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路線価でひもとく街の歴史 第11回 

「香川県高松市」最高路線価が中心商店街に戻ってきた街

城下町以来の中心軸「丸亀町」

高松城は今治城、中津城と並び日本三大水城と呼ばれる。今でこそ城の北面に道路と港があるが、その昔は城が海に面していた。堀には海水が巡らされている。周辺海域が玉藻の浦と呼ばれていたことから玉藻城の別称がある。人口42万弱の高松市には、財務省の四国財務局をはじめ国の出先機関や、民間企業の四国を統括する支社が多い。今に至る四国の要衝で、城下町の時代には志度街道、長尾街道、仏生山街道、金毘羅街道および丸亀街道の5つの幹線道路の起点があった。讃岐五街道と呼ばれ、いずれも高松城の外堀に架けられた常磐橋が起点だった。橋のたもとに高札があったことから「札の辻」とも呼ばれ、城下町の中心だった。高松城と城下町の境界線でもあった外堀を渡ると、城下町以来の商業中心地だった丸亀町(まるがめまち)に入る。高松城築城の際、今の香川県丸亀市の商人をこの地に移したことが名前の由来だ。讃岐五街道のうち南に下る仏生山街道、金毘羅街道と重なる。外堀は埋め立てられ、今は市内一番の中心商店街「高松丸亀町商店街」となっている。常磐橋の跡は3つの商店街が交差する通称ドーム広場になっている。東向きの長尾街道、志度街道が由来の片原町商店街、西向きの丸亀街道と重なる兵庫町商店街。そして南向きの丸亀町商店街が交差する場所で今も昔も街の中心である。

近代も兵庫町および片原町を東西軸、丸亀町通りを南北軸として発展した。丸亀町通りがメインストリートで、その北端、高松城の前面に香川県庁があった。地元一番行の百十四銀行の創業地も丸亀町通りのドーム広場の近くにある。今の高松支店で、大正15年(1926)に建てられた鉄筋コンクリート造2階建の重厚な銀行建築だ(図5.丸亀町商店街(右手前に百十四銀行高松支店が見える)(出所)竹谷徹氏(百十四銀行)撮影)。昭和41年(1966)に移転するまでここが本店だった。当初の建物は現存しないが、岡山市が本店の中国銀行は昭和5年(1930)以来丸亀町に高松支店を構えている。みずほ銀行の前身のひとつ、安田銀行も丸亀町に店を構えていた。進出行の中ではもっとも古い明治45年(1912)の出店だ。出店時は二十二銀行(本店岡山市)の支店だったが大正12年(1923)に安田銀行が統合した。昭和6年(1931)には三越が開店した。三越の地方店の中ではもっとも早い。丸亀町通りでも県庁寄り、常磐橋の向こう側の「内町」にあり、今も高松を代表する百貨店だ。

戦後も丸亀町が高松市のメインストリートに変わりなかった。昭和45年(1970)の最高路線価地点は「野田屋電気店前丸亀町通り」である。高松丸亀町商店街振興組合の古川康造理事長の御実家だ。正確には「野田屋電機」という。

図1.市街図(出所)筆者作成

駅前・ビジネス街の引力と郊外の席巻

昭和52年(1977)、最高路線価地点が「常磐町1丁目常磐街」に移った。高松琴平電気鉄道(通称ことでん)のターミナル、瓦町駅の駅前の常磐町商店街のことで通称「トキワ街」という。この辺りの区画は戦後の開発で上書きされており、丸亀町ほどには城下町の町割りが残っていない。昭和40年代にダイエー、ジャスコが相次いで進出し賑わっていた。

ただ、この通りが最高路線価地点だったのは13年程で、平成3年(1991)には兵庫町中央通りに移った。中央通りは戦後に完成した50m道路で市街地の南北を貫く。うっそうとしたクスノキの並木道が街の顔にふさわしい。ビジネス街でもあり官庁や民間企業のビルが建ち並んでいる。丸亀町から移転した百十四銀行の現本店はじめ銀行も多く、三井銀行、三菱銀行、三和銀行や日本興業銀行など戦後に進出した銀行は中央通りに支店を出した。戦後、丸亀町通りに並行する新たな南北軸である中央通りができ、それまで商業とともにビジネスの中心地であった丸亀町からビジネス機能が移っていった。香川県庁は昭和33年(1958)に丸亀町通りの北端から現在地に移った。東京都庁舎や国立代々木競技場等の設計で世界的に知られる建築家、丹下健三の初期の代表作だ。平成12年(2000)に22階建の新庁舎ができてからは東館となった。わが国を代表するモダニズム建築として高い評価を得ている。

その後も丸亀町には試練が続いた。郊外店の席巻である。昭和末期からロードサイド店が増えた富山市などと比べれば高松市の商業の郊外化は遅かった。昭和63年(1988)に瀬戸大橋が開通するまでは物流の面で中央資本が進出しづらい地勢だったこともある。それが平成7年(1995)頃から急増した。高松市中心市街地活性化基本計画の資料によれば、店舗面積3,000m2以上の大型店42店の店舗面積が41万m2あるが、その約8割の約32万m2が郊外かつ平成7年以降に開店した店舗である。個別店を見ると平成7年の26,546m2、平成10年(1998)の54,590m2、平成19年(2007)46,849m2が大きい。高松市の中心街を遠巻きにするように大型ショッピングセンターが開店した。商業統計によれば、平成9年(1997)において丸亀町商店街を含めた中心市街地の売場面積が小規模なものを集めてなお16万m2だった。この規模感を踏まえれば、郊外に大挙して押し寄せた大型店がどれだけ大きな影響を及ぼしたかがうかがえる。

図2.香川県庁東館(提供)香川県観光協会
図3.広域図(出所)国土地理院地図の地形及び鉄道・道路網に筆者が加筆して作成

丸亀町商店街の復活

商業の郊外化とともに丸亀町商店街もシャッター街化の道を歩んだのか。否、地元有志の取り組みで復活を遂げ、平成26年(2014)には最高路線価地点が23年ぶりに丸亀町商店街へ戻ってきた。郊外分散と中心商店街のシャッター街化に悩む地方都市が多い中、丸亀町商店街の取り組みに再生のヒントがある。

取り組みを一言でいえば全長470mの丸亀町商店街をAからGまで7つの街区に分け、それぞれ再開発ビルに置き換えたうえで、あたかも一体のショッピングセンターのような経営をした。平成18年(2006)第1号となるA街区の再開発ビル「丸亀町壱番街」が完成。翌年、これに繋がるドームができた(図4.商店街ドーム(提供)香川県観光協会)。アーケードを架け替え、平成24年(2012)に最南端G街区の「丸亀町グリーン」が竣工した。B、C街区も大小の再開発ビルが竣工しており、目下D、E街区の整備が進む。計画は今もって進行中である。

成功要因だが、まず前提となるのが、商店街振興組合の正会員が地権者、オーナーであることだ。それも全員が加盟している点に目を見張る。テナントは賛助会員の扱いである。一般論として、商店街の個店が店を閉めると利害関係が商店主から不動産賃貸業に変わる。そして商店街が元々持っていた雰囲気やコンセプトを顧みず、潤沢かつ安定した賃料が得られるテナントを優先的に入居させてしまう。周囲から浮いたテナント、偏った業種のテナントが入ってしまうことで商店街全体のバランスが崩れてしまいかねない。気が向かなければシャッターを閉めたまま住みつづけることもできる。歯抜けの状態がひとつふたつと増える度に商店街はシャッター街に近づいてゆく。丸亀町商店街の場合、かつての商店主が店をやめてなお商店街振興組合から抜けることなく、オーナーとして商店街全体の利害関係に留め置かれている。

次は所有と経営の分離である。オーナーから利用権を切り離し、店舗経営を商店街が設立したまちづくり会社に委ねる。まちづくり会社は商店街の統一コンセプトに沿ったテナントミックスを講じる。オーナーは原則としてテナントミックスに口を出さないが、テナントミックスが的外れで業況不振を招いたときは責任者を更迭することはできる。まちづくり会社のポイントは店舗の入れ替えだ。コンセプトに合わなくなった店、売上不振の店は入れ替え対象になる。必要に応じて廃業支援も行う。業種業態や規模の大小問わず商業活性化の生命線は新陳代謝だ。新しい業態を誘致するのと同じ、いやそれ以上に廃業支援が重要と古川理事長は言う。ちなみに理事長の実家の野田屋電機も6年にわたり出店していた丸亀町の表通りから横丁の自社ビルに移転した。店頭販売から訪問主体の御用聞きビジネスへ業容を拡大したからだ。

丸亀町商店街は外見こそ商店街だが、その実質はショッピングセンターである。コンセプトに沿った本部主導のテナントミックスを特長とする点でルミネやイオンモールに通じる。要するに商店街とショッピングセンターの「いいとこどり」をしたようなものだ。中心商店街から客足を奪った郊外の大型店の業態こそショッピングセンターである。奪われた客足を取り戻すには同じ業態で対抗するのが筋だ。考えてみれば、百貨店や総合スーパーに対抗する文脈で高度成長期に流行した個人商店の寄合店舗と対照的である。こちらは外見こそショッピングセンターだが寄合店舗の経営に本部の統制を利かせるわけではなく、各個店の自由裁量に任されている。体制面、運営面ともに商店街と変わらなかった。

丸亀町商店街の運営ルールのひとつ、地権者に対する変動地代家賃制も興味深い。所有と経営の分離を経て、オーナーとなった地権者は地代家賃を得るが、その水準は固定額ではなくテナントの業績によって変動する。テナントの売上歩合を反映したまちづくり会社のテナント料から元利返済金や管理経費等を控除した額がオーナーに還元される。オーナーはテナントとリスクを共有することになるので、個店ひいては商店街全体の売上向上に協力的にならざるをえない。地方都市で典型的だが、三セク主導の駅前再開発ビルの失敗例で、契約時に地代家賃を固定してしまっているケースを耳にする。決まった賃料を得られる条件で地権者は再開発ビルの空き室に関心を持たない。テナントが集まらず周辺相場が下がった末、地権者に応分の負担を求めても地代家賃の値下げ交渉に難渋する。そのうちビル経営が逆ザヤになり破たんしてしまうのだ。

丸亀町が示唆する新しい中心地のあり方

「住まう街」を目指しているのも丸亀町商店街の特長だ。かつて県都を代表する繁華街だった頃の、買い回り品や専門品へのこだわりがない。今も、三越と連携したテナントミックス策によって、三越に隣接するドーム広場近辺に一流ブランド店が集積しているが、そればかりでなく生活に必要な普段使いの品揃えを強化している。ベースにあるのは商店街の岩盤支持層たる最寄り住民を増やすことの重要性だ。かつて丸亀町商店街にはピーク時で約1,500人住んでいたという。それが75人まで落ち込んだ。そこで商店街に住む人を増やすため、再開発ビルの上をマンションにした。すでに竣工した4棟173戸は募集即完売。転入者の増加によって居住者数は約1,000人まで戻した。マンションは今後500戸程度まで増える見通しで、計画通り推移すれば居住者数は約2,000人となりピーク時を上回る。

また、衣食住から「医食住」へのコンセプトの下、マンションの下層階に診療所を誘致した。自宅と同じ建物に医療機能があるのは頼もしい。自宅で継続的に在宅医療を受けるとすれば、診療所とマンション層は外来棟と入院病棟と同じ関係になる。医療機関から見れば病棟にかかる投資なしで総合病院を開院するようなもので経営効率が良い。

高松市の場合、ターミナル駅、ビジネス街に移った街の中心が元の場所に戻ってきた。路線価上も地域一番の地位を奪回することができた。他方で郊外の大型ショッピングセンターの集客力も変わらない。中心とはいえ、丸亀町商店街はかつての一極集中時代とは性質が異なる。商店街の売場面積は約2万m2だが、商店街エリアに住む人を含め、売り場を維持するのに必要な採算ラインとして、徒歩10分圏内における居住人口を2万人と見込んでいる。まちなか居住と一体的に考えているのだ。ちなみにJR高徳線と高松琴平電鉄の路線で囲まれるエリアを街の外周とすると半径1kmの円とほぼ同じ。円の中心から徒歩約15分圏内に収まる。首都圏の鉄道の最寄り駅にしてひとつ分と元々コンパクトだ。奇しくも丸亀町商店街の目指す方向性は中心市街地の活性化と大きく違わない。

城下町の時代は言うまでもなく、昭和に至っても、郊外住宅地がまだ発展していなかった頃は、今でいう中心市街地に多くの人が住んでいた。近い将来テレワークが進み、ネット通販で買い物をする世の中になればビジネス街も郊外大型店の意味も薄れてくる。ただでさえ高齢化社会に差し掛かる中、車社会に折り合いをつけ、持続可能性を意識した街づくりが求められている。その具体的な枠組みとして、丸亀町商店街は、コンパクトシティ時代にふさわしい新たな中心地のあり方を示している。

プロフィール
大和総研主任研究員
鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融