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路線価でひもとく街の歴史 第9回

「熊本県熊本市」 再開発が織りなす街の発展史

九州島の真ん中に鎮座する阿蘇山。広大な活火山を擁する火の国の県都の熊本市には明治の昔から九州を代表する国の出先機関が置かれた。明治4年(1871)、九州全域を管轄とする第六軍管の鎮台が熊本に設置され、後の第6師団司令部となった。旧制高校、いわゆるナンバースクールも熊本にあった。旧制五高は文豪夏目漱石やラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が赴任したことでも知られる。現在は九州農政局、九州総合通信局などが熊本にある。財務省の地方支分部局の九州財務局もある。福岡に北部九州を管轄する機関があるがこちらは財務支局という。

坪井川舟運で栄えた唐人町

その熊本の最高路線価は「手取本町下通り」にある。昭和35年(1960)を調べると「手取本町新世界グリル前」だった。屋上に展望台がある6階建のビルにあった新世界グリルは、下通りと市電が走る道路の南東角、今年閉店した熊本パルコの場所にあった。要するに戦後通じて熊本の一等地は変わっていない。下通りは今も昔も市内で最も賑やかな商店街で、当時は昭和27年(1952)に創業した百貨店「大洋デパート」が客足を牽引していた。

それより前、明治大正期は下通りから歩いて20分ほど南の古町界隈が熊本の中心地だった。ここは坪井川の舟運の拠点で、なかでも川筋に沿った道の唐人町通りが栄えていた。古町は商業地であると同時に寺町でもある。碁盤の目の区画で、正方形のマス目の各々の中心には寺があった。古い地図を見ると細胞と核のようだ。薩摩の国を仮想敵とする防衛上の理由といわれる。また、古町界隈には銀行が集積していた。昭和35年時点ですでに街の中心は下通りに移っていたが、戦前に進出した銀行は引き続き同じ場所で営業しており、中心地の機能の一部、金融機能は往時の建物とともに残っていた。その一部は現存し、かつての中心街の風情を今に伝えている。

明治10年(1877)に架橋されたことにちなみ名付けられた「明十橋」は、皇居の二重橋を手掛けた石工、橋本勘五郎による石造の眼鏡橋である。橋のたもとには大正8年(1919)に建てられた第一銀行熊本支店があった。その後、取り壊しの危機に瀕したこともあったが、市民団体の尽力で免れた。国の登録有形文化財に指定され、連続するアーチ窓が特徴の鉄筋コンクリート2階建は今も現役のオフィスビルである。坪井川にかかる眼鏡橋と銀行建築の構図は、熊本の近代を代表する古町の風景となった(図1.明十橋と旧第一銀行、(出所)熊本市)。

古町の電車通りには富士銀行(今のみずほ銀行)があった。大正14年(1925)築の近代建築だったが後に解体され今は消防署になっている。新築時は長崎市に本店を構える十八銀行の支店で、昭和18年(1943)の営業譲渡で安田銀行の熊本支店となった。安田銀行は戦後に改称する前の富士銀行である。なお安田銀行は大正12年(1923)に旧肥後銀行(現在の肥後銀行とは別)との合同を機に進出。当時は八代、人吉支店はじめ県内に10を超える拠点があった。

富士銀行の対面には住友銀行があった。その後再編で三井住友銀行となり、支店自体は平成30年に移転したが昭和9年(1934)築の建物は現存する。鉄筋コンクリート造3階建。アーチ状の柱が印象的なギリシャ様式で、今後も保存される見通しだ。昭和35年当時の路線価図を見ると、古町界隈で最も高かったのは富士銀行と住友銀行に挟まれた電車通りだった。同じ通りには、熊本県が地盤の肥後銀行の創業地もある。大正14年(1925)、熊本銀行その他2行が合併し肥後協同銀行を設立した年をもって同行の創業年としている。昭和35年時点ですでに本店は練兵町に移転し創業地は紺屋町支店となっていた。

図2.熊本市街図(出所)筆者作成“旧〇〇”は建物が現存。”〇〇跡”は解体済の意

戦前の再開発

戦後、古町から下通りに街の中心が移転した背景には明治後期から昭和にかけて実施された2つの再開発事業がある。その前は、城の丘と白川に挟まれて細い地勢の中、下通りと古町の間を半ばふさぐように第6師団の施設があった。そこで練兵場、次いで歩兵第23連隊が郊外移転し、跡地に新しい街がつくられた。

今の桜町、辛島町、練兵町にほぼ重なる練兵場の跡地開発事業の着工は明治32年(1899)。辛島公園の場所にロータリーが配置、ロータリーを中心に格子状の区画に整理された。熊本城を臨む南北の軸線が現在の「シンボルプロムナード」である。昨年、複合施設「サクラマチクマモト」が開業した西北のブロックには煙草専売局が置かれた。再開発でつくられた新しい街を「新市街」といった。その一部が町名そしてアーケード商店街の名前として今に残っている。昭和5年(1930)には銀丁百貨店が開店。様々な商店、映画館や飲食店が軒を連ねる繁華街となった。銀丁百貨店は大正5年(1916)に創業した熊本初の千徳百貨店とともに戦前に開業した百貨店だが昭和51年(1976)に閉店。映画館も1軒残して撤退し、かつての映画館街とは様子が異なっている。

歩兵第23連隊の跡地開発は大正末期から昭和にかけて実施された。大正14年(1925)、「熊本市三大事業記念国産共進会」が開催された。自治体が主催する博覧会で1か月半の会期中133万人の入場者があったようだ。ここで三大事業とは大正13年に開通した市電事業、給水開始した上水道事業、そして共進会の会場となった歩兵第23連隊の移転事業である。終了後に区画整理され、今につづく花畑町のオフィス街ができた。オフィス街を南北に貫く幅員50mの電車通りもその際にできた道路だ。市電の開業時は今のシンボルプロムナードを通っていたが、50m道路の開通を機に現在の電車通りに付け替えられた。

再開発エリアに銀行も移ってきた。昭和8年(1933)に日本勧業銀行(みずほ銀行の前身行のひとつ)が花畑町に店舗を新築し唐人町通りから引っ越した。昭和26年(1951)には肥後銀行が練兵町の現在地に本店を移した。このように、練兵場、歩兵第23連隊の跡地に新しい街ができ、市電開通をきっかけとして街の中心は古町界隈から下通りに動いていった。

熊本の拠点性とその背景

平成24年4月、熊本市は政令指定都市に移行した。もっとも熊本は福岡や小倉と並ぶ地域拠点の歴史を持ち、移行の前から人口規模の割に都市の拠点性が高かった。最高路線価でいえば、熊本に最も近いのが東北地方の拠点都市の仙台だ。図3.(熊本と仙台の最高路線価の推移、(出所)国税庁路線価より筆者作成)のように、仙台は熊本に比べ不動産市況に敏感という違いがあるが、地価高騰期を除けば概ね同じ水準で推移してきた。昭和55年から60年、平成10年から17年にかけて熊本の最高路線価が仙台を僅差ながら上回っていた。

最高路線価地点(下通りファインビル前)の日曜日の通行量は令和元年で47,820人だった。この場所は平成15年頃まで50,000人弱で推移してきたが、平成16年、17年の郊外大型店の開業に伴って減少し、平成22年には32,000人台まで落ち込んだ。その後持ち直し、下通りのダイエー跡地に複合商業施設COCOSAがオープンした平成29年には記録が残る過去40年で最高の56,000人となった。ちなみにダイエー跡地は前述の大洋デパートの跡地でもある。大洋デパートは昭和48年(1973)の火災が引き金となって廃業した。

全国の地方都市と同様に、熊本も既存市街地を遠巻きにするかたちでバイパス道路、さらに外側には高速道路が開通している。郊外に県庁が移転し、大型モールも進出した。それでも中心市街地が比較的拠点性を保っている。旧国鉄駅と離れているのも一因だろう。JR熊本駅は下通りから約3.5km離れており、それぞれ約2.5kmの距離がある天文館と西鹿児島駅、香林坊と金沢駅の間より長い。距離の分だけ駅の引力が弱かったと思われる。

また、交通ターミナル機能が熊本においては旧国鉄駅だけでなく下通り近辺にあったと考えられる。市電が中心地と郊外をつなぐ役割を担ったとすればそのターミナルは下通りとなる。さらに今のサクラマチクマモトのある場所は昭和44年(1969)以降わが国最大級のバスターミナルが設置されている。開設当時の熊本交通センターバスターミナル、今の熊本桜町バスターミナルだ。一見、熊本の中心地の移動は舟運から鉄道へ交通手段の変遷と関わりないようだが、駅の機能に着眼すればやはり熊本の街の中心も交通手段の変遷に関係があるといえそうだ。

令和の再開発が示す街の未来像

近現代にかけて熊本の市街地は再開発事業を機に発展してきた。令和に至り、練兵場、歩兵第23連隊の跡地が再び生まれ変わろうとしている。桜町地区市街地再開発事業だ。戦後、当地は県庁からバスターミナルになり、域内に百貨店があった時代も長かった。それが昨年一変、バスターミナルに複合商業施設、ホールなど様々な機能を備えたサクラマチクマモトに生まれ変わった。

それより少し前、平成27年に肥後銀行の本店が新しくなり、周囲の風景が大きく変わった。練兵場跡地開発の南北軸となった道はシンボルプロムナードとなり、軸線上に熊本城を眺める歩行者向けの道になる。花畑公園など園地を組み合わせ、シンボルプロムナードと電車通りの間をオープンスペース化。辛島公園を含め周辺を一体的なエリアとする。「熊本城と庭つづき、まちの大広間」をデザインコンセプトに令和3年の完成を目指している。歩行者優先の新たな中心軸をつくることで、熊本の近代を代表する古町と現代の中心地の下通りがその両翼となる。言い換えれば中心軸をつくることで両者が一体化することになる。

路線価に現れる上乃裏通りの再生

現在の古町はマンションが林立する都心の住宅街の印象だ。解体を免れた歴史的建造物が点在するのも趣を高めている。住まう街として中心街とは違った魅力がある。最後に、熊本で見られる市街地の再生事例として「上乃裏通り」についても触れておきたい。下通りの電車通りを挟んで向こう側にある上通りは、、下通りと同じく中心商店街を形成している。途中まではアーケード、その向こうが並木道になっている。「上乃裏通り」はその一筋東の道で、その名の通り上通りの表通りに対する裏通りの意味あいだ。ここには以前から古い民家や倉庫、旅館が建ち並んでいた。中には築100年以上の建物もあった。こうした古い建物をリノベーションした雑貨店、ブティック、カフェ・レストランが増えてきた。店が店を呼ぶかたちで個性的な店が少しずつ集まってきて、いつの間にか若者の支持が高いファッショナブルな通りとなった。

興味深いのは、並行する上通りとアーケードが途切れた先につづく並木坂通りの路線価が下落傾向にあったときに上乃裏通りの路線価は上昇していたことだ。どちらも上昇傾向にある直近10年を比べてみても上通り、並木坂通りの伸び率が約4割なのに対し、上乃裏通りは約8割と上回っている。街の再生は路線価にも現れている。街づくりのヒントとして考えれば、路線価は街づくりの成否を示すということだ。

老朽化を逆手に取った戦略の妙だが、伝統的な一等地の下通り、上通りに比べれば家賃水準が低く、新規開業のハードルが低いことも一因だろう。旧来のしがらみがないことも新規参入には有利にはたらく。また、郊外にせよ都心にせよ商店街に対するショッピングセンターの強みは一定のコンセプトで統一され整然とした売り場と、顧客ニーズないし売上成績を反映したテナント入れ替えだ。他方、自然発生的な商店街にはそうした統制がない代わりにある程度の自由が利く。言い換えれば個性の強い店でも生き残れる。郊外の商業集積におされがちの中心市街地だが、裏通りならではのポジションを獲得し新しい店が次々開店する上乃裏通りを歩くたび、郊外にはない新たな役割があることを認識させられる。

図4.上乃裏通り(出所)平成29年3月に筆者撮影

プロフィール

大和総研主任研究員

鈴木 文彦

仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融