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路線価でひもとく街の歴史 第12回

「神奈川県小田原市」なりわいで見せる城下町の足跡

中世の城郭都市としての小田原

小田原は後北条氏5代の城下町である。大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害を受け、地震より前の建造物はほとんど残っていない。さりながら、城下町時代の町割や地形がよく残っており、往時を想像しながら街歩きを楽しむことができる。

城下町といえば江戸時代に開かれたものが多いが、小田原は戦国時代に遡る。初代早雲が入城したのが明応4年(1495)。2代氏綱の頃には町割の原型ができていた。東西を貫く東海道と南北を走る甲州道を軸とした区画の上に家臣の屋敷が配置され、職人や商人の町家が建ち並んでいた。小田原城下町は戦国末期、豊臣秀吉の小田原攻めに備え街全体を土塁や堀で囲んだ「総構」が特長だ。わが国には珍しい城郭都市である。約2km四方、(図1.小田原の総構(出所)国土地理院地図に大和総研が総構遺構、鉄道、道路等を加筆して作成)に示した総構のラインに沿って土塁や空堀が巡らされている。山側は尾根が天然の城壁になっている。南面は相模湾、東西は川が要害となっており、地形を活かした強固な構えだ。図の左上を頂点に連なる3本の尾根のうち真ん中が戦国時代の本城で、麓にあったのは城主の居館だった。今も山側には多くの空堀や土塁が残っており、戦国の山城好きにはたまらない見学コースである。

都市計画において道路と並ぶプラットフォームが水道だ。小田原はわが国で初めて水道が布設された都市としても知られている。街の西側を流れる早川から取水し、東海道に沿って城下町に引き込んでいた。小田原用水ないし早川上水という。天文14年(1545)の書物で言及されていることからそれ以前に布設されたことがうかがえる。

宿泊とその周辺産業による繁栄

城下町以前に小田原は天険で知られた箱根峠をのぞむ宿場町でもあった。江戸時代、街道に沿って付された町名(図2.小田原の中心街(出所)大和総研作成。なお街道沿いに付しているのは旧町名である)で言えば、参勤交代で大名が宿泊する本陣・脇本陣や庶民が利用する旅籠が欄干橋町から高梨町にかけて軒を連ねていた。清水金左衛門本陣その他3軒の本陣の跡に記念碑と案内板が立っている。

相模湾の漁場をのぞむ水産加工業の町でもあった。漁業が盛んになり市場ができ、干物、鰹節や蒲鉾製造業などの裾野産業に展開した。はじめは通年販売できるよう魚の保存を目的とした仲買人の副業だった。宿泊施設が軒を連ねた東海道の一筋海側の千度(せんと)小路を中心に、漁家や干物、鰹節や蒲鉾製造業が集積した。明治期にできた魚市場は早川の西側に移ったが、周辺には今でも蒲鉾製造業の老舗が多く残っており、「小田原かまぼこ通り」として観光名所になっている(図4.千度小路(小田原かまぼこ通り・魚がし山車小屋前))。小田原の伝統産業には水産加工業の他、小田原漆器や寄木細工のような伝統工芸品もある。宿泊客、今でいう交流人口を目当てに様々な周辺産業が発展した。

城下町は町割の基軸であった東海道及び甲州道に沿って賑わった。これは明治になっても変わらなかった。鉄道の時代になったが、東西の大動脈たる東海道本線は小田原を素通りしていた。箱根の外輪山を避けるように小田原の手前の国府津で北に迂回した。今の御殿場線のルートであり、当初はこちらが東海道本線だった。明治期に国鉄駅ができた他の地方都市に比べ小田原は大正になってからと遅かった。それも開業当初は本線から枝分かれした支線だった。

小田原には、国府津駅から東海道に沿って箱根湯本に至る小田原電気鉄道が通った。箱根登山鉄道の前身で、本社は大手門の向かい側にあった。そのすぐ近くには小田原通商銀行が明治30年(1897)に開業した。整理統合を経て明和銀行となり、昭和3年(1928)には同じ場所に本店を新築した。当地では数少ない昭和初期の銀行建築である(図3.旧・明和銀行本店(現・中央労働金庫小田原支店)(出所)令和2年12月19日に筆者撮影)。昭和16年(1941)の合同を経て今の横浜銀行小田原支店となった。横浜銀行は昭和49年(1974)に駅前に移転し今は中央労働金庫小田原支店として使われている。

ちなみに他県を本拠とする銀行では沼津市に本店を構えるスルガ銀行の進出が早かった。大正2年(1913)、駿河銀行(当時)の支店が東海道の本町と甲州道の須藤町にできた。静岡銀行の前身の伊豆銀行、りそな銀行の前身行の一つ安田貯蓄銀行も戦前だ。伊豆銀行は東海道の宮前町にあった。甲州道の一丁田町に店を構えた安田貯蓄銀行は当時の建物が現存する。

図3.旧・明和銀行本店(現・中央労働金庫小田原支店)(出所)令和2年12月19日に筆者撮影

小田原駅の開業と駅前への重心移動

昭和40年(1965)、小田原市の最高路線価は「箱根登山デパート」前だった。今の小田原駅東口、駅前広場ロータリーの向かい側だ。以降ロータリーのどの面かの変化はあるが、現在まで最高路線価地点は小田原駅の前にある。昭和31年(1956)まで運行していた路面電車のターミナル駅でもある。箱根登山鉄道の小田原市内線である。箱根登山デパートは、昭和34年(1959)に路面電車の駅の跡地に開業した百貨店である。昭和40年当時の地域一番店だった。

東海道、甲州道の沿線から駅前に街の中心が移転した端緒が国鉄小田原駅の開業である。国府津駅に遅れること30余年、大正9年(1920)に開業した。当時は、国府津駅から枝分かれし熱海に向かう「熱海線」の仮の終着駅だった。部分開業に伴って、小田原電気鉄道のうち熱海線に並行する国府津・小田原の区間が廃止。代わりに東海道から小田原駅まで延伸し、小田原駅で箱根行に乗り換えできる路線となった。

大正14年(1925)、熱海線が本来の終着点である熱海駅まで開通した。その後、昭和9年(1934)に丹奈トンネルが完成。熱海駅から箱根の山を貫いて沼津に直進するルートが東海道本線となった。それまで東海道本線だった御殿場線は支線となった。つまり小田原駅はわが国最大の幹線である東海道本線の途中駅となった。小田原駅の位置づけが重くなるにしたがって、街の重心も街道沿いから駅前に移っていった。

箱根登山デパートの開業の後、昭和43年(1968)に志澤百貨店が駅前に開店した。駅前に大型店が増えたのはこの年以降10年に集中している。昭和46年(1971)に長崎屋、その翌年にニチイが進出した。横浜銀行が駅前に移った次の年の昭和50年(1975)、駅前広場に丸井が開店した。その翌年には駅前広場の下に地下街ができた。地方都市、それも人口20万人弱の規模での地下街はたいへん珍しい。ほぼ同規模の都市で地下街を持つのは他に富山県高岡市くらいである。

なりわいで見せる街の歴史

令和2年の小田原市の最高路線価地点は「小田原駅東口広場通り」で以前と変わらないが、他の地方都市と同様、全盛期に比べれば勢いの低下は否めない。2000年前後、郊外のショッピングモールにおされるように駅前大型店の撤退が相次いだ。地元百貨店の志澤は平成10年(1998)閉店。その後ニチイの後身のビブレや丸井が撤退するなど、昭和50年にかけて開店した駅前大型店はすべて閉店または業態転換した。青物町はじめ甲州道沿いの商店街は城下町以来の中心商店街だったが、シャッターを閉めたままの店が多くなった。平成25年に認定された小田原市中心市街地活性化基本計画によれば、平成3年から平成19年にかけて年間商業販売額が半分弱に落ち込んだ。空き店舗率は平成15年度で既に9.3%だったが平成23年度は17.9%とさらに悪化している。

中心市街地活性化基本計画は平成29年度で終了。平成30年5月に公表されたフォローアップに関する報告を見ると、商業機能にかかる指標に大きな変化はうかがえない。その一方で市民意識が大きく改善。アンケートの結果、「活気が戻った」、「魅力のあるまちになった」、「このまま暮らし続けたい」と回答した市民が6割を超えた。平成20年度の調査によれば「歴史ある城下町だが、それを活かせない街」という意見が多数あった。フォローアップ報告では、小田原城のリニューアル事業や地下街再生事業が奏功した可能性を示唆している。「生活に便利な店が増えている」という回答もあったようだ。

中心市街地の居住者数は平成元年(1989)の12,000人から平成16年(2004)に10,200人まで下がったが、17年(2005)年から増加に転じ、その後一進一退で推移している。平成29年は10,672人とここ数年は微減傾向だが、市域全体の減少ペースはなお速く、全体に占める中心市街地の住民の割合は高まっている。マンションが増えた。

図4.千度小路(小田原かまぼこ通り・魚がし山車小屋前)(出所)令和2年12月19日に筆者撮影

昭和35年(1960)に再建された小田原城は老朽化が目立っていたが、平成の大改修を経て平成28年に再び公開された。その他にも、歴史ある城下町を活かした街づくりに取り組んでいる。関東大震災で建物は現存しないが、建物よりも長い歴史を持つ無形の歴史遺産が多数残っている。相模湾の漁業、屈指の往来を誇る宿泊拠点を背景とした地場産業である。東海道とこれに並行する千度小路、街の縦軸を成す甲州道を中心に老舗が分布している。蒲鉾は小田原を代表する地場産品だ。その他ういろう、干物、漬物、かつおぶし、小田原漆器や寄木細工など小田原の発展を支えた伝統産業が息づいていている。

老舗の技と商品を歴史的な文脈で再構成し、街に点在しつつも一つのまとまりを持った歴史博物館のように立ち上げたのが「街かど博物館」だ。「街かど博物館」の文字を染め抜いたのぼりが目印で、現在17の老舗が取り組みに参加している。老舗の建物を活かし、販売のかたわら来店客が伝統産業の歴史や製造工程を学べるよう展示に工夫が凝らされている。作業体験ができるところも多い。たとえば、慶応元年(1865)創業の鈴廣は「かまぼこ博物館」という博物館名でかまぼこ、ちくわの手作り体験を開催している。明治に創業した松崎屋陶器店の博物館名は「陶彩ぎゃらりぃ」。ここでは招き猫絵付け体験ができる。伝統産業の「なりわい」の動きをあるがままに観察できる点で、博物館でいえば形態展示に対する「行動展示」に例えられよう。街かど博物館で学べるのは生きた地域史だ。

城下町の時代、国道1号の曲がり角には高札場があった。当時の街の中心ともいえるこの場所に、町家を改装した「小田原宿なりわい交流館(図5.小田原宿なりわい交流館(出所)令和2 年12 月19日に筆者撮影)」がある。昭和7年(1932)に再建された建物で元は網問屋だった。開業は平成13年。1階は無料休憩所、2階は小田原ちょうちんの製作体験など各種イベントが催されるスペースとなっている。伝統的な商家の建築様式、軒先が店の前に突き出た出桁(だしげた)造りが特徴だ。足元には自然石で覆われた溝がある。江戸時代に東海道に沿って布設された小田原用水の送水路を再現している。

成長の時代を過ぎて現れる街の魅力

小田原においても街の中心は街道沿いから駅前に移転した。今も中心に変わりないが郊外大型店との競争を経て中心商業の面では陰りが見える。しかし、それが街の魅力とは必ずしも関係しない。住まう街として別の尺度があることを小田原のケースは示唆している。カギは街の歴史を活かした街づくりである。歴史といっても歴史的建造物が必須なわけではない。建物より古くからある「なりわい」が建造物の少なさを補ってあまりある。街の歴史の「行動展示」だ。成長の時代が一段落したことで、それまで覆い隠されていた街本来の魅力が再び表面に出てきている。「熟成」と言えばよいだろうか、かつて中心地であったところほどそうした傾向がうかがえる。

大型店がたくさんあった時期とは多少異なるが、今でも駅前には活気がある。リニューアルされた地下街は明るく、再開発によって駅ビルの隣に複合施設「ミナカ小田原」が昨年できた。町家が連なる商人町をイメージした低層棟は飲食店・スイーツ中心のモール、14階建のタワー棟には図書館や子育てセンター、医療モールなど生活に必要な要素が揃っている。周辺に住む人が土日祝日に買い物に遊びに来るための中心地から、そこに住み、文化の気風に囲まれながら快適な日常生活を楽しむ場に変わりつつあるようだ。人にとって何が良いと感じるか、街の魅力の尺度もまた然りである。

プロフィール
大和総研主任研究員
鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融