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ファイナンスライブラリー:辻田 真佐憲 著『古関裕而の昭和史~国民を背負った作曲家』

文春新書 2020年3月 定価 本体950円+税

評者 渡部 晶

本書の著者の辻田氏は、1984年、大阪府生まれの評論家・近現代史研究者である。慶應義塾大学文学部を卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。「たのしいプロパガンダ」(2015年)、「大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争」(2016年)、「新プロパガンダ論」(2021年 西田亮介氏との共著)などの著作がある。

先日死去された「歴史探偵」半藤一利氏に「直接会ったことで感化された」と語っている辻田氏には、半藤氏の問題意識(「今を生きる人と昭和史のあいだに橋を架ける仕事を俺はしているんだ」(『橋をつくる人』(2019年)))と通じるものを感じる。本書の帯の表には、「軍歌から『六甲おろし』『オリンピック・マーチ』まで日本人の欲望に応え続けたヒットメーカー」、「連続テレビ小説『エール』のモデルになった80年の生涯」とあり、本書では、「人間性についての実証」(亀井勝一郎)を目指そうとし、そして、「個々の作品を紹介するのみならず、生誕地である福島市の歴史をはじめ、レコードの製造法や業界事情などの解説にも多くの紙幅を費やした。結果的に、古関を通じて昭和史をたどれる内容になったのではないかと考えている」とする。

本書の構成は、第1章 好きになったら一直線(1909~1930年)、第2章 ヒットを求めて四苦八苦(1930~1936年)、第3章 急転直下、軍歌の覇王に(1937~1941年)、第4章 戦時下最大のヒットメーカー(1941~1945年)、第5章 花開く大衆音楽のよろず屋(1945~1973年)、第6章 経済大国の大門を叩く(1952~1989年)となっている。

第1章で、当時の福島町が東北の生糸流通の中心であり、そのため、東北初となる日本銀行の店舗が置かれた(評者注1899(明治32)年福島出張所開設)ことが指摘される。なお、古関の自伝は正しくない記述が散見されるため、言動のひとつひとつについて、さまざまな検証を行い、定説の刷新を試みたという。第2章では、古関がヒット曲にめぐまれない雌伏の時期を描くが、この間に、日本の音楽産業はレコードを中心に勃興し、特に古関は、1932年の満州事変で初めての軍歌を作曲したことがわかる。

第3章は、冒頭、「露営の歌」にまつわる叙述で始まる。『大阪毎日新聞』、『東京日日新聞』が共同で募集した「進軍の歌」の歌詞のうち、佳作第一席(二等当選)の、「勝つて来るぞと、勇ましく/誓つて故郷(くに)を出たからは」ではじまるこの詞(薮内喜一郎作(当時京都市役所の臨時職員、33歳。のち福島民友新聞社編集局長))に曲を付けたのが、依頼もない前の偶然であったということにはびっくりした。ちなみに、一等当選の詞は、大蔵省会計課に勤務する本多信寿の作で、1000円もの賞金を手にしたという。「進軍の歌」と「露営の歌」がカップリングされて1937年8月26日に臨時発売され、レコードの初動は思わしくなかったが、10月16日付毎日新聞で、「露営の歌」が前線の負傷兵に愛唱されているという記事をきっかけに在庫が動き始めたそうだ。また、1940年3月に出された「暁に祈る」にもみられるように「哀調で大衆の心を摑む」ことになったことが生き生きと記される。第4章では、沖縄出身の歌手波平暁男が歌った「若鷺の歌」の誕生の経緯を描き、著者が発掘したレコード売り上げ記録から、戦時下最大のヒットメーカーになったことが記される。第5章は、「君の名は」などでの戦後の大活躍を描く。第6章は、朝ドラでの最大の到達点となった1964年の「オリンピック・マーチ」のエピソードなどが叙述される。

福島県は、伝統的に音楽教育が盛んだ。古関裕而記念館ができたのは1988年になってのことだが、評者がその昔卒業した福島市立福島第3小学校の校歌が古関の作曲であったことをあらためて認識した。明るい流麗な校歌である。また、その小学校の運動会でよく練習した軽快な「わらじ音頭」も古関のものであった。芸術志向と商業主義のねじれ、そして、ノンポリゆえにかえってどんな政治的音楽でも自由自在に作れるというねじれ、により、「その5000曲ともいわれる作品群は、帝国主義と平和主義、国粋主義と国際協調、減私奉公と個人主義などのあいだで激しく揺れ動いた昭和日本の写し鏡となったのであり、あたかも昭和史のミクロコスモス(小宇宙)のごとく広大無辺となった」という。「国民を背負った作曲家」という本書の副題の意味の深さをかみしめたい。