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各地の話題/「ファイナンス」令和3年2月号

水戸

「一張一弛(いっちょういっし)」~梅香る県都 水戸~

水戸税務署 総務課長 奥田 拓也

1.はじめに

水戸税務署は、明治29年に設置され、昭和43年に現庁舎が新築された後、東日本大震災を潜り抜け現在に至っています。管轄は茨城県の県都である水戸市のほか、笠間市、小美玉(おみたま)市、東茨城郡(茨城町、大洗町、城里(しろさと)町)を合わせた3市3町で、管内面積は約910km2、管内人口は約46万人となっています。

東京から約100km、茨城県のほぼ中央、関東平野の北東端に位置し、北は那珂川沿いから南は霞ヶ浦、東は太平洋、西は栃木県に隣接しており、管轄は広範囲となっています。

2.県都のまち 水戸

古代から海や川の水の出入口を「みと」又は「みなと」といい、那珂川と桜川・千波湖との間に突出した大地の地形上の特色により「みと」と呼ばれていたようです。

いつから「水戸」という特定の地名になったのかは、はっきりとしないようですが、1400年頃のものと推定される「吉田薬王院文書」には、「水戸」という記述が残されています。

明治維新の後、廃藩置県が行われ、「水戸県」となり、明治22年4月に市制度が施行され、現在の「水戸市」が誕生しました。

3.お茶の間でもおなじみ

水戸城は、大規模空襲により焼失してしまいましたが、平安時代に平家一門の馬場資幹(すけもと)が水戸台地に館を構えたのが始まりとされています。

その後、水戸城の主は変遷を重ね、徳川の世になり家康公の11男である徳川頼房が水戸城主となったことで、御三家水戸徳川家が始まりました。

そして、お茶の間でおなじみ「先の副将軍、水戸光圀公」は水戸徳川家2代目の藩主として水戸徳川家の礎を築き、9代目藩主斉昭公とともに名君として称えられています。光圀公は貧しい農民の救済など様々な政策を実施しましたが、その中でも最大の仕事は「大日本史の編さん」と言われています。

光圀公の日本の歴史書を作りたいという強い思いから始まった事業は、完成までに250年という長い年月をかけた一大事業となりました。

なお、諸国漫遊の「水戸黄門」は明治時代に作られた物語が広まったもので事実ではありませんが、大日本史編さんのために活躍した「佐々木介三郎」と「安積覚兵衛」が「助さん・格さん」のモデルと言われ、光圀公自身もしばしば藩内を見て回っており、水戸黄門漫遊記はこうした逸話を受けて作られたようです。

写真:水戸光圀と助さん格さん

4.偕に楽しむ公園

金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに日本三名園のひとつに数えられる「偕楽園」。江戸時代天保13(1842)年7月、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭公により、「民と偕(とも)に楽しむ場にしたい」という願いを込め開園された公園であり、広く領民にも開放された点で近代公園の先駆けと言われています。

広さ約13万m2の園内には、約100種3,000本の梅が植えられ、かぐわしい香りが早春を告げます。

梅の名所として2月下旬からの「梅まつり」が注目されますが、春には「桜」、初夏には真っ赤に色づく「つつじ」、真夏には鮮やかな緑が美しい「孟宗竹林」、秋には可憐な「萩の花」や「もみじ」、初冬には「二季咲桜」など、1年を通して四季折々の草花が来園者を迎えます。

そのほか園内には、斉昭公が自ら設計したと言われる木造2層3階建ての好文亭(昭和33年復元)があり、家臣や領民を集め、詩歌や養老の会を催していたそうです。

そして、好文亭の3階から眼下に広がる偕楽園や千波湖を眺めると、ちょっとしたお殿様気分を味わうことができます。

ちなみに「好文」とは梅の異名で、「学問に親しめば梅が咲き、学問を廃すれば咲かなかった」という故事に基づいて名付けられました。

写真:好文亭より偕楽園及び千波湖

5.江戸時代の総合大学

平成27年4月に日本遺産に認定された「弘道館」は、「日本三大藩校のひとつ」とされ、偕楽園の開園の1年前、天保12(1841)年に、同じく斉昭公によって開かれた水戸藩の藩校です。

建設に当たっては、財政難により反対意見もありましたが、「財政難の今だからこそ、人材育成のために教育を重視すべき」と水戸城内に建設を決め、そのために家臣の住居を移転までさせたそうで、このことからも人材教育に対する斉昭公の並々ならぬ思いが伝わってきます。

当時としては最大級の藩校で、文武両道を重視し、武芸はもとより、儒学・歴史学・医学・薬学・天文学など、地方にいながら幅広い分野を学ばせるいわば総合大学というべきもので、明治5年に閉館するまで水戸学発展の中心となりました。

江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜も5歳から11歳まで弘道館において教育を受けています。

写真:弘道館(正庁)と扁額「游於藝」

弘道館と偕楽園は「一張一弛」の関係になっています。これは二つの関係を弓で例えたもので「弓を張ったり弛めたりすること」を意味しており、弘道館は「一張」で勉励を、偕楽園は「一弛」で休息を表しています。この斉昭公の素敵な教えは、現代にも通じるものがあり感慨深いものがあります。

弘道館の目の前には、令和2年2月に復元された、高さ13mを超える木造2階建ての「水戸城大手門」が威風堂々とした佇まいを見せており、弘道館と併せてご覧いただき、幕末から明治にかけての激動の時代を駆け抜けた水戸藩士へ思いを馳せてはいかがでしょうか。

写真:水戸城大手門

6.笠間のおいなりさん

笠間市にある「笠間稲荷神社」は「日本三大稲荷のひとつ(諸説ありますが…)」とされ、生命の根源を司る「いのち」の神である「宇迦之(うかの)御魂(みたまの)神(かみ)」を御祭神とし、あらゆる殖産興業の守護神として、また、火防(ひぶせ)の神様として信仰されており、年間で350万人が訪れるスポットとなっています。

社伝によれば、創建は白雉(はくち)2(651)年と伝えられており、1300年を超える歴史を刻んでいます。

本殿は、江戸時代の末期安政・万延年間(1854~1860)に再建されたもので、昭和63年に国の重要文化財に指定されています。

毎年10月中旬から11月下旬にかけては、笠間稲荷神社をメイン会場とした「笠間の菊まつり」が開催されます。今回で113回目を迎え、日本最古の菊まつりと言われ、艶やかな菊の花約1万鉢が咲き誇り、多くの観光客で賑わいを見せます。

写真:笠間稲荷神社

7.水戸のソウルフード&ねばねば

水戸には「スタミナラーメン」と呼ばれるソウルフードがあります。

昭和50年代に誕生したこのラーメンは、冷水でキュッと締めたモチモチ太麺に、ざく切りしたキャベツとカボチャ、ニンジン、ニラと豚レバーが入った甘辛の熱々あんをたっぷりのせた、他にはないユニークなラーメンで、通称「スタミナ冷やし」と呼ばれ、市内でも多くの店舗が提供しています。

「かしら」ともいわれるピリッと一味が効いた特製あんは、太麺との相性抜群で一度食べたら癖になること間違いなしです。

2玉・3玉と麺量を増やせば、腹ペコさんの胃袋も大満足間違いなし。スープありの通称「ホット」もありますので、お好みでどうぞ。

写真:スタミナラーメン(冷やし)

また、ねばねばの納豆も欠かせません。

水戸納豆の歴史は古く、1080年代に源義家が奥州に向かう途中に水戸の地に宿泊した際、馬の飼料である煮豆の残りから納豆ができ、それが広まったと言われています。

元々農家が自家製の納豆を食べていましたが、明治時代に入り水戸の笹沼清左衛門(せいざえもん)が、幾度の失敗を繰り返しながらも製造技術を確立、商品化に成功し、水戸駅のホームでお土産として販売したところ、観光客に大人気となり、全国に広まっていきました。

納豆オムレツ、納豆から揚げのほか、とんかつやカレーライスへのトッピングなどなど、料理のバリエーションも豊富で毎日食べても飽きません。

栄養も豊富で体に優しいスーパーフードです。

ぜひ、本場の水戸で納豆料理に舌鼓を打ってください。

8.おわりに

今回は、管内のほんの一部をご紹介しましたが、そのほかにも日本一のサメの飼育種類数を誇る水族館「アクアワールド大洗」やアニメの聖地などマニアには堪らないコアなスポット、冬のあんこう鍋などの絶品グルメ、一球入魂・学生野球の父である飛田穂洲(とびたすいしゅう)の生誕地など、魅力満載!

小美玉市にある茨城空港は、新千歳・神戸・福岡・那覇の各空港と定期路線を結んでおり、遠方の方でもあっという間にお越しいただけます。

コロナ禍が終息した暁には…
いいどご、いっぺぇあんだからよぉ、いばらぎさ来たらがっぺよ!待ってっかんね!!
(訳:いいところがたくさんありますので、ぜひいばらきにお越しください!お待ちしております!!)

(写真提供:茨城県)


宇都宮

キーワードは「愉快」~愉快なまち 宇都宮~

宇都宮税務署 総務課長 二瓶 佳穂

1.はじめに

宇都宮税務署は明治29年に設置され、3度の移転を経て現在に至りました。

栃木県の県庁所在地署であり、管轄地域は、宇都宮市、上三川町の1市1町です。

栃木県のほぼ中央に位置しており、西に遠く日光連山を背負い、中央北西部に丘陵性山地が分布しますが、大部分は関東平野の北部にあたる平坦地です。

気候は、夏暑く、冬場の冷え込みが厳しいことが特徴ですが、夏場に雷が多発する事で雷都と呼ばれることもあります。

2.都会&田舎の「とかいなか」

茨城県・栃木県・群馬県の3県によって構成される北関東地方の中で、唯一の50万人都市である宇都宮市は、恵まれた立地条件や交通条件、各種都市機能の集積などにより、首都圏の北の拠点として発展を続けています。

一方で、郊外に出ればのどかな田園風景が広がっており、都会の利便性と豊かな自然が共存する、暮らしやすい「とかいなか」です。

上三川町は鬼怒川など3つの川に囲まれた自然豊かな水辺の町です。3ヘクタールの畑に10万本のひまわりの花が咲き誇るサンフラワー祭りは毎年多くの人でにぎわいます。肥沃な大地に囲まれ、かんぴょうの産地として知られる一方、個性的な企業の工場もあり、コンパクトに暮らしやすい町として注目されています。

3.宇都宮の歴史

宇都宮の歴史は古く、その昔、蝦夷平定のため、初めてこの地に足を踏み入れた豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が開祖といわれており、これを祀った二荒山神社の門前町として栄え、池沼が多いことから「池辺郷」とも呼ばれていました。

「宇都宮」の地名は、藤原宗円が二荒山神社の社号「宇都宮」を氏とし、鎌倉幕府の中枢にあって、治政をあげたことに由来するといわれています。

写真:二荒山神社 冬渡祭(おたりや)

江戸時代には城下町として栄え、参勤交代や日光東照宮の造営などにより往来も多く、「小江戸」と呼ばれるほど繁栄しました。

明治17年に栃木県庁が置かれ、同22年に町制、同29年に市制が施行されました。以後、県内の政治経済の中心となり、また、14師団が置かれて軍都としても有名となりました。

昭和20年の空襲では市街地の大半を焼失しましたが、いち早く戦災復興土地区画整理を進め、全国でもまれにみる復興をとげました。

4.「愉快」がキーワード

宇都宮らしさを表現するブランドメッセージとして「住めば愉快だ宇都宮」があります。これをアレンジし、「食べて愉快だ宇都宮」といったように「○○○愉快だ宇都宮」と○○○にいろいろな言葉を当てはめた、「愉快」をキーワードにした多数の表示が宇都宮市内にはあります。

5.百人一首ゆかりの地

宇都宮から京都へ移り住んだ五代城主宇都宮頼綱(出家して蓮生入道と名乗る。)が、藤原定家と親しく交際していた関係で、藤原定家の息子(為家)と蓮生入道の娘が結婚し、親戚関係となりました。

当時は、ふすまに和歌を書いた色紙を貼ることが流行であったことから、蓮生入道は藤原定家に対し、昔からの名歌の中より百首を選定し、さらに洗筆した色紙和歌のプレゼントを頼みました。この色紙和歌が、百人一首の原型とのことです。

頼綱を始めとする当時の宇都宮一族は、和歌への造詣が深く、宇都宮は京都、鎌倉と並び、全国三歌壇の一つと称されています。

宇都宮市は、百人一首の競技会を開催し、市の町興しの事業として取り組んでいます。

6.魅力たっぷり宇都宮

(1)餃子のまち

宇都宮の餃子は、焼、揚、水などの種類があり、店舗によって大きさや素材、皮の厚さや熟成度、包む具合やはねの大きさ、つけダレなどが異なり、様々な種類を楽しむことができます。宮っ子は、週に数回餃子を食べるのがスタンダードで、総務省の家計調査で1世帯当たりの年間購入額で常に日本一を競っています。市内の餃子店をはしごして、お気に入りの餃子を見つけてみませんか。

写真:餃子通りもある

(2)カクテルのまち

昭和62年から平成2年にかけて「全国バーテンダー技能競技大会」で宇都宮のバーテンダーが4年連続総合優勝をしたことから、国内トップクラスのバーテンダーが集まる街として注目を浴びました。バーテンダーのレベルは銀座に次ぐほどと言われています。

国内屈指の実力派バーテンダーから提供されるオリジナルカクテルを堪能してみてはいかがですか。

写真:カクテル(とちおとめ2020)

(3)ジャズのあるまち

世界で活躍する「渡辺貞夫氏」や「高内春彦氏」など著名なジャズプレイヤーを輩出しており、ジャズスポットも多数点在しています。官民あげてジャズによる街づくりに取り組み、市内のイベントだけでなく、あちこちでジャズの音色を聞くことができます。

カクテルを片手にジャズの音色に酔いしれてみませんか。

(4)自転車のまち

毎年10月にアジア最高位の自転車ロードレース「ジャパンカップサイクルロードレース」が開催されています。

また、地域密着型のプロチーム「宇都宮ブリッツェン」の活動拠点でもあります。

市内のレンタサイクル店も充実しているので、誰でも気軽にサイクリングが楽しめます。

写真:ジャパンカップ

7.石の里「大谷」

宇都宮の特産物のひとつとして知られる大谷石は2000万年前の火山活動でできた凝灰石で、軽くて軟らかく加工しやすいことから、古くから、蔵や塀の石材として使用されています。

大谷には、大谷石の岩壁に手彫りで造られた「平和観音」や日本最古の石仏「大谷観音」など、ご利益スポットが目白押しです。地下に広がる採掘場跡「大谷資料館」はドラマやPVのロケ地にもなっています。

8.次世代型路面電車「LRT」

令和4年3月の開業に向け、市の東西をつなぐ「LRT」の工事が進んでいます。

「LRT」は、従来の路面電車と違い、高いデザイン性を備え、騒音や振動が少なく、快適な乗り心地の人と環境にやさしい乗り物です。

「交通未来都市うつのみや」を目指し、100年先も誇れる次の宇都宮のため、工事中です。

写真:走行するLRTのイメージ

9.おわりに

今回、ご紹介できませんでしたが、街なかで開催される多くのイベントもあり、「餃子祭り」や「FIBA3×3ワールドツアー」というバスケットボールの国際大会も有名です。

コロナ禍で多くのイベントが中止となっており残念ですが、宇都宮は愉快な街です。

栃木弁も聞こえる「歩けば愉快だ宇都宮」へぜひお越しください。

(写真提供:宇都宮市、宇都宮観光コンベンション協会)


長岡

人を育み 味を醸す~復興のまち 長岡~

長岡税務署 総務課長 浅間 智美

1.はじめに

長岡税務署は、新潟県の中越地方に位置し、長岡市と出雲崎町を管轄しています。長岡市は江戸時代から越後長岡藩の城下町として栄え、出雲崎町は江戸時代に幕府直轄の天領地となり、北前船の寄港地、佐渡金山からの荷揚場として栄えてきました。

夏は盆地から生じる高温多湿、冬は低気圧による豪雪に見舞われますが、市街地には「雁木(がんぎ)」や消雪パイプが設置され、雪除けのみならず夏季の日差しや照り返し除けなど、古くからの生活の知恵で季節を乗り越えてきました。

2.最後のサムライ河井継之助ゆかりの地

幕末の動乱に揺れた戊辰戦争。会津藩を救済するために「奥羽越列藩同盟」が結成され、河井継之助率いる長岡藩もこの同盟に加入し、新政府軍と「北越戊辰戦争」を戦うことになります。

新政府軍2万に対し、長岡藩を中心とする奥羽越列藩同盟軍は5千と、戦力の差は戦う前から明らかでした。継之助は非戦を訴えましたが、新政府軍への説得は決裂し開戦することになります。圧倒的な劣勢の中、当時日本に三門しかなかったというガトリング砲などで応戦しますが、長岡城は落城します。

42歳の生涯を閉じた継之助の人生は、作家司馬遼太郎の小説「峠」などによって、広く知られることになりました。そして令和3年6月、この小説を原作とする映画「峠 最後のサムライ」が全国で公開される予定です。

写真:ゆかりの品約30点が展示されている河井継之助記念館

3.米百俵の精神

米百俵とは、明治3年、戊辰戦争で焼け野原となり、窮乏を極めていた長岡藩に、支藩の三根山藩から送られてきた百俵の米を、多くの藩士は飢えを凌ぐために使おうと考えましたが、長岡藩大参事の小林虎三郎は学校設立の資金に充てたという故事です。

分ければ数日間で使い切ってしまうが、人づくりに使えば、将来、何万俵にもなって戻ってくるというのがその理由でした。

今の痛みに耐え明日をよくするために、現在の日本に必要なのは、この「米百俵の精神」であると小泉純一郎元総理が所信表明演説の中で引用したことから全国に知れ渡りました。

写真:米百表の群像(千秋が原ふるさとの森)

4.山本五十六から学ぶ人材育成

山本五十六は、明治17年に旧長岡藩士、高野家の六男として生まれ、当時の父親の年齢から「五十六」と名付けられたといわれています。

五十六は、海軍の軍人で、太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官を務めました。そこで真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦をはじめとした歴史的にも有名な作戦を指揮したことでも有名ですが、アメリカと日本の実力差を熟知していたことから最後まで戦争に反対していたとも言われています。そんな五十六が生前、口にした数々の名言の中でも、特に有名なのが「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ。」の言葉です。

軍人として多くの部下を統率してきた経験があるからこそ身につけた「いかにして人を動かすか」のエッセンスが詰まった言葉であり、多くの指導者の格言として知られています。

写真:連合艦隊司令長官として活躍した山本五十六元帥の記念館

5.復興のシンボル長岡まつり大花火大会

日本三大花火大会の一つ長岡まつり大花火大会は、毎年100万人以上が訪れます。

昭和20年8月1日の空襲により、街の8割が焦土と化し、1,488名もの方々が犠牲となりました。

空襲の1年後の昭和21年8月1日に長岡まつりの前身である「長岡復興祭」が開催され、昭和23年には、8月1日を「戦災殉難者の慰霊の日」、8月2日・3日を「花火大会の日」として空襲で亡くなられた方々への慰霊、復興に尽力した先人への感謝、恒久平和の願いを込めた花火が打ち上げられています。

大花火大会を代表する花火と言えば、何と言っても「正三尺玉」であり、直径90cm、重さ300kgという巨大な玉が600m上空に打ち上げられ、直径650mにも広がります。

また、平成16年に中越地方に甚大な被害をもたらした中越地震からの復興を願って打ち上げられる花火が、圧巻の全長約2kmの超ワイドスターマイン「復興祈願花火フェニックス」です。

「フェニックス」という名称は、長岡市の市章で不撓不屈のシンボル「不死鳥」から命名されており、震災復興を祈願する花火として打ち上げられています。

写真:大迫力の復興祈願花火フェニックス

6.発酵・醸造のまち 長岡

長岡市は、新潟県内でも有数の米どころであり、古くから、この土地の美味しい米を使って、酒が仕込まれてきました。

日本酒の仕込みに欠かせないのは、きれいな水です。長岡の歴史の中で連綿とそれを支えてきたのは、毎年しんしんと降り積もる豪雪がもとの湧き水でした。さらに、冬の間は豪雪によって空気に雑菌が舞いにくい環境であることから、安定した条件の中で発酵・醸造の作業を行うことができています。

水も米も豊かで酒造りに適した長岡市には、名作漫画「夏子の酒」のモデルになった蔵元など16もの日本酒蔵があり、全国的にも有名な銘柄から生活に根ざした地産地消型のものまで、多種多様な銘柄が作られています。そして、長岡の酒の普及促進等のために長岡市では「日本酒で乾杯を推進する条例」が制定されています。

また、市の中心部からほど近いところに、味噌、醤油、日本酒の蔵元が集中して立地する「摂田屋(せったや)」という町があります。かつて江戸幕府の御領地として味噌や醤油造りが発達し、奇跡的に戦災も免れたこのエリアは、明治期から残る趣のある建築物も多数あり、発酵・醸造文化の歴史を肌で感じられる場所です。ただ製品を楽しむだけではなくぜひ訪れていただきたい場所です。

写真:日本酒蔵元数は新潟県内最多の16蔵を誇る
写真:醸造のまち 摂田屋の街並み

7.おわりに

長岡市では、米どころとして清酒造りの他に米菓の生産も盛んです。また、明治時代に石油が湧出したことに伴って機械産業が発達し、現在も精密機械や工作機械の企業が多くあります。

このほか、近年輸出が増加している錦鯉の養殖や、江戸時代から続く栃尾のあぶらげ(油揚げ)、三島手引き鋸、与板打刃物が伝統的な産業としてあります。

ぜひ、長岡市を訪れてみてはいかがでしょうか。お待ちしています。

〔参考文献〕
・一般社団法人長岡観光コンベンション協会ホームページ
・長岡市地方創生推進部ホームページ

〔写真提供〕
・公益社団法人新潟県観光協会
・長岡市観光・交流部
・一般社団法人長岡観光コンベンション協会