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危機対応と財政(最終回) 我が国の財政再建とリーダーシップ

国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇

新型コロナ・ウィルスとの闘いは、ワクチン開発に期待がかかるが、当面、冬場の感染拡大が心配されている。この間の各国の財政赤字の積み上がりぶりには著しいものがある。このままでは、やがて財政再建が世界的な課題になり、各国それぞれのリーダーシップが問われることになろう。本稿の最後に、わが国の明治維新期以来の財政再建の歴史と今後直面するであろう財政危機を概観しておくこととしたい。

1.明治時代の財政再建

我が国が近代国家になって最初の財政再建は、大久保利通のリーダーシップによるものであった*1。戊辰戦争で成立した明治維新政府は、戦費を太政官札でまかない財政は大赤字だった。その大赤字を立て直し、近代国家建設の財政的基盤*2を確かなものとしたのは、明治6年度からの地租改正だった。地租と言われても分かりにくいが、要は江戸時代の年貢で、地租改正はそれを倍以上にするという大増税*3だった。大久保は、征韓論のあった明治6年に大蔵卿から内務卿(実質上の首相)に転じたが、明治8年には地租改正事務局の総裁に就任し、大隈重信大蔵卿、松方正義租税頭を指揮して地租改正に取り組んだ。倍以上の大増税だった地租改正には明治6年から14年度までの8年間もの日時を要し、その間には大規模な地租改正反対の一揆(伊勢暴動、真壁暴動等)が起こった。大久保は、明治11年に暗殺されるが、その背景には地租改正への反発もあったはずである。

地租改正が、そのような大増税だったこともあって、明治23年に第一回帝国議会が開かれると、第1回の総選挙で多数を占めた民党は「民力休養・政費節減」のスローガンの下に予算削減を求めて政府と厳しく対立することになった。政府と民党の対立は、明治27年の日清戦争を契機に納まっていくが、日清戦争での清国の敗北は「眠れる獅子」と言われていた清国の弱体ぶりを露呈する結果となって、西欧諸国の極東に対する植民地化の圧力を強めることになり、日本周辺ではロシアの圧力が強まった。そこで求められることになったのが、ロシアを想定しての軍備増強で、そのための財源として更なる地租の増税(地租増徴)が求められることになった。地租増徴は、第2次松方内閣、第3次伊藤内閣が失敗した後、明治31年の山縣有朋内閣に至ってようやくその実現を見た。

そのようにして迎えた日露戦争(明治37-38年)に日本は勝利したが、それは戊辰戦争の時と同様に、戦費を大きな借金でまかなってのものであった。しかも借金の多くが外債だったことから、政府は日本経済の国際的な信用を保つ上から厳しい緊縮財政を迫られることになった*4。そこで行われたのが、陸海軍からの軍備拡張要求を抑えつつの増税(明治39年の西園寺内閣)や地方の自力での財政健全化をうながす地方改良運動(明治41年の桂内閣)であった。しかしながら、そのような厳しい財政政策は、ロシアに勝ったのになぜだということで国民の不満を募らせることになった。そして、その不満が背景となって憲政擁護運動が展開されて大正デモクラシーにつながっていった。税は、マグナカルタ以来、民主政治の発展と密接にかかわってきたが、日本の近代化においても民主政治(立憲主義)の発展に関与したのである*5。

2.大正から昭和にかけての財政運営

時代が大正になって起こった第1次世界大戦で、日本は漁夫の利を得、財政事情は一時劇的に好転した。しかしながら、それが実力によるものでなかったことから、大戦の終了後には経済は戦後恐慌に見舞われ、財政も再び悪化した。そこで行われたのが、大正10年に成立した高橋是清内閣で蔵相となった浜口雄幸*6による緊縮財政(予算削減、官公吏の減俸等)だった。しかしながら財政は、大正12年の関東大震災によってさらに悪化していった。関東大震災は、当時の国民総生産の3分の1にも相当する被害を日本経済に与えたのである。実は、そのような中で成立したのが、戦前のわが国の二大政党制であった。

大正13年の護憲3派の運動による加藤高明内閣成立から8年間が政党内閣時代とされている。この時代の財政運営のトップ・スターが高橋是清だった。今日、高橋は井上準之助の金解禁による不況を克服するために積極財政を断行した大蔵大臣として知られているが、基本的にはそれまでの大蔵大臣と同様の健全財政論者だった。ただ、経済の実態に合わせて柔軟な財政政策を展開する点において、それまでの大蔵大臣とは異なっていた。高橋は、犬養内閣で積極財政を展開した後、斎藤・岡田の各内閣では、軍部の軍事予算増額要求に抵抗して厳しい緊縮財政路線を打ち出したのである。しかしながら、その路線は、2・26事件(昭和11年)で高橋蔵相らが暗殺されるとタガが外れ、その後、軍の暴走による財政悪化に歯止めをかけるものは無くなってしまった。その結果が、国民生活に多大の苦しみを与えた先の戦争への突入であった。

3.戦後の財政運営

先の戦争後、戦争で借金まみれになったわが国の財政再建に取り組んだのは石橋湛山であった。第1次吉田内閣の大蔵大臣に就任(昭和21年5月)した石橋は、復興金融公庫を創設するなどの積極的な経済政策で知られているが、昭和22年度予算では健全財政を目標に掲げ、公債発行抑制のために、所得税の対前年度3.5倍、酒税の6.5倍の大増税、煙草値上げによる専売益金の3倍の増収などを打ち出した*7。石橋は、経済成長と健全財政の両にらみで経済と財政を共に再建しようとしたのである*8。とはいえ、戦後の財政再建の最大の立役者はハイパー・インフレーションだった。軍部の独走を抑えられなかったことによる巨額な財政赤字は、結局のところそのような形で国民の負担によって清算されたのである。

その後、高度成長が始まると、それまで経験したことのないような毎年の自然増収が生じて、明治維新以来、政府を悩ませてきた財政問題は政治の表舞台から姿を消していった。そこで登場してきたのは、自然増収をどう配分するかという問題で、予算面では補助金が、税制面では租税特別措置が活用されることになった。その際生じる各方面の利害調整には、前回ご紹介した与党の事前審査制度などが、大きな役割を果たすことになった。しかしながら、毎年の自然増収をもたらした高度成長は、昭和48年のオイル・ショックで終焉する。それ以降、日本は再び大きな赤字を抱えて財政再建の課題に取り組むことになった*9。

まず打ち出されたのが大平正芳首相の一般消費税であった。しかしながらそれには国民の理解が得られず、大平首相は昭和55年の選挙戦の中で倒れて逝去する。その後、鈴木善幸首相が増税なき財政再建を掲げて行財政改革に着手する。鈴木首相が掲げた財政再建目標(50年代に特例債依存体質から脱却)の達成が不可能であることが明らかとなると、その後を継いだのは鈴木首相の下で行政管理庁長官として行財政改革を手がけていた中曽根康弘であった。中曽根首相は、国鉄・コメ・健保の3K改革を強力に推し進めると同時に負担面についても抜本的な税制見直しが必要としてその改革を国民に訴えた。しかしながら、負担面での改革についての国民の理解は得られなかった。

中曽根首相を継いだのは、中曽根首相の下で大蔵大臣を務めていた竹下登*10であった。竹下首相は、消費税への国民の理解を得るために幅広く議論を行い*11、平成元年に所得税の減税などと組み合わせて全体として減税超過の下での消費税導入を行った。消費税は、小さく生んで大きく育てるとして当初3%で導入され*12、その後、平成6年からの自民・社会・さきがけ(自社さ)の3党連立による村山富市首相(武村正義大蔵大臣)の下で5%に引き上げられた*13。

4.財政構造改革の挫折

消費税の導入が減税超過で行われ、5%への引き上げも所得税の先行減税とのセットで行われたことから、わが国の構造的な財政赤字体質は残されたままとなった。その改革に取り組んだのが、自社さ連立政権の橋本龍太郎首相による財政構造改革であった*14。それは、EUでのユーロ導入を契機として世界的に財政健全化が大きな流れとなり、サミットでも「信頼できる財政健全化計画」が提唱される中でのことであった。平成8年10月に行われた衆議院議員選挙において、自民党は「財政のあり方についての合理的な基準や中長期的な財政再建計画、財政再建法についても検討する」との公約を掲げて239議席を獲得し、選挙後に結ばれた自社さの3党合意には財政再建の方針が盛り込まれた。平成9年度予算(対前年度+3%)についての年頭のマスコミ評価は、おしなべて諸外国が財政再建を進めている中で、「歳出削減が不十分で到底財政再建元年度予算とはいえない」との厳しいものであった。その1月には、橋本首相を議長に、歴代の自社さの首相、大蔵大臣などをメンバーとする財政構造改革会議*15が設置された。同年春に、平成8年の我が国の経済成長率がG5諸国中で最高だったことが明らかになると、武村前大蔵大臣は財政制度審議会答申が2005年度までの8年間で財政再建を図るとしていたのを、2003年度までの6年間に前倒しする案(前3年を集中改革期間とする)を提言した。そのような中で出来上がったのが、橋本内閣の財政構造改革法で、公共事業をバブル崩壊対策前の水準に削減し社会保障費の伸びも厳しく抑制するといった包括的な財政再建策を打ち出していた。しかしながら、同年末に山一證券の破綻などをきっかけに金融危機が起こり、それにアジアの金融危機も重なって経済に不況の色が濃くなっていくと財政構造改革法は凍結されてしまう。

その後、財政再建に取り組もうとしたのが、橋本首相を継いだ小渕恵三首相*16であった。小渕首相は、まずは「二兎を追うものは一兎をも得ず」として経済再建に全力を傾注し、9兆円もの「恒久的減税」を断行した*17。しかしながら、他方で「財政再建は一時も私の頭から離れたことはありません」として、財政赤字の最大の要因である社会保障についての問題を考える検討会を立ち上げるなど財政構造についての議論を深めていった。そして、デフレが依然続いていたとは言うものの経済成長率がプラスに転じた平成12年の2月には、訪問した沖縄でのインタビューに応えて財政再建の必要性を訴えた*18。しかしながら、その2か月後の同年4月、小渕首相は急逝し、財政再建に着手することはなかった*19。

その後の小泉純一郎内閣では、デフレ脱却が進まない中で「経済再建なくして財政再建なし」との路線が打ち出された。歳出面では年金制度などについて様々な改革が行われ*20、徐々にデフレ脱却の兆しも見えるようになっていったが、平成20年のリーマンショックで経済状況は再び暗転する。そのような中で喫緊の課題となったのが、少子化が進む中での社会保障制度の持続可能性であった。平成19年の福田康夫内閣以降、麻生、鳩山、菅、野田の各内閣で、与野党間において様々な議論が行われ、平成24年、民主党の野田佳彦内閣の時に三党合意*21が成立し、社会保障と税の一体改革が合意された。同合意で、消費税については、税率の5%から10%への引き上げが決定され、その後、自公連立の安倍晋三首相の下、平成26年4月に8%に、令和元年10月に10%へと引き上げられて今日に至っているのである。

5.MMT理論について

今日、世界中で新型コロナ・ウィルス対応のために財政悪化が急速に進んでいるが、そのような中で、財政悪化を心配する必要がないとするMMT理論が我が国で注目されている。現代貨幣理論と訳されて、いかにも新しい説のように聞こえるが、筆者がみるところ、要するに軍票の発行理論である*22。これは、今年の財政学会の分科会でのMMT理論に関する研究発表(「財政黒字危機論の検討」慶応義塾大学大学院早崎成都奨励研究員)を聴いての筆者の理解である。発表で、MMT理論では国家の通貨発行に制限はないとの説明が行われたのに対して、筆者からそれは日銀による公債の直接引き受けが自動的に行われるようなものかとの質問を行った。それに対する早崎研究員の答えは、MMT理論では、政府と中央銀行は一体と考えられているので、そもそも公債の中央銀行引き受けという概念自体がないということであった。そして、租税は、そのようにして発行された通貨を、インフレを制御するために市場から回収する手段だということであった。筆者がこの説明から理解したことは、MMT理論が想定しているのは、中央銀行の関与しない通貨発行で、それは軍票の発行と同じと考えれば分かりやすいということであった。

日本は、江戸時代、中央銀行のない中で、先物取引をはじめとする高度の金融取引を発達させてきた国である。また、先の戦争においては、多額の軍票を発行して占領地での戦費をまかなった国である*23。明治維新政府の発行した太政官札も実態は軍票であった。実は、欧米諸国も第2次世界大戦ではみんな軍票を発行していた。新型コロナ・ウィルスとの戦いは、戦争のようなものである。とすれば、そこで、日本を含めた各国が軍票のようなものを発行するのはむしろ当然と言えよう。MMT理論は、そのような有事における財政運営を理論づけていると考えられるのである。しかしながら、戦争が終わって軍票を発行し続ける国はない。平時においては、中央銀行がその受け入れる金融資産見合いで通貨を発行し安定的な金融政策を行うというのが、歴史上確立されてきた仕組みである。とすれば、中央銀行にその役割を期待しないMMT理論は、平時における理論としては無理があるといえよう*24。

MMT理論は、租税をインフレを抑制するために市場から過剰となった通貨を回収する手段として位置付けている*25。しかしながら、租税を課すための政治的意思が常にあるとは限らないともしている*26。それは、インフレを抑制するために増税が求められる時に政治的な意思がないとなれば、経済が破たんしてしまうことを容認しているということである。それは、経済・財政政策をつかさどるものにとっては、極めて無責任な理論といえよう*27。財政再建におけるリーダーシップの問題から目をそらした、占領地における軍票発行といった非常時にしか通用しない理論だということである。

6.今後のわが国の財政危機

本稿の最後に、今後のわが国の財政危機について述べておくことしたい。それは、このままでは、国民負担が極めて重くなる中で、将来世代が財政再建に直面しなければならなくなるるというものである。

図表1は、いわゆる天の川のグラフと言われるもので、財務省のホームページにある「日本の財政関係資料」の中の「OECD諸国における社会保障支出と国民負担率の関係」のグラフである。このグラフは、現在の給付と負担のバランスが不均衡になっており、制度の持続可能性を担保するためには、社会保障関係支出の改革が急務だといったことを説明するために使われているものである。同グラフの横軸を国民負担率から潜在的国民負担率に変えたのが図表の2で、政府規模が潜在的国民負担率であらわされることから、我が国の政府規模がどんどん大きくなっていることを見て取れるグラフになっている*28。

図表1のグラフで、1990年以降、矢印が垂直に上がっているのは、1990年以降、社会保障関係支出の増大に見合う負担を国民に求めることなく、将来の子供たちの負担になる借金回しにしてきているからである。図表2から見て取れるのは、そのように借金回しにしても政府規模がどんどん大きくなっていくのは避けられないことから、2060年には我が国の実質的な国民負担は、今日のどの西欧諸国よりも大きくなっていってしまうことである。

IMFの財政報告書(2020.10.14)*29は、わが国の政府債務が、今年、GDP比で266%に膨らむと予測している。これは、先の戦争の終結時の204%を大きく超えるものである。先の終戦時の204%の政府債務は、そのほとんどがインフレによって帳消しにされた。しかしながら、今日、そのようなことが許されるとは思われない。となると、このままでは2060年には国民は、今日よりもさらに巨額になっている政府債務を、今日のどの西欧諸国よりも大きくなっている国民負担の下で縮小させていくという困難な作業に直面させられることになる。その時の国民の負担を、少しでも軽くするために今の国民に求められるのは、経済の成長力を強化しつつ財政の健全化にも取り組んでいくことであろう。明治維新期には、まずは地租改正という大増税で経済成長のための財源確保が行われた。明治維新では、坂本龍馬が活躍し、勝海舟が西郷隆盛との間で江戸城の無血開城を実現したら、すぐに文明開化の経済成長が始まって、人々は豊かになったと思っている人が多いが、それはテレビドラマの中での話である。実際には、大久保利通のリーダーシップの下、全国各地で筵旗が立つような反対を乗り越えた大増税で財源を確保して、初めて目を見張るような経済成長が実現したのである。その大久保は、暗殺された*30。これから、我が国のリーダーが立ち向かわなければならない財政危機克服と経済成長の実現という二つの課題は、極めて困難なものだということである。そのリーダーシップを支える財政関係者の責務もまた極めて大きいというべきであろう。たちまち求められるのは、長期戦の覚悟であるが、長期戦は日々の戦いの積み重ねである*31。そして、民主政治の下、そのような戦いを支える原点は国民の理解である。本稿をスタートした5月時点で世界最下位とされていた新型コロナ・ウィルス対応についてのわが国の国民からの評価は、その後いく分変化を見せている*32。日々の対応によって変化していったのである。

図表1.OECD諸国における社会保障支出と国民負担率の関係

図表2.OECD諸国における社会保障支出と潜在的国民負担率の関係*33

*1)明治6年に征韓論で西郷隆盛らが下野した後の明治政府は、大久保が絶対的な権威を確立して大久保独裁政権と呼ばれた。大久保は、西郷人気の陰に隠れて人気がないが、筆者のふるさと鹿児島の生んだリーダーの一人である。

*2)戦後独立したアジア・アフリカの多くの国々が、植民地時代に宗主国が築き上げたモノカルチュアの経済を前提とする貿易からの関税収入に国家建設の財源を求めたのに対して、安政5年(1958年)の不平等条約(日米修好通商条約)で関税自主権を失った明治日本は、内国税に国家建設の原資を求めざるを得なかった。

*3)地租収入は、明治5年度の2005万円が、地租改正初年度の明治6年度に5060万円と2.5倍になっている。

*4)当時、成長のために必要な外資を導入するためには金本位制の維持が必須とされ、金本位制を守るために緊縮財政が求められた(「恐慌に立ち向かった男 高橋是清」松元崇、中公文庫、2012、p106-107、249)

*5)「税は国の基」である。それは、筆者が大蔵省(当時)に入って最初に配属された主税局調査課の佐藤光夫調査課長の言葉であった。佐藤課長は、当時IMF帰りのエコノミストで、あるべき日本の税制について日々議論しておられた。

*6)濱口は、昭和5年の「統帥権干犯問題」で有名だが、それも財政再建のための財源確保を念頭にロンドン軍縮会議に取り組んだからであった。

*7)「現代日本財政史(上)」鈴木武雄、東京大学出版会、1952、p304-307

*8)「石橋湛山の財政思想 戦後復興の基礎の形成」松元崇、日本財政学会第77回大会、2020

*9)筆者が大蔵省(当時)に入省したのがこの時期(昭和51年)である。当時の主税局長室(大倉真隆局長)では、ヨーロッパ諸国が導入しているのと同じような付加価値税を導入しないと、日本企業が国際的な競争の中で不利になるといった議論が行われていた。

*10)「言語明瞭、意味不明」といわれた竹下元首相の、日本型コンセンサス形成の手法の一端を垣間見させていただいたエピソードとして筆者の印象に残っていることに、財政構造改革会議の説明でご自宅に伺った際の以下のような話がある。「政治家は、いろいろな陳情を受ける。中には無理なものもある。そんな陳情者には、ああ、竹下先生に分かってもらえて良かったと思って帰ってもらう。そして、家に戻って風呂にでも入っているうちに、ひょっとして今日の陳情は無理だと断られたんだろうかと思い返すようにできれば上等だ」というのである。そのお話しの背景には、日本語の奥深さがあるように思われた。

*11)竹下首相は、自ら全国各地で税制改革懇談会(「辻立ち」)を行い、国民に税制改革の必要性を訴えられた。

*12)消費税が導入された翌年の選挙では、自民党税調のドンと言われていた山中貞則代議士(鹿児島県選出)が「消費税は日本の、そしてふるさと鹿児島のために是非とも必要だ」と熱心に訴えられたが、落選された。

*13)この時、筆者は主税局で与党税調担当として関与した。

*14)この時、筆者は主計局の調査課長として関与した。

*15)会議には、元首相、元蔵相、3党幹事長、3党政調会長といった政治家が勢ぞろいした。会議を取り仕切ったのは、梶山静六官房長官と与謝野馨官房副長官であった。梶山長官は、「俺の目が黒いうちに財政再建の道筋だけはつけておきたい」とおっしゃっていた。

*16)小渕元首相は、「偉ぶらず、常に謙虚で目線を低く生きる、そうした姿勢で凡庸に見えて非凡という境地を開かれた(衆議院本会議における村山元総理の追悼演説)」リーダーであった。

*17)この時、大蔵大臣に迎えられた宮澤元首相は、首相経験者で大蔵大臣になったのが同じということで「平成の高橋是清」と言われて積極財政を期待されていた。ところが、調査課長だった筆者が調べてみると高橋財政期は「緊縮財政の時代」と言われていた。それが、筆者が財政史を研究することになったきっかけである。

*18)田原総一郎氏によるインタビュー

*19)毎日新聞の中島章雄記者(当時)は、「小渕さんは『国民に対して財政再建のめどをつけないで辞めるというのは、バラまいた立場から言えば申し訳ない』と率直に語り、『だから、その責任を負っているから歯を食いしばってでもやらなければならない』と語気を強めたのだ。飄々とした外見からは想像もつかない厳しい言葉だった」(毎日新聞2000年5月14日)と述べていた。

*20)塩川正十郎、谷垣禎一両財務大臣の下、マクロ経済スライドを導入する年金制度の抜本的な改革などが行われた。

*21)3党のリーダーは、野田佳彦首相(民主党)、谷垣禎一総裁(自民党)、山口那津男代表(公明党)であった。

*22)ポール・クルーグマンは、MMT理論を第2次世界大戦中にアバ・ラーナーが唱えた「機能性ファイナンス」と同じような理論だとしている(「ゾンビとの論争」ポール・クルーグマン、早川書房、2020、p182-185)。MMT理論が、まともに議論されているのは米国と日本だけとのことである。米国の議論の背景には、米国が第1次世界大戦の直前まで中央銀行制度を持たなかった国であり、今日でも制度上は中央銀行券と並んで政府紙幣の流通が認められている国であることがあろう(「持たざる国への道」松元崇、中公文庫、2013、p270-274)。

*23)日本の軍票発行については、昭和財政史(戦前編)第4巻 臨時軍事費 第6章 戦地の軍事支出と軍票、参照。

*24)MMT理論が、中央銀行の役割に期待しない背景には、中央銀行の金融政策をめぐる状況が、近時、大きく変わってきていることがあるとも考えられる(「リスク・オン経済の衝撃」、松元崇、日本経済新聞出版社、2014、第1章、知られざる金融政策大転換の本質)。金融政策をめぐる経済理論の混乱については、前掲「ゾンビとの論争」第32章、参照。

*25)MMT理論は、無税国家を提唱するものではない。しかしながら「国の基」である税を「通貨回収の手段」としか位置付けないMMT理論からは、民主的なリーダーシップを導き出すのは難しいと考えられる。なお、MMT理論は、中央銀行制度を否定しているものではない。

*26)クルーグマンは、MMT理論と同様の「機能性ファイナンス」理論が増税が必要になった場合の政治的困難について一切触れていないことを批判している(前掲「ゾンビとの論争」)。

*27)筆者が、MMT理論を無責任だと感じたのは、MMTの論者がシムズ理論との関係について論じないことからである。我が国で主張されているMMT理論では「我が国はデフレ下にありインフレになりそうもないのでいくら国債発行をしてもいい」というのに対して、シムズ理論ではインフレになるのでデフレ脱却のためにどんどん国債を発行すべきだとしている。全く正反対の主張なのである。

*28)潜在的国民負担率は、税と社会保障の合計である国民負担率に将来世代の負担になる公的債務を加えたもので、それによって政府の歳出が賄われることから政府規模をあらわすものになっている。

*29)同報告書は、2020年の世界全体の政府債務が、世界の国内総生産(GDP、約90兆ドル)にほぼ匹敵する規模になると予測している。

*30)大久保利通は、明治11年5月14日、暗殺される朝、以下のように述べていた。「明治元年ヨリ十年ニ至ルヲ第一期トス.兵事多クシテ則創業期間ナリ.十一年ヨリ二十年ニ至ルヲ第二期トス.第二期ハ尤肝要ナル期間ニシテ内治ヲ整ヒ民産ヲ殖スルハ此時ニアリ.利通不肖ト雖モ、十分ニ内務ノ職ヲ尽サンコトヲ決心セリ.二十一年ヨリ三十年ニ至ルヲ第三期トス.三期ノ守成ハ後進賢者ノ継承修飾スルヲ待ツモノナリ」。

*31)財政構造改革会議を取り仕切った与謝野代議士が、筆者に勧めたのは、フランス革命の時代、日々の戦いを生き抜いた政治家について書かれた「ジョセフ・フーシェー ある政治的人間の肖像、シュテファン・ツワイク、岩波文庫、1979)」であった。

*32)コロナ民間臨調報告書(小林喜光前経済同友会代表幹事委員長、2020年10月)には、「泥縄だったけど、結果オーライだった」との官邸スタッフの言葉が紹介されている。

*33)財務省の資料を基に、日本を含めて各国の年次を出来る限り直近のものとしている。スウェーデンについては1995年を加えて2018年までの間を矢印で結んでいるが、それはスウェーデンが経済成長を実現して国民負担率を下げてきたことを示すためである(日本経済新聞、経済教室、2019.11.1参照)