このページの本文へ移動

各地の話題/「ファイナンス」令和3年4月号

八戸市

これからも海とともに~八戸

函館税関八戸税関支署 統括審査官 柳澤 貴幸

1.八戸市の概要

八戸税関支署が所在する八戸市は、青森県南東部の太平洋岸に位置し、県内2位の人口(約22.5万人)を擁する中核市です。東北新幹線や、本年中に全線開通予定の三陸沿岸道路(仙台~八戸、通称「復興道路」)といった陸上交通網に加え、重要港湾である八戸港は、北海道との間に1日5往復の定期フェリーが行き交い、国際定期コンテナ航路が週5便就航するなど北東北における海上交通の拠点でもあります。

気候は、海からの東風(ヤマセ)の影響により夏は比較的涼しく、冬も降雪量が少なく晴天が続きます。市内には500か所近い遺跡が存在しており、古くから人が住みやすい土地柄であったことが窺えます。

2.八戸港の発展

八戸港はかつて「鮫浦」と呼ばれ、江戸時代には東廻り航路の寄港地の一つでした。明治時代に入ると、地元で港湾整備の機運が高まり、大正時代には漁港として整備が進められます。その後、港湾後背地で石灰石や硫化鉄鉱の採掘が盛んになると、それらの積出地として八戸港を利用しようとの動きが活発化しました。

昭和になって漁港の整備が終了すると、八戸港を商港・工業港として発展させるべく多くの港湾拡張計画が策定されました。さらに貿易港としての開港指定を求める運動も非常に熱心に行われ、昭和14(1939年)3月、八戸港は開港となりました。八戸税関支署はこの時に設置されます。管轄区域は青森県と岩手県にまたがっており、全国に68か所ある税関支署のうち複数の県を管轄する支署は9か所しかありません。東日本では八戸が唯一の支署となります。

貿易港としての八戸港は、開港後すぐに戦争の影響で停滞を余儀なくされました。港湾整備も物資や資金不足のため思うように進まず、一時は貿易港としての閉港も検討されていたようです。しかし、港の発展にかける地元の意気込みは変わらず、徐々に困難を乗り越えていきます。昭和31(1956)年に馬淵川改修工事が竣工すると、新たに造成された臨海地域に発電所や金属精錬の工場が建設され、昭和39(1964)年には八戸市が新産業都市の指定を受けます。港湾施設も拡張が進められ、この頃から外国貿易船の入港隻数も増加に転じました。

現在では、臨海部に金属精錬、造船、製紙といった工場が集まって工業地帯を形成するとともに、LNGやバイオマスによる電力・エネルギー供給基地として、北東北の畜産を支える飼料供給基地として八戸港は機能しています。昨年の貿易額は速報値ベースで約2,300億円でした。これは県内ではトップの実績であり、東北6県でも仙台塩釜港、小名浜港に続く第3位の実績です。

3.サメの由来は何?

話が少し固くなったので、話題を八戸の紹介に変えましょう。

当支署の最寄りにJR八戸線鮫駅があります。かつては港湾への物資を、今は通学する高校生を主に運んでいます。駅名=魚名というのは全国的にも珍しく、駅前には鮫のモニュメントが置かれています。八戸では「アブラザメ」の切り身がスーパーで売られており、港の旧名である「鮫浦」も「サメがたくさん採れたから?」と考えれば納得できますが、「沢」や「寒い」が転じたとの説もあって名前の由来ははっきりしません。

写真:JR鮫駅

4.蕪島(かぶしま)とウミネコ

鮫駅から10分ほど歩くと蕪島があります。島には永仁4(1269)年創建の蕪嶋神社があり、一帯はウミネコの繁殖地として天然記念物に指定されています。毎年2~8月にかけて約4万羽が集まり、神社へ参拝する際は空からの落下物に要注意です。ちなみに、ウミネコとカモメはよく似ていますが、ウミネコには、(1)嘴の先端に黒帯と赤班がある(カモメは黄色)、(2)目つきが鋭い(カモメは黒目)、(3)足が鮮やかな黄色といった特徴があります。

写真:蕪嶋神社とウミネコ

5.八戸キャニオン

八戸港の主要積出品であった石灰石は現在も主力品の座を占め、石灰鉱山は今なお現役です。鉱山から約10km離れた港の積出専用岸壁と市内のセメント工場まで、採掘された石灰石は地下ベルトコンベアによって運ばれています。ここは国内でも珍しい露天掘りで、海面下にまで掘り進めたことから、採掘場は「八戸キャニオン」と呼ばれる独特の地形が形成されました。

写真:八戸石灰鉱山(八戸キャニオン)

6.駅名に潜む罠、八戸には市役所がない?

出張者から「ホテルは八戸駅前で」とよく言われます。新幹線も停車する八戸駅は、明治24(1891)年に尻内駅として開業し、昭和46(1971)年、八戸駅に改称されましたが、中心部から6km程離れています。市の中心部に近いのはJR八戸線「本八戸駅」で、以前はここが「八戸」駅でした。町に近いのは「ほんぱち」と覚えてください。

八戸では市役所を「市庁」と呼びます。広報誌にも「市庁/本庁」の表記があり、公式なもののようです。理由は「青森県庁に対抗」との噂を耳にしましたが、公式な資料では確認できません…。もっとも、津軽vs南部の対立意識については青森県のHPでも紹介されており、「青森といえば何?」と聞けば、結果は津軽のものばかり(りんご、雪、ねぶた祭、三内丸山遺跡、津軽弁、…)に終わることが多く、複雑な思いがあるのかもしれません。

写真:八戸市庁、市役所ではありません

7.青森の国宝は八戸にあり!

青森県には国宝が3つありますが、それらは全て八戸にあります。

1つ目は「合掌土偶」で、約3,500年前の縄文時代の住居跡から発掘されました。顔料やアスファルトによる補修跡が残っており、当時の風俗を知るうえで価値が高いと評価されています。市内の遺跡からは、木製品や漆を使った製品なども多数出土しています。

残る2つは櫛引八幡宮所蔵の「赤糸威鎧(あかいとおどしよろい)」と「白糸威褄取鎧(しろいとおどしつまどりよろい)」です。前者は鎌倉時代の、後者は南北朝時代のもので、装飾性の高さや保存状態のよさは一見の価値ありです。

写真:国宝「合掌土偶」(八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館所蔵)
写真:国宝「赤糸威鎧」(櫛引八幡宮所蔵)
写真:国宝「白糸威褄取鎧」(櫛引八幡宮所蔵)

8.三社大祭とえんぶり

夏の八戸を彩るのは三社大祭です。享保6(1721)年以来約300年の歴史を持ち、大型で仕掛けを凝らした豪華な山車が市内中心部を運行します。祭りが近付くとお囃子の練習をする子どもの声があちこちから聞こえ、本祭の8月1日を休業とする会社もあります。

えんぶりは毎年2月17日から行われる豊作を祈念した行事です。長さ60cm近い特徴のある烏帽子を被り、農具由来の棒などを持って舞います。舞うことを「摺(す)る」と言いますが、朳(えぶり)という農具で田をならすことを「摺る」と言ったことに由来します。

いずれもコロナで中止となってしまったのは残念でなりません。

写真:八戸三社大祭
写真:えんぶり

9.ご当地グルメは八戸のおかげ

市内のスーパーには必ず「南部せんべい」売場があります。これを鍋物の具材とする「せんべい汁」は、江戸時代以降200年余りの歴史を持つ郷土料理で、ご当地グルメとしても有名です。そのきっかけでもあるB-1グランプリは、平成18(2006)年に八戸市の団体が企画し、八戸で第1回大会が開催されました。優勝は富士宮やきそばに譲りましたが、ご当地グルメの存在感を高めた功績は無視できないものでしょう。

写真:せんべい汁

10.漁港として~イカ日本一は譲りません

八戸は、昭和に4回、平成に2回の計6回水揚げ量日本一になった漁業の町でもあります。特にイカの水揚げ量は長く日本一の座を占めており、その他にも「八戸前沖サバ」といったブランド化にも積極的に取り組んでいます。また、漁港のある館鼻岸壁で3~12月の日曜日に開催される朝市は、300店以上が軒を連ねて全国でも有数の規模を誇ります。

写真:館鼻岸壁朝市

11.おわりに

駆け足で八戸を紹介してきましたが、紙幅も尽きてきました。

八戸は海とともに発展してきたと言われています。10年前の東日本大震災では甚大な被害を受けましたが、約2年半後には東北地方の港でいち早く完全復旧を果たすなど、港に対する思いは並々ならぬものがあります。税関も港に関係する官庁として、その発展に力添えできればと考えております。

写真:八戸は海と共にある

【写真提供】
八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館
櫛引八幡宮
一般財団法人VISIT八戸


今帰仁村

ぬーんねんしが今帰仁村

沖縄地区税関税関広報広聴官 主任 我那覇 勇

1.はじめに

沖縄本島の北部、名護市の北西に位置する今帰仁村(なきじんそん)。この村の観光ポスターのコピーが「ぬーんねんしが今帰仁村」です。標準語にすると「何もないが今帰仁村」という意味になります。一見すると自虐的にも感じるコピーですが、ポスターの解説には「この村には、ショッピングモールもファミレスも大型娯楽施設もありません。だからこそ、手つかずの大自然や昔ながらの風景が残っています。何もないけど満たされる。それが今帰仁です」とありました。

写真:観光ポスター「ぬーんねんしが今帰仁村」

急速なグローバル化、IT化が進み、速くて便利こそが誉れとされがちな現代社会においては、この村で感じる不便さこそが人間本来の住みやすさということかもしれません。琉球王朝時代からの歴史文化と、緑が生い茂る山々や透明度の高い海などの大自然、この村にはそれこそ心が癒される魅力がいっぱいです。

また、この村にある運天港は、かつては開港に指定され税関出張所も存在しました。

歴史と自然が融合する村、今帰仁村をご紹介します。

2.村の概要

今帰仁村は沖縄本島北部、本部半島の北東部に位置していて、那覇市からは北に約85km、東南には名護市、西には本部町、北は東シナ海に面していて北東約1.5kmには古宇利島があります。

村の南側は、乙羽岳(おっぱだけ)(標高約275m)を中心に山並みが東西に延びていて、その山麓から北及び東に向かって緩傾斜地となり平坦地が広がっています。村の面積は39.87km2で、那覇市(41.42km2)より若干小さい面積となっています。人口は9,345人(H31.3現在)で、ここ10年ほどは横ばい状態が続いています。

主な産業は果実や生花栽培などの農業が中心ですが、子牛生産や養豚などの畜産業、ウニ漁やモズク生産などの水産業も行われています。また泡盛の酒造所も1社あります。

3.三山時代からの歴史

今から600~700年ほど前の琉球王朝時代の沖縄は、北山・中山・南山の三山に分かれてそれぞれに王が存在し地域を治めていました。北山王は今帰仁に城を構え(今帰仁城)、本島北部(山原)一帯を支配下に治め、明国(現在の中国)との貿易も行っていました。このころの今帰仁はいわゆる城下町として、北部地区の政治、行政、また物流の拠点として栄えていたと考えます。

その後三山統一の争いが勃発し、1422年北山王は中山王(尚巴志)に敗れ、北山が消滅してしまいます。そして統一王となった尚巴志は北部方面で反乱がおきるのを防ぐため、北山に監守制度を設け、監守を今帰仁城に配置します。その後1665年に監守が首里に引き揚げたのを機に、今帰仁城は政治の場から祭祀の場へと変ってゆきました。

写真:琉球王朝時代の国王と王妃(首里城祭より)

4.世界遺産、今帰仁城跡

2002年に世界遺産に登録された今帰仁城跡は、歴史的背景からもまさに村のシンボルとなっています。広さは8haで首里城とほぼ同じ大きさとなっていて、城跡の全体を蛇行しながら取り囲む石垣の城壁(全長1.5km)は、曲線がまるで万里の長城(中国)を彷彿するような美しさを見せています。

平郎門(本門)から主郭(本丸)へと延びる約100mの石段脇には、昭和40年代に村民により百本以上の桜が植樹されており、開花する1~2月には毎年桜祭りが開催され、県内のみならず国内外からも数多くの観光客が訪れ賑わいを見せます。

写真:今帰仁城跡の桜祭り(1~2月)

5.運天港の歴史

村の東側に位置する運天港の歴史は古く、12世紀ごろに源為朝が伊豆大島から逃げてくる最中に暴風雨に遭い、「運を天に任せて」たどり着いたのがこの港で、それが運天の名前の由来とも言われています。

三山時代には明国との貿易の港として使われ、進貢船規模の大型船も入港していました。その後1609年の薩摩藩が琉球侵攻の際攻め入ったのも運天港からとされていて、その際には70~80隻の船団が運天港及び隣の古宇利島、羽地内海付近を埋め尽くしたと言われています。さらに日本が鎖国時代の1816年にはイギリス海軍のバジル・ホールが、1846年にはフランスの艦船三隻が来航した話もあるほか、アメリカ合衆国艦隊のマシュー・ペリーも運天港に来航したとされるなど、琉球及び日本の歴史にも影響を与えた港となっています。

また、運天港には今帰仁の番所(役場)も置かれていて行政の中心となった場所でした。その後1916年(大正5年)に番所は運天港から現在も役場のある仲宗根地区に移り行政の中心もまた変わりました。

写真:運天港全景。手前は羽地内海、奥は古宇利島。

1975年(昭和50年)沖縄の本土復帰に際し、運天港は開港及び沖縄県から重要港湾として指定されていて、同年に開催された沖縄国際海洋博覧会当時は、博覧会の建設資材の輸入や来客輸送などに活用されました。

現在は、近隣離島の伊是名島、伊平屋島へ毎日各2便の定期航路便が就航しているほか、荒天時の避難港として使用されています。

6.沖縄地区税関運天出張所

運天港における税関官署は1955年(昭和30年)に琉球税関運天監視署が発足されたのが始まりです。同年開港にも指定され、当時外国扱いだった奄美群島と家畜の貿易も盛んだったことから、監視取締業務だけではなく通関業務も処理していました。

その後、北部に大規模なパイン加工産業が出来、その製品の輸出原料糖の減免税、加工工場の管理を行うため、1959年(昭和34年)に名護市に名護出張所が設置され、運天監視署は吸収され消滅してしまいます。(その後1964年名護出張所は名護支署へ昇格)

1972年(昭和47年)本土復帰に伴い沖縄地区税関が発足。琉球税関名護支署は沖縄地区税関コザ税関支署名護出張所として新たに発足します。(その後1974年コザ税関支署は沖縄税関支署に名称変更)

そして1975年(昭和50年)、名護出張所が廃止されるに伴い、運天港に沖縄地区税関としては初の運天出張所が設置されました。

これは同年沖縄国際海洋博覧会が開催されることに伴い、運天港の出入港船舶の増加及び観光戻税確認業務が急増することを予想し対処したものでした。

海洋博終了後には入出港船舶、輸出入実績も減少し、1979年(昭和54年)に運天港は不開港となり、運天出張所も非常駐官署となります。そして1989年(平成元年)に運天出張所は廃止されました。

写真:運天出張所の看板をかける初代所長(S.50)

7.島のブランド今帰仁スイカ

沖縄県内で「スイカの名産地と言えば」と尋ねると、ほとんどの人が「今帰仁村」と答えると思います。それくらい今帰仁産のスイカは有名で味も抜群です。「スイカは夏」という概念を壊して、今帰仁スイカは12月初旬から出荷され、クリスマスや年末の贈答用として冬から出回ります。もちろんピークの夏の9月ごろまで出荷されますので、ほぼ一年中食べることができます。糖度は11度以上で、甘くシャリシャリとした食感が自慢です。

8.恋人たちの古宇利島

古宇利島(こうりじま)は、村の北東の海上に位置する小さな島です。島の外周は約8kmで、車で30分もあれば島を一周できます。2005年には本島と橋でつながる屋我地島との間に「古宇利大橋」(1,960m)が開通し、車で行ける離島となりました。

写真:古宇利大橋を渡って古宇利島へ(^^♪

島の周りは県内でも屈指のエメラルドブルーの海で、マリンレジャーを楽しむほか美味しい海産物も豊富に食べることが出来て県民はもちろん観光客にも大人気の島です。

また古宇利島の語源は「恋島(くいしま)」と言われていて、島の海岸には「ハートロック」と呼ばれるハート型の岩もあり、カップル達のインスタ映えスポットとしても有名です。

写真:インスタ映えスポット ハートロック

9.おわりに

沖縄での桜開花は本土とは違い、不思議と北部方面から咲き始め南下していきます。ご存じのように沖縄は全国一早い桜開花が常となっていることから、紹介した今帰仁城跡の桜まつりは「全国一早い桜まつり」ということになると思います。日本人は桜、そして何より「一番」が大好きです。この二つを同時に堪能できるだけでも、今帰仁村に来る価値、住む価値はあると思いませんか。もちろんそれだけではなく、ここには琉球の繁栄を感じる凛とした城跡、県内の中でも抜きんでた海洋自然、誰もが認めるブランド果実等、「一番」を実感できるものが数多くあります。

冒頭説明した「ぬーんねんしが今帰仁村」。この村に来れば、ショッピングモール、ファミレス、大型娯楽施設、何一つ必要がないことを実感できます。

【参考文献】
・沖縄県今帰仁村ホームページ
・一般社団法人今帰仁村観光協会ホームページ
・nakijin guide book(今帰仁村役場経済課商工観光係発行)
・世界遺産今帰仁城跡パンフレット(今帰仁城跡管理事務所他発行)
・沖縄地区税関二十年史

【画像提供】(今帰仁村観光ポスター)
・一般社団法人今帰仁村観光協会