旧城下町より広いが、それでも図の中心から縁まで徒歩10分。本町通りを北上し女鳥羽川を渡る千歳(せんさい)橋を起点として、イオンモール松本と駅前エリアはほぼ同じ距離である。駅前と同様、イオンモールも中心市街地の一部といって差し支えあるまい。令和元年の松本市商業ビジョンでもイオンモールを取り込んで中心市街地の範囲を広げた。

昨秋、イオンモール松本と松本パルコが共同で販促キャンペーンを始めた。両店含む4つのスポットを巡るスタンプラリーなどを通じて街全体の魅力を高める取り組みだ。中町、本町、伊勢町の親町3町の商店街も参画している。ポスターのキャッチコピーが秀逸で、パルコがイオンモールに「家電も買えて映画も観れる、正直ずるい」と言えばイオンモールがパルコに「お洒落すぎで都会的なの、正直ずるい」と返す。奇しくもあるべき中心商店街のポジションを示している。

駅周辺区画整理に続く旧城下町エリアのまちづくり事業も功を奏した。イオンモールに通じる中町は「蔵のある街」のコンセプトで修景が進み、土蔵造りのカフェ、スイーツ店や雑貨店が集まるエリアとなった。松本は日用品の美を追及する民芸運動が盛んな土地柄だ。その旗手たる松本民芸家具のショールームが中町にある。インテリアを松本民芸家具で揃えたカフェも周囲に点在している。女鳥羽川を挟んで中町と並行する繩手通は四柱(よはしら)神社の門前町。隣接する緑町、上土(あげつち)通はかつて映画館が集まる繁華街だった。浅草の仲見世と浅草六区のような間柄だ。今に残る戦前の建築物を活かしつつ、「大正ロマン」をコンセプトに修景を進めた。跡地に旧市役所の面影を残した市営住宅を建てたのはその一環だ。シネコンに押され映画館はなくなったが、個性的な飲食店が集積するエリアになった。

駅周辺区画整理の影響を大きく受けた六九通だが、下層が商業施設で上層がマンションの再開発ビルが建ち風景が一変。元からあった老舗に加え、10cmやミナ・ペルホネンなどデザイナーの直営店が集まる通りになった。それぞれ元はタバコ店や薬局だった店舗を改装したアンティークな店だ。あくまで筆者の印象だが、松本パルコのある伊勢町界隈を東京の渋谷とすれば中町は青山、六九通は代官山のようだ。

図3.六九通と井上百貨店(出所)井上百貨店提供

地元に根付く共存共栄の気風

まちづくりのハード面も成功要因に違いないが、その上に乗るソフト面、いわば共存共栄の気風も見逃せない。六九通りから駅前、郊外進出も果たした井上百貨店だが、並行して地元の産業育成にも取り組んできた。地方創生のカギと目される地域商社だが、松本では地元百貨店がその役を担っている。老舗の信頼感と百貨店の目利きを活かして才能を見出し育成。商品化を通じて世に送り出してきた。その送受信アンテナとなるのが駅前の井上本店や郊外のアイシティ21である。県外への販路拡大を睨みまずは期間限定のテスト販売で成否を見極める。成功例がいくつかあるが、例えば六九通の山屋御飴所はじめ老舗3店の食べ比べセット「松本飴箱」がある。地元デザイナーに依頼したパッケージを含め百貨店のネットワークが人を繋ぎ、新たな切り口を得た新商品に結実した。松本の人気カレー店の味をレトルトで再現した「信州松本カリー名店シリーズ」の開発にも井上百貨店が一役買っている。最近は、創立100周年の記念に南安曇農業高校が取り組む「南農カレー」の商品化にあたって、ターゲットの絞り込みなどマーケティング面でアドバイスを提供している。地域活性化を念頭に、製粉で生じるソバの甘皮を飼料に豚を育てる産学連携プロジェクトの一環で、カレーの開発は豚の販路拡大策の意味を持つ。

昨年から世の中を悩ませているコロナ禍で、とりわけ飲食店は甚大な影響を被っている。ここで井上百貨店がひと肌脱いだ。郊外店のアイシティ21に特設会場を設え、地元飲食店に呼びかけてテイクアウトメニューを並べた。地元支援の一環として昨年春から度々開催している。レストランの料理を真空パック化したミールキットの販売も始めた。今後インターネット販売も計画中だ。デパ地下の強みが客足を呼び売上好調。地元飲食店にとってコロナ禍中の慈雨になった。

中心市街地と郊外、小型店と大型店は役割分担の関係でもある。平時の棲み分けとたゆまぬ成長、そして有事の助け合い。持続可能性が課題のSDGsの時代、それぞれの特性を活かした共生の発想が大切だ。老舗、クラフト系の新店や個性的な飲食店が織りなす街並みの土台にそうした気風があると思うと興味が尽きない。

図4.「蔵のある街」中町の街並み(出所)令和元年4月8日に筆者撮影

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融