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路線価でひもとく街の歴史 第10回

「富山県富山市」 「住みやすい街」のコンパクトシティ戦略

株式会社ウェイブダッシュが地域情報サイト「生活ガイド.com」で調査した「全国住み続けたい街ランキング2020」で富山県富山市が第1位となった。住みよい街、暮らしやすい街のランキングでしばしば目にする富山市はコンパクトな街づくりでも知られている。

伝統的な中心地の総曲輪

昭和35年(1960)の富山市の最高路線価地点は「紀伊国屋染料店前総曲輪通」(図1.市街図)。染料店は当該路線の西端にあった。目印の店は何度か変わったが、平成3年までこの場所が市内で最も高かった。総曲輪(そうがわ)は富山城の外堀の縁の道で名前の通り城域の境界線を示している。地図に示した外堀跡からわかるように往時の富山城は今の城址公園の6倍近く広かった。城址公園の北側、向かい側の県庁・市役所の前に松川が流れる。川べりの桜並木は県内有数の花見スポットで「さくら名所100選」にも選ばれた。今でこそ遊覧船がたゆたう穏やかな川だが、明治の中頃までは県庁の向こう側まで川幅がある大きな川だった。市街の西側を迂回する神通川は元々松川の流れが本流だった。

富山の城下町は蛇行する神通川の河岸につくられた。北と西の守りは盤石な一方、通行不便で水害にも悩まされた。城下町に入るのに神通川を渡るが、川幅広く水量も多いので「舟橋」を架けた。現在の舟橋は街道に架かる橋の名前だが、藩政期は船を横一列に並べてその上に板を敷いた舟の橋だった。最も多いときで64艘が並んだ。富山の城下町は神通川舟運の拠点でもある。川湊はいたち川と合流する「木町の浜」にあった。川湊の後背地には商業が発展し北陸街道に沿って大店が軒を連ねていた。北陸街道と、北陸街道から分岐する飛騨街道が交差する辺りが中心地だった。

明治に入り外堀跡の総曲輪が加わる。総曲輪に続く中央通りは北陸街道の一部で、元々は西から中町、袋町、東四十物町に区分されていた。明治12年(1879)、北陸銀行の前身のひとつの第百二十三国立銀行が創業したのが中町。明治16年(1883)に現在地に本店を移した。現在の本店は大通りを向いているが、当時の地番が袋町だったことから当初は中央通りの側を向いていたとうかがえる。

大正2年(1913)に市内電車が開通。市街を南北に貫く本線、富山城を迂回して富山駅に至る支線が敷設された。両者が交差する西町を中心に総曲輪エリアが以前に増して賑わった。大正12(1923)年に富山初の百貨店「岡部呉服店」が中町で開店。電車通りと中央通りの角にあった。昭和7年(1932)には金沢市に本店がある宮市大丸が西町に支店を出した。宮市大丸は今の大和百貨店である。

川筋跡にできた昭和モダン新都心

富山の街の近代史は神通川の付けかえを抜きに語れない。旧来、蛇行する神通川が氾濫し洪水を起こすのが悩みの種だった。そこで水かさが増したときに湾曲部分を短絡し下流に流す幅2mの分水路「馳越線」を開削。明治36年(1903)に完成した。分水路は段階的に拡幅され、大正の頃にはこちらが神通川の本流になり、元の流路は川筋に沿った窪地になった。

付けかえ工事で旧流路にできた広大な空き地の活用が課題となった。川筋の窪みを埋め立てるのに使われたのが「富岩運河」の開削土である。発着点の富山駅北側と岩瀬港の頭文字にちなんで名付けられた富岩運河は、臨海工業地帯の整備を見込んで計画された。昭和5年(1930)に着工し10年(1935)に完成した。昭和10年、埋め立て地にアーチ式の鋼橋の「桜橋」が架けられた。同じ年に富山県庁が完成。翌年には北陸電力の前身の日本海電気の本社ビルの富山電気ビルデイングが竣工した。この年が事実上の街びらきとなり、埋め立て地の1区画で日満産業大博覧会が開かれた。桜橋、富山県庁、富山電気ビルデイングは現存し国の登録有形文化財に指定されている。

城下町以来の街の外側に今でいう新都心ができた。川筋跡のまとまったエリアに昭和モダンの街が見て取れる。川で分断されていた街が一体化したという意味もあった。明治32年(1899)に開業した国鉄富山駅は蛇行時代の神通川の向こう岸にあった。分水路ができてからは富山駅は神通川の中州にあったことになる。川筋跡の開発によって言わば「島」だった富山駅前と城下町エリアが一体になったのだ。

総曲輪エリアの発展と衰退

戦後も引き続き総曲輪エリアが街の中心だった。中央通りには昭和46年(1971)に長崎屋、総曲輪通りには昭和51年(1976)に西武百貨店が進出。商業中心地としての地位は盤石と思われた。潮目の変化は平成4年(1992)である。最高路線価地点が総曲輪通りから「桜町1丁目白倉第6ビル前駅前通り駅前広場」に移った。駅前広場に面して店舗面積10,000m2級の再開発ビルができた年だ。その数年前に駅ビルの開業もあり駅前エリアの発展は目覚ましかったが、郊外のロードサイド商業集積の攻勢で総曲輪エリアの地位が相対的に低下した側面もあった。

富山市は車社会化が他都市に比べ早いペースで進んだ。世帯当たり乗用車保有台数が1を超えたのは平成元年(1989)。群馬、栃木、岐阜、茨城県に次ぐ5番目だった。その2年前の昭和62年(1987)に全線4車線化を果たした富山高岡バイパスをはじめ、広い道幅の道路が市街地を囲むようにできていった。ロードサイド店は80年代から増え始め、昭和62~63年に2店の大型モールが富山IC近くに出店。商業面積が30,000m2弱増えた。総曲輪エリアの2つの百貨店を合わせてなお上回る商業集積が新たにできた。

90年代は団塊ジュニアの免許取得や軽自動車の普及で一家に2台目の乗用車を持つようになった時代だ。平成10年(1998)に21,000m2、平成12年(2000)には当時県内最大の35,000m2の大型モールができた。他方で総曲輪エリアの衰勢は否めず長崎屋は平成14年(2002年)に閉店。平成18年(2006)には西武百貨店が撤退した。商店街にはシャッターを閉めたままの店が目につくようになった。

図2.広域図

住まう街への再生

富山市は、鉄軌道をはじめとする公共交通を軸に、沿線に商業、業務、文化等の都市機能を集積させる「コンパクトシティ」をまちづくりの基本方針としている。徒歩圏でまとめた都市機能の単位を「お団子」、拠点間を結ぶ公共交通を「串」に見立てた都市構造を掲げている。車社会の課題を見据え、歩いて暮らせるまちを目指す。その中で、総曲輪エリアは住まう街としての再生を目指しているようにうかがえる。このエリアでは再開発が相次いでいる。平成19年(2007)、総曲輪フェリオが竣工し核店舗として大和百貨店が進出以来の地から移転してきた。店舗面積は32,000m2と郊外大型店とそん色ない。大和百貨店の跡地にはTOYAMAキラリが建った。10階建ての3階から6階まで市立図書館である。富山第一銀行の本店も入る。目に見えて増えているのがマンションだ。今年、西武百貨店の跡地が再開発ビル「WAKURU(ワクル)」になった。23階建ての高層マンションで、4階以下が商業施設「SOGAWA BASE(総曲輪ベース)」だ。

図3.路線価の比較は総曲輪エリアの路線価を40年前と比較したものである。閉店時の報道によれば長崎屋の売上ピークは昭和59年(1984)。その前後の商店街の全盛期には最高路線価地点を中心に地価が高いエリアが東西に広がっていた。対して現在は総曲輪フェリオから西武跡地までに限られている。目につくのは路線価10万円未満のエリアが拡大したことだ。中心地としては総曲輪よりも古い中央通りだが、その半分以上が周辺の住宅街に溶け込み同等の価格帯になっている。

住み続けたい街とは

住み続けたい街No1の富山の街。まず言えるのは中心商店街の見た目の衰退が街そのものの衰退とは関係ないことだ。地方都市の郊外化の程度は乗用車の普及率に連動する。富山県は1.7台と福井県に次ぐ2位で、5世帯で3世帯は一家に2台ある計算になる。見方を変えればそれだけ経済力があるということだ。平成29年度の1人当たり県民所得は332万円と全国6位。平成30年住宅・土地統計調査によれば持ち家率は76.8%で秋田県に次ぐ2位だった。住みよい街ランキングでよく取り上げられる指標だ。車社会も豊かさのひとつに違いない。

他方、高齢化が進む中で車社会一辺倒にはリスクが伴う。また、これまで整備した上下水道をはじめ公共インフラの使用効率が低下し行政コストがかさむ。この点、かつての商業中心地を再開発し、生活機能が充実した集住エリアに転換するのは理に適っている。少なくとも、買い物客どうしの肩が触れあう40年前の姿に商店街を戻すことだけが中心市街地活性化ではない。集住エリアとなった中心市街地が車社会の課題を補完しているように見受けられる。

市のフォローアップによれば、富山駅周辺と旧城下町エリアを包含する中心市街地への転入が増えている。富山市の基準地価は、富山駅周辺や市内の路面電車の沿線の上昇が目立つ。団子と串の都市構造は、長い目で見れば、中心市街地の外側に薄く広がる郊外開発に伴う非効率を和らげるはずだ。平成18年(2006)に開業した路面電車「富山ライトレール」も目を引く。富岩運河に並走するJR富山港線を路面電車に切り替え、市民の足として使われるよう15分おきの発着頻度に増やした。沿線は元々工業地帯だったが、その歴史的な役割を終えた今、歩いて暮らせる街に変わりつつある。

街の愛着につながる修景の取り組みも「住み続けたい街」の要素になる。富山駅の北側にある運河の南端は富岩運河環水公園、通称「カナルパーク」に生まれ変わった。運河を借景とした店舗デザインが話題になったスターバックスコーヒーは全国で見られる公園カフェの走りだ。運河の北端の岩瀬地区は歴史的町なみ再生で有名になった。仕掛け人は100年以上続く地元の銘酒「満寿泉」の蔵元である。北前船の寄港地として栄えた岩瀬の街には廻船問屋の流れをくむ屋敷が多かった。平成13年(2001)、古民家を買い取り、リノベーションを施して蕎麦の名店に賃貸した。平成16年(2004)にはそれまで米穀店として使われていた廻船問屋の森家の土蔵群を取得。元来の風情を残しつつ修復のうえ酒専門店、レストランそして地元ゆかりの作家の工房を誘致した。このような具合で修景を進めていった結果、通り一帯が観光客が足を運ぶ新たなスポットに成長した。同じ通りにある金融機関、旅館等も町屋風に改装。富山市の「岩瀬まちづくり事業」の後押しもあった。

今年3月、富山駅の南北で分かれていた富山ライトレールと市内電車がつながった。それまでは富山市が出資する第三セクター鉄道だったが、市内電車と同じく富山地方鉄道の経営となり、名実ともに一体化を果たした。富山ライトレール沿線と総曲輪エリアはいずれもコンパクトシティ戦略のあり方を示している。両者が一体化してどのような相乗効果が現れるだろうか、大きな期待が寄せられる。

図4.岩瀬の町なみ(上)と富岩運河環水公園(下)

プロフィール

大和総研主任研究員

鈴木 文彦

仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融